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第九章 鬼起つ
20 ルシエンテスへ
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圧倒された。
沖に見える堤防を洗う大波、背後に連なる山並みの濃い緑、頭上に広がる鉛色の雲、そして生臭みを帯びた磯の香り。
ここはルシエンテス子爵領の南端のスル岬に近い漁港の町。
昨夜遅くに町の小さなホテルに宿をとったアマンダとミランダは名物だという焼き魚の朝食を済ませた後、港まで歩いて来たのだった。
ミランダは残念そうに言った。
「もう少し波が穏やかなら漁師の妻たちが海に潜ってウニやサザエを取るところが見られるのですが、生憎の天気でしたね」
「陸の上も寒いのに海に入るなんて」
スル岬はクライフの南極に近いのでこの辺りは一年を通じて平均気温は低い。アマンダもミランダもコートを着て手袋をしている。
「地球の日本にはアマといって海に潜って貝の類を取る女性がいたそうです。この周辺の人々はその子孫です。少しくらいの寒さも平気だとか」
「凄いのね。あれは漁船? こんな波でも出るのね」
「はい。漁師はこれくらいの波なら平気なのです」
「皆働き者なのですね」
「はい。夫婦だけでなく子どもも年寄りも家族そろって働かねば暮らしが成り立たぬのです」
働き者という言葉は聞こえはいいが、子ども老人まで総出で働かねばならぬというのは決して望ましい話ではない。思えばサパテロ一家はヨハネスの街で父一人の働きで子ども三人に不足のない衣食と教育を得られた。子ども達は学校に行き、街の老人たちは仕事を引退しカフェでのんびりと過ごしていた。だが、ここでは家族総出で働かねば暮らしが成り立たぬという。
「それはなんとかしなければ」
「海は難しいのです。自然が相手ですから。不漁の年もありますし」
「それは農業も同じ。ということは農耕地帯もそうなのですね」
「はい。私の家もそうでした。学校が終わったら畑仕事を手伝っていました。幸い豊作が続いたので私は進学できました」
そこまで言ったミランダは振り返った。何だろうと思ってアマンダも振り返った。大柄な色黒の男性が近づいてくるのが見えた。背筋をぴんと張り手を振る歩き方がどこかサカリアスに似ているところを見ると、彼は軍隊にいたらしい。
「こちらにおいででしたか」
コルテス代理管理人だった。昨夜この町に到着したことを連絡し、明日ルシエンテスに行くと伝えたばかりだというのに。200キロ以上離れたこの町に来るには未明にルシエンテスを出なければならないはずである。
「お姫様、ナロス夫人、ようこそ、ルシエンテスへ」
腕を胸の前に出し恭しく頭を下げたコルテスだった。
「おはようございます。わざわざの出迎えありがとうございます。暗いうちに出て来て大変だったのではありませんか」
代理管理人は滅相もないことでございますと恐縮しきりだった。
「幸いにも車の少ない時間帯で予定よりも早く到着しました」
「気持ちは有難いけれど、事故を起こしては大変です。法定速度を守ってくださいね」
アマンダの言葉にコルテスは目を丸くした。
「そんな御心配を……。いや、これは……」
コルテスの知る権力者は自分の乗る車は勿論、家臣の運転する車の法定速度の遵守などお構いなしだった。目的地に到着するためなら速度制限をいくらでも無視した。警察の交通課の巡査たちも貴族やその関係者の車の速度違反の取り締まりを真面目にすることはなかった。
「コルテス殿、子爵令嬢はこういう方なのです」
ミランダは微笑んだ。
「遠隔通信でお話しさせていただいた時にも、変わった方だとは思っておりましたが。あ、これは失礼なことを申しました」
「変わっているのですか?」
アマンダは不思議そうに首を傾げた。
「最初にきちんとこんばんはと挨拶をする貴族は初めてでした。あ、侯爵夫人は除いてです」
貴族というのは、貴族以外をとことん同じ人間と見なさないものらしい。
「挨拶をしたほうが、その後の話がしやすいと思います」
「そうです。そうです」
コルテスは大きく頷いた。
「ところで港を御覧になっているのは何故ですか」
「ここの人々の暮らしを見たいと思いまして。この後ルシエンテスで商店街を、ミランダの故郷で農村を見たいと思っています。私はこの地域のことを何も知りませんから」
アマンダはできるだけ帝國標準語の言い回しや発音を使った。コルテスは貴族も庶民も知っている。庶民であったことを気付かれるわけにはいかなかった。
「それならもっと早く教えてくだされば、車や案内を用意いたしましたのに」
「これはお忍びです」
ミランダがそう言うのには訳があった。
ゲバラ侯爵夫人アビガイルは依然首都星にいた。いまだ査問会が開かれぬためである。彼女より後に拘束されたスナイデルのアルベルト・フラート前総督の査問会が先に行われることになり、そちらの審議が長引いていた。
一方、アマンダはルシエンテスについてミランダから話を聞くうちに、一度視察しなければならないと思うようになっていた。実際の人々の暮らしを知って今後の統治の方針を考えねばならないと。
だが、子爵令嬢となり侯爵夫人の身内になったアマンダは屋敷の外に出るのも憚られた。査察官の命を受けた帝國政府の駐在官から外出を禁じられたわけではない。だが、ルシエンテスに行けば何か含むところがあるのではないかと勘繰られる恐れがあった。
そこでアマンダは極秘でルシエンテスに行くことにした。幸い駐在官たちはアマンダに直接面会したことはない。帝國政府に公式に提出した写真は厚化粧し貴族の令嬢風の巻き髪のウィッグをつけているので、普段のショートヘア姿とはかなり違う。通いの従業員に紛れて屋敷を出て空港に行き、バネサ・オリバの名でメンドーサ大陸の中心地アルバ行きの便に乗ったのだった。アルバからは地方航空の便でルシエンテスに行き、そこからこの港町に入った。その間、誰もアマンダの身分に気付かなかった。アマンダよりもミランダのほうがビクビクしていたくらいである。
「なるほど、そういうことですか」
コルテスも侯爵夫人の件は知っていたので、事情をすぐに察した。
「わかりました。確かにそのほうがいいかもしれません。子爵令嬢が来るとなれば、皆よそ行きのことしか言わないでしょう」
「ありがとうございます」
アマンダが礼を言うのにコルテスはまたも驚いた。
「とはいえ、女二人だけの旅は物騒です。特にお姫様はまだお若い。地方はそうでもありませんが、都市部周辺は治安が悪いのです。視察の際は私の遠縁ということにしておきましょう。そうすれば、皆気を使うこともないが、粗略に扱うこともできません」
「お気遣い感謝します」
ミランダもコルテスと同じ心配をしていたので安堵した。
港町の宿屋を出た後、コルテスの車で港の市場に行った。
水揚げされたばかりの魚が並び、大勢の仲買人がセリに参加していた。市場の周辺には仲買人目当ての食堂が並んでいた。また海産物の加工品を売る店も並んでいた。だが、客は食堂ほど多くない。地元の主婦と思しき中年の女性達が同じ年頃の女主人と世間話をしながら、干した魚や乾燥した海藻を買っているばかりである。
「なんだか勿体ない。こんなにおいしそうな加工品があるのに、地元の人しか買わないなんて」
「わざわざこんな田舎に足を運ぶ観光客はいません。釣り客は多いんですけどね」
そういえば釣り竿が入りそうな長いケースを背負った男達が同じホテルのフロント前にいたのを思い出した。
「この天気では釣り船は出せませんね」
ミランダの言葉を聞いたのか、店の主らしい老女が言った。
「ああ。おまえさん方は釣りではないな。どうだ、このウニの瓶詰、この前の海のウニだ。それから干しイワシもあるぞ」
「おばさん、それは何?」
「干したホタテの貝柱。安くしとくよ」
「それじゃ、いただくわ」
アマンダはそう言うと財布をバッグから出し老女の言い値で買った。
コルテスは目を丸くした。貴族の令嬢が自分で現金を出して物を買うなど初めて見た。
老女は貝柱の入った袋を丁寧に紙袋に入れ、アマンダに渡した。
「お嬢さん、お目が高いね。うちのホタテは他の店のとは違うんだ。少し形は悪いけど、ルシエンテスの店に出してるのと質は同じだよ」
「そうね。小さい方が食べやすいから、私はこれがいい」
「お嬢さんの口ならそうだね」
老女は笑っておまけだと言ってアマンダにウツボの干した切り身もくれた。
「売れ残りだけど、揚げればいい酒のつまみになるよ」
「ありがとう」
アマンダはウツボと聞いて臆することなく笑った。
市場のある通りからホテルへ向かう車中で、ミランダはウツボの切り身の入った袋を気味悪げに見た。
「私だって食べたことないんですよ」
「御主人のお土産には?」
「ウツボだと言わなきゃ酒の肴に食べるかもしれませんけれど、聞いたら悲鳴を上げるでしょう」
「それじゃ私がいただく。ウツボが食べられると聞いたことがあるから試してみる」
運転席でコルテスは子爵令嬢は只者ではないと思った。
普通の貴族は庶民の食べ物を嫌い食べようとしない。ウツボなどまず口にしないし、食べられることも知らない。だが、この令嬢は違っている。庶民の生活を知るため、食べ物も試してみようとは。
もしかすると母親の関係で幼い頃に庶民の中で育ったのかもしれないが、そういう者に限って、以前のことを知られるのが嫌で、かえって貴族以上に庶民の暮らしを軽んじる。だが、この令嬢にはまったく出生についてのコンプレックスがないようだった。
この令嬢なら、ルシエンテス子爵領を変えてくれるかもしれない。遠隔通信でモニター越しに初めて対面した時からなんとなく感じていたものが確信に変わった瞬間だった。
港町からルシエンテス子爵領の中心地ルシエンテスにコルテスの車で入ったのは午後のことだった。政庁ではなくコルテスの私邸に案内された。出迎えたのは夫人のクララだった。
コルテスは妻に簡単に事情を話すと政庁に顔を出してくると言って、後はクララに任せた。
クララは夫の前では少々面食らっていたが、腹をくくったのか二人を客間に案内した。家の中では一番いい部屋なのだろう。清潔な寝具や堅牢な家具類が置かれ狭いながらも落ち着いた雰囲気だった。
荷物を置いた後、応接間で夫人手製のケーキで茶を飲んだ。中央にベリーのジャムを盛ったクッキーを見たミランダは懐かしいと言った。
「私の祖母もよく作ってくれました」
「私は母から教わりました。娘にも教えているんです」
「お嬢さんは学校ですか」
アマンダの問いにクララは頷いた。
「公立の初等学校の5年生です。そろそろ帰ってくる頃です」
5年生。貴族女学校での日々が脳裏をよぎった。公立なら身分であれこれ言う同級生もいないだろう。ましてや代理管理人の娘なら苛められることはないだろう。
噂をすれば何とやらで、呼び鈴が鳴った。
夫人は失礼しますと言って出て行った。
「そういえば娘さんは御主人が面倒を見てるの?」
アマンダはずっと気になっていたことをミランダに尋ねた。
「ええ。主人の母が近所に住んでいるので夜は手伝いに来てもらってます。これまでも仕事で何度か地方に行っていますので」
「御家族に負担をかけているようで申し訳なくて」
「仕事ですから。出張費と時間外手当をもらって実家に帰れるなんてそうそうあることじゃありません。夫もこんな機会はないから行ってこいと申しておりました」
そうは言っても母親である。ミランダには迷惑をかけないようにしなければとアマンダは思った。
「失礼しました」
クララは娘を連れて戻って来た。父親によく似た健康そうな肌の色をした少女は初めまして子爵令嬢様と子どもらしく挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。お嬢さんのお名前は?」
「アドリアン・コルテスの長女ルビーと申します」
「ルビーさん、学校は楽しい?」
「はい。前は学校に行くのが怖かったけれど新学期からは大丈夫です」
「怖かった?」
学校に行くのが嫌という言い方は聞くが、怖かったというのが理解できなかった。怖い先生がいるのだろうか。
アマンダの疑問に答えたのは母親だった。
「去年の暮れから今年の初めにかけて子どもを狙った犯罪が起きていましたので。登下校の途中の子どもが被害に遭うので、うちでも警備員をつけていました。半年ほど前に犯人が逮捕されましたが、まだ不安があるので登下校に警備員をつけています」
子どもを狙った卑劣な犯罪が起きていたとはアマンダは知らなかった。ミランダも驚いていた。
「ここでそんなことが起きていたなんて」
「たぶんニュースになってもあちらでは小さな記事かと」
アマンダはコルテスの報告以外にもルシエンテスの動静に気を配らねばならないと思った。侯爵領政庁周辺で発行される新聞ではルシエンテス領のニュースの扱いは極めて小さかった。また、映像端末のニュース番組でも話題になることは滅多になかった。
「お母さま、もう心配いらないのに。冷血鬼サカリアスは捕まったんだから。裁判で死刑になるって先生も言ってた」
ルビーの発言にアマンダは言葉を失った。子どもを狙う卑劣な犯罪者の名がよりによってサカリアスだとは。
クララは娘に部屋に戻って宿題をするように命じた。ルビーは素直に部屋から出て行った。
ミランダが尋ねた。
「冷血鬼サカリアスは一体何をしたのですか」
「皇子殿下と同じ名まえなので私共はZと呼んでいます。子どもは憚ることを知りませんので……Zはとても子どもの前では口に出来ぬようなことをしたのです。被害を受けたのはわかっているだけで五名。ルシエンテス領内の別々の地方の小学校の児童で。男の子が三人、女の子が二人。どの子も暴行を受け無残な殺され方で。五人目の男の子は身体の一部を通学路にバラバラに置かれて……冷血鬼の仕業だと言われるようになったのです。それが今年の三月で、去年からあちこちで起きていた事件と関連があるのではないかと大騒ぎになったのです」
ミランダの顔色がみるみるうちに青ざめていった。幼子のいる母親としては他人事では済まない話だった。
アマンダはミランダに代わって尋ねた。
「どうして犯人がわかったのですか」
「子どもに声を掛けたのを迎えに来た父親が見つけて、Zを捕まえたのです。父親は元宇宙軍の軍人でしたので、小柄なZを捕まえるのは簡単だったと聞きました。Zはその日のうちに警察で自白し、家宅捜索をしたら被害を受けた子どもの服や私物、それに子ども達の死体の写真等が入っている記憶媒体が見つかりました。私どもはそれでやっと安堵することができたのです」
「大変だったのですね」
「いえ、大変だったのはそれからでした。Zが元は政庁で働いていたとわかり、代理管理人の夫はずいぶんと批判されました。実際働いていたのは一か月ほどで、無断欠勤が続くので解雇したのです。しかも義父が代理管理人をしていた八年前のことです」
コルテスはそんな素振りを一切見せなかった。大した男だと思うと同時に、どうしてそんな重大な事件を知らせてくれなかったのか、それほど自分が頼りなく見えたのかと、アマンダは情けなくなった。
ミランダはアマンダの表情に気付き、クララに尋ねた。
「奥様は代理管理人の仕事のことは御存知ないかもしれませんが、こういう事件の報告などはこれまでも侯爵夫人にしていなかったのですか」
「だと思います。政治向きのことはゲバラ侯爵夫人に報告相談していたようですが。ただ、事件については裁判の結果次第で当然報告がいったのではないでしょうか。死刑に関しては領主の執行命令が必要ですから」
沖に見える堤防を洗う大波、背後に連なる山並みの濃い緑、頭上に広がる鉛色の雲、そして生臭みを帯びた磯の香り。
ここはルシエンテス子爵領の南端のスル岬に近い漁港の町。
昨夜遅くに町の小さなホテルに宿をとったアマンダとミランダは名物だという焼き魚の朝食を済ませた後、港まで歩いて来たのだった。
ミランダは残念そうに言った。
「もう少し波が穏やかなら漁師の妻たちが海に潜ってウニやサザエを取るところが見られるのですが、生憎の天気でしたね」
「陸の上も寒いのに海に入るなんて」
スル岬はクライフの南極に近いのでこの辺りは一年を通じて平均気温は低い。アマンダもミランダもコートを着て手袋をしている。
「地球の日本にはアマといって海に潜って貝の類を取る女性がいたそうです。この周辺の人々はその子孫です。少しくらいの寒さも平気だとか」
「凄いのね。あれは漁船? こんな波でも出るのね」
「はい。漁師はこれくらいの波なら平気なのです」
「皆働き者なのですね」
「はい。夫婦だけでなく子どもも年寄りも家族そろって働かねば暮らしが成り立たぬのです」
働き者という言葉は聞こえはいいが、子ども老人まで総出で働かねばならぬというのは決して望ましい話ではない。思えばサパテロ一家はヨハネスの街で父一人の働きで子ども三人に不足のない衣食と教育を得られた。子ども達は学校に行き、街の老人たちは仕事を引退しカフェでのんびりと過ごしていた。だが、ここでは家族総出で働かねば暮らしが成り立たぬという。
「それはなんとかしなければ」
「海は難しいのです。自然が相手ですから。不漁の年もありますし」
「それは農業も同じ。ということは農耕地帯もそうなのですね」
「はい。私の家もそうでした。学校が終わったら畑仕事を手伝っていました。幸い豊作が続いたので私は進学できました」
そこまで言ったミランダは振り返った。何だろうと思ってアマンダも振り返った。大柄な色黒の男性が近づいてくるのが見えた。背筋をぴんと張り手を振る歩き方がどこかサカリアスに似ているところを見ると、彼は軍隊にいたらしい。
「こちらにおいででしたか」
コルテス代理管理人だった。昨夜この町に到着したことを連絡し、明日ルシエンテスに行くと伝えたばかりだというのに。200キロ以上離れたこの町に来るには未明にルシエンテスを出なければならないはずである。
「お姫様、ナロス夫人、ようこそ、ルシエンテスへ」
腕を胸の前に出し恭しく頭を下げたコルテスだった。
「おはようございます。わざわざの出迎えありがとうございます。暗いうちに出て来て大変だったのではありませんか」
代理管理人は滅相もないことでございますと恐縮しきりだった。
「幸いにも車の少ない時間帯で予定よりも早く到着しました」
「気持ちは有難いけれど、事故を起こしては大変です。法定速度を守ってくださいね」
アマンダの言葉にコルテスは目を丸くした。
「そんな御心配を……。いや、これは……」
コルテスの知る権力者は自分の乗る車は勿論、家臣の運転する車の法定速度の遵守などお構いなしだった。目的地に到着するためなら速度制限をいくらでも無視した。警察の交通課の巡査たちも貴族やその関係者の車の速度違反の取り締まりを真面目にすることはなかった。
「コルテス殿、子爵令嬢はこういう方なのです」
ミランダは微笑んだ。
「遠隔通信でお話しさせていただいた時にも、変わった方だとは思っておりましたが。あ、これは失礼なことを申しました」
「変わっているのですか?」
アマンダは不思議そうに首を傾げた。
「最初にきちんとこんばんはと挨拶をする貴族は初めてでした。あ、侯爵夫人は除いてです」
貴族というのは、貴族以外をとことん同じ人間と見なさないものらしい。
「挨拶をしたほうが、その後の話がしやすいと思います」
「そうです。そうです」
コルテスは大きく頷いた。
「ところで港を御覧になっているのは何故ですか」
「ここの人々の暮らしを見たいと思いまして。この後ルシエンテスで商店街を、ミランダの故郷で農村を見たいと思っています。私はこの地域のことを何も知りませんから」
アマンダはできるだけ帝國標準語の言い回しや発音を使った。コルテスは貴族も庶民も知っている。庶民であったことを気付かれるわけにはいかなかった。
「それならもっと早く教えてくだされば、車や案内を用意いたしましたのに」
「これはお忍びです」
ミランダがそう言うのには訳があった。
ゲバラ侯爵夫人アビガイルは依然首都星にいた。いまだ査問会が開かれぬためである。彼女より後に拘束されたスナイデルのアルベルト・フラート前総督の査問会が先に行われることになり、そちらの審議が長引いていた。
一方、アマンダはルシエンテスについてミランダから話を聞くうちに、一度視察しなければならないと思うようになっていた。実際の人々の暮らしを知って今後の統治の方針を考えねばならないと。
だが、子爵令嬢となり侯爵夫人の身内になったアマンダは屋敷の外に出るのも憚られた。査察官の命を受けた帝國政府の駐在官から外出を禁じられたわけではない。だが、ルシエンテスに行けば何か含むところがあるのではないかと勘繰られる恐れがあった。
そこでアマンダは極秘でルシエンテスに行くことにした。幸い駐在官たちはアマンダに直接面会したことはない。帝國政府に公式に提出した写真は厚化粧し貴族の令嬢風の巻き髪のウィッグをつけているので、普段のショートヘア姿とはかなり違う。通いの従業員に紛れて屋敷を出て空港に行き、バネサ・オリバの名でメンドーサ大陸の中心地アルバ行きの便に乗ったのだった。アルバからは地方航空の便でルシエンテスに行き、そこからこの港町に入った。その間、誰もアマンダの身分に気付かなかった。アマンダよりもミランダのほうがビクビクしていたくらいである。
「なるほど、そういうことですか」
コルテスも侯爵夫人の件は知っていたので、事情をすぐに察した。
「わかりました。確かにそのほうがいいかもしれません。子爵令嬢が来るとなれば、皆よそ行きのことしか言わないでしょう」
「ありがとうございます」
アマンダが礼を言うのにコルテスはまたも驚いた。
「とはいえ、女二人だけの旅は物騒です。特にお姫様はまだお若い。地方はそうでもありませんが、都市部周辺は治安が悪いのです。視察の際は私の遠縁ということにしておきましょう。そうすれば、皆気を使うこともないが、粗略に扱うこともできません」
「お気遣い感謝します」
ミランダもコルテスと同じ心配をしていたので安堵した。
港町の宿屋を出た後、コルテスの車で港の市場に行った。
水揚げされたばかりの魚が並び、大勢の仲買人がセリに参加していた。市場の周辺には仲買人目当ての食堂が並んでいた。また海産物の加工品を売る店も並んでいた。だが、客は食堂ほど多くない。地元の主婦と思しき中年の女性達が同じ年頃の女主人と世間話をしながら、干した魚や乾燥した海藻を買っているばかりである。
「なんだか勿体ない。こんなにおいしそうな加工品があるのに、地元の人しか買わないなんて」
「わざわざこんな田舎に足を運ぶ観光客はいません。釣り客は多いんですけどね」
そういえば釣り竿が入りそうな長いケースを背負った男達が同じホテルのフロント前にいたのを思い出した。
「この天気では釣り船は出せませんね」
ミランダの言葉を聞いたのか、店の主らしい老女が言った。
「ああ。おまえさん方は釣りではないな。どうだ、このウニの瓶詰、この前の海のウニだ。それから干しイワシもあるぞ」
「おばさん、それは何?」
「干したホタテの貝柱。安くしとくよ」
「それじゃ、いただくわ」
アマンダはそう言うと財布をバッグから出し老女の言い値で買った。
コルテスは目を丸くした。貴族の令嬢が自分で現金を出して物を買うなど初めて見た。
老女は貝柱の入った袋を丁寧に紙袋に入れ、アマンダに渡した。
「お嬢さん、お目が高いね。うちのホタテは他の店のとは違うんだ。少し形は悪いけど、ルシエンテスの店に出してるのと質は同じだよ」
「そうね。小さい方が食べやすいから、私はこれがいい」
「お嬢さんの口ならそうだね」
老女は笑っておまけだと言ってアマンダにウツボの干した切り身もくれた。
「売れ残りだけど、揚げればいい酒のつまみになるよ」
「ありがとう」
アマンダはウツボと聞いて臆することなく笑った。
市場のある通りからホテルへ向かう車中で、ミランダはウツボの切り身の入った袋を気味悪げに見た。
「私だって食べたことないんですよ」
「御主人のお土産には?」
「ウツボだと言わなきゃ酒の肴に食べるかもしれませんけれど、聞いたら悲鳴を上げるでしょう」
「それじゃ私がいただく。ウツボが食べられると聞いたことがあるから試してみる」
運転席でコルテスは子爵令嬢は只者ではないと思った。
普通の貴族は庶民の食べ物を嫌い食べようとしない。ウツボなどまず口にしないし、食べられることも知らない。だが、この令嬢は違っている。庶民の生活を知るため、食べ物も試してみようとは。
もしかすると母親の関係で幼い頃に庶民の中で育ったのかもしれないが、そういう者に限って、以前のことを知られるのが嫌で、かえって貴族以上に庶民の暮らしを軽んじる。だが、この令嬢にはまったく出生についてのコンプレックスがないようだった。
この令嬢なら、ルシエンテス子爵領を変えてくれるかもしれない。遠隔通信でモニター越しに初めて対面した時からなんとなく感じていたものが確信に変わった瞬間だった。
港町からルシエンテス子爵領の中心地ルシエンテスにコルテスの車で入ったのは午後のことだった。政庁ではなくコルテスの私邸に案内された。出迎えたのは夫人のクララだった。
コルテスは妻に簡単に事情を話すと政庁に顔を出してくると言って、後はクララに任せた。
クララは夫の前では少々面食らっていたが、腹をくくったのか二人を客間に案内した。家の中では一番いい部屋なのだろう。清潔な寝具や堅牢な家具類が置かれ狭いながらも落ち着いた雰囲気だった。
荷物を置いた後、応接間で夫人手製のケーキで茶を飲んだ。中央にベリーのジャムを盛ったクッキーを見たミランダは懐かしいと言った。
「私の祖母もよく作ってくれました」
「私は母から教わりました。娘にも教えているんです」
「お嬢さんは学校ですか」
アマンダの問いにクララは頷いた。
「公立の初等学校の5年生です。そろそろ帰ってくる頃です」
5年生。貴族女学校での日々が脳裏をよぎった。公立なら身分であれこれ言う同級生もいないだろう。ましてや代理管理人の娘なら苛められることはないだろう。
噂をすれば何とやらで、呼び鈴が鳴った。
夫人は失礼しますと言って出て行った。
「そういえば娘さんは御主人が面倒を見てるの?」
アマンダはずっと気になっていたことをミランダに尋ねた。
「ええ。主人の母が近所に住んでいるので夜は手伝いに来てもらってます。これまでも仕事で何度か地方に行っていますので」
「御家族に負担をかけているようで申し訳なくて」
「仕事ですから。出張費と時間外手当をもらって実家に帰れるなんてそうそうあることじゃありません。夫もこんな機会はないから行ってこいと申しておりました」
そうは言っても母親である。ミランダには迷惑をかけないようにしなければとアマンダは思った。
「失礼しました」
クララは娘を連れて戻って来た。父親によく似た健康そうな肌の色をした少女は初めまして子爵令嬢様と子どもらしく挨拶をした。
「こちらこそ初めまして。お嬢さんのお名前は?」
「アドリアン・コルテスの長女ルビーと申します」
「ルビーさん、学校は楽しい?」
「はい。前は学校に行くのが怖かったけれど新学期からは大丈夫です」
「怖かった?」
学校に行くのが嫌という言い方は聞くが、怖かったというのが理解できなかった。怖い先生がいるのだろうか。
アマンダの疑問に答えたのは母親だった。
「去年の暮れから今年の初めにかけて子どもを狙った犯罪が起きていましたので。登下校の途中の子どもが被害に遭うので、うちでも警備員をつけていました。半年ほど前に犯人が逮捕されましたが、まだ不安があるので登下校に警備員をつけています」
子どもを狙った卑劣な犯罪が起きていたとはアマンダは知らなかった。ミランダも驚いていた。
「ここでそんなことが起きていたなんて」
「たぶんニュースになってもあちらでは小さな記事かと」
アマンダはコルテスの報告以外にもルシエンテスの動静に気を配らねばならないと思った。侯爵領政庁周辺で発行される新聞ではルシエンテス領のニュースの扱いは極めて小さかった。また、映像端末のニュース番組でも話題になることは滅多になかった。
「お母さま、もう心配いらないのに。冷血鬼サカリアスは捕まったんだから。裁判で死刑になるって先生も言ってた」
ルビーの発言にアマンダは言葉を失った。子どもを狙う卑劣な犯罪者の名がよりによってサカリアスだとは。
クララは娘に部屋に戻って宿題をするように命じた。ルビーは素直に部屋から出て行った。
ミランダが尋ねた。
「冷血鬼サカリアスは一体何をしたのですか」
「皇子殿下と同じ名まえなので私共はZと呼んでいます。子どもは憚ることを知りませんので……Zはとても子どもの前では口に出来ぬようなことをしたのです。被害を受けたのはわかっているだけで五名。ルシエンテス領内の別々の地方の小学校の児童で。男の子が三人、女の子が二人。どの子も暴行を受け無残な殺され方で。五人目の男の子は身体の一部を通学路にバラバラに置かれて……冷血鬼の仕業だと言われるようになったのです。それが今年の三月で、去年からあちこちで起きていた事件と関連があるのではないかと大騒ぎになったのです」
ミランダの顔色がみるみるうちに青ざめていった。幼子のいる母親としては他人事では済まない話だった。
アマンダはミランダに代わって尋ねた。
「どうして犯人がわかったのですか」
「子どもに声を掛けたのを迎えに来た父親が見つけて、Zを捕まえたのです。父親は元宇宙軍の軍人でしたので、小柄なZを捕まえるのは簡単だったと聞きました。Zはその日のうちに警察で自白し、家宅捜索をしたら被害を受けた子どもの服や私物、それに子ども達の死体の写真等が入っている記憶媒体が見つかりました。私どもはそれでやっと安堵することができたのです」
「大変だったのですね」
「いえ、大変だったのはそれからでした。Zが元は政庁で働いていたとわかり、代理管理人の夫はずいぶんと批判されました。実際働いていたのは一か月ほどで、無断欠勤が続くので解雇したのです。しかも義父が代理管理人をしていた八年前のことです」
コルテスはそんな素振りを一切見せなかった。大した男だと思うと同時に、どうしてそんな重大な事件を知らせてくれなかったのか、それほど自分が頼りなく見えたのかと、アマンダは情けなくなった。
ミランダはアマンダの表情に気付き、クララに尋ねた。
「奥様は代理管理人の仕事のことは御存知ないかもしれませんが、こういう事件の報告などはこれまでも侯爵夫人にしていなかったのですか」
「だと思います。政治向きのことはゲバラ侯爵夫人に報告相談していたようですが。ただ、事件については裁判の結果次第で当然報告がいったのではないでしょうか。死刑に関しては領主の執行命令が必要ですから」
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