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第九章 鬼起つ

32.5 檻の中で

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 これは巨大な檻だとモニカは思った。
 新たに建てられた四等女官用官舎という名の総二階の館は最新の防犯警備設備の備わった要塞でもあった。
 敷地への出入りは生体認証が用いられ、女官長の許可なくモニカは出ることはできない。
 かつて同級生だったアマンダは父親が皇帝の愛人だったため、星の離宮で暮らしていた。彼女もまた離宮という名の檻に家族で暮らしていたのだ。首都星から追放された時、案外父親は檻を放たれ自由を味わったのかもしれぬ。アマンダ達は境遇の変化に対応するのに苦労したかもしれないが。
 そんな想像に耽ってしまうほど、モニカには時間があった。
 普通の四等女官と違い、モニカはゴンサレス公爵付きなので給仕をする仕事はない。ゴンサレス公爵は毎日後宮に来るわけでもない。身の回りの掃除・洗濯・炊事も館の専属の等外女官と呼ばれる使用人が行う。その代わり教養を高めるため女官長の手配した語学・歴史・法律・文学・ダンス等の一流の教師の授業を受けるのが仕事になった。座学はさほど苦手ではなかったので、モニカには楽しみだった。
 ゴンサレス公爵が来る日は昼前に判明する。女官長に朝連絡があり、様々な部署を経て昼前に官舎に三等女官が知らせに来る。幸い彼女は感情を表に出さずに事実だけを通知するので、モニカは不快な思いをせずに済んだ。
 湯あみなどの支度を終えた頃、午後5時過ぎにカルロスは姿を見せる。小さな玄関ホールで迎え居間で茶を飲み話をする。その後食事の間で晩餐をとる。料理はいつもよりいい材料を使っている。カルロスはまるで自分の家にいるようにくつろいでいた。

「ここはテオがいないからいい」
「まあ、テオが聞いたら何て言うか」

 モニカもいつもより少し気分が柔らかくなっていた。カルロスが人払いして側仕えたちを部屋に入れていないせいかもしれない。



 二階にある寝室に入るとカルロスは別人だった。モニカをすぐにベッドに押し倒すと隣室で警護をしている側仕えに聞こえそうな声で言うのだ。

「月のものが始まったって聞いた時は少し残念だった」

 モニカにとっては恐怖の二週間だったというのに。予定の日にこなかったのでモニカは愕然となったのだ。不安な一週間を過ごし、いつもより量の多い月のものが始まった時は緊張がとけて泣きそうになった。報告を受けた女官長も心なしか安堵しているように見えた。

「でも、おかげでまた楽しめる。せっかく慣れてきたのにできないなんてモニカも嫌だろ」
「……そんなことは」
「嘘ばっかり。今日は学校でもずっと考えてたんだ。モニカのことばかり」

 ひとしきり抱き締められた後、カルロスはささやいた。

「明日はクラス対抗のフットボールの試合があるから、今夜はこれだけ」

 ぐったりしているモニカの耳元でささやいた。
 よかったとモニカは思い、そのまま眠りに落ちていった。
 翌朝目覚めるとカルロスはすでに後宮を出ていた。時計を見れば登校している刻限だった。慌てて起きるとシーツも寝間着も下着もすべて取り換えられていた。
 呼び鈴を押すと六等女官のトニアが入って来た。モニカより一年上にあたる。当初は使いにくいのではないかと思ったが、彼女は余計なことを言わず真面目に働くので助かっている。

「おはようございます。今朝は御気分はいかがですか」

 健康観察は言葉だけでなく、彼女はモニカの顔色をきちんと見ていた。

「いつも通りです」
「今日の御予定は午前9時から歴史のフリア・ノゲイラ教授の講義、10時半に……」

 モニカはベッドに腰かけたまま予定を聞く。昨日のうちに確認したものと違っていないかよく聞いておかねばならない。幸い相違はなかった。
 その後、身支度をされて朝食となる。カルロスとの逢瀬の翌朝はいつもより量が多いように思われた。ちなみに何を何グラム食べ、何を食べなかったかは記録されている。厨房には体調体重管理という大事な仕事もあるのだ。
 歴史の教授が来る前に館の裏庭を散歩し、戻って時間があったので予習をしておく。教授は帝國において後宮の果たした役割を研究していた。
 教授は時間通りに来た。初代皇帝アルフォンソの時代に後宮を作ったのは皇后アレクサンドラ・ヘンドリカ・ファン・デル・フェーンと兄で宮内大臣のオットー・モーゼス・ファン・デル・フェーンと帝妃アマリアであるという従来の定説は誤りで当初皇后は後宮を作る気はまったくなかったという話を最初の講義で聞いた時、モニカはこれは面白いと思った。
 すでに皇子を二人も産んでいる皇后が後宮が必要だと考えるはずはないのだ。
 教授はアルフォンソが軍人であった妻アレクサンドラの気の強さに辟易し、他の女性と関係を結びたいがために義兄の宮内大臣と結託したのではないかと当時の公文書から読み解いていた。そういう面白い話は貴族女学校の歴史の授業では絶対に聞けなかった。
 この日はアマリアと彼女の息子の死について。暗殺説を公文書から考えるという講義だった。これも面白かった。結局、真実は薮の中だという結論だったが、それでもそこに至る研究の話はスリリングだった。
 昼前にゴンサレス公爵の来訪が知らされた。二日続けて珍しいと思った。
 前日よりも早い時間だったので湯浴みをする暇もなくモニカはカルロスを迎えた。彼は小さなトロフィーを持っていた。

「今日の得点王のトロフィーだ」
「おめでとうございます」

 カルロスは年齢相応の笑顔を見せた。

「これはモニカのものだ」
「え?」
「モニカのおかげで取れたんだ」

 おかげとはどういう意味かなどと尋ねたらとんでもないことを言われそうだったので、モニカはゲームのことを聞くだけにした。

「一体何点お取りになったのですか」
「ハットトリックを二回やってあとの2試合で2点ずつだから10点」
「チームも優勝したんですね」
「当たり前だ。この勝利はモニカに捧げるものだから」

 嫌な予感がした。まさか学校で……。これ以上尋ねるのは恐ろしかった。
 そこへトニアがお茶とお菓子を持って来たのでいったん話は中断した。モニカは菓子が美味しいですねとかこの菓子は似たものが百貨店の地下にあるとか月並みな話をすることに徹した。
 だが、少年は言うべきことは言う性質だった。

「ロドリゴが優勝したらアリアドナに勝利を捧げるなんて言うんだ。それで悔しくて、モニカに捧げるって言ったんだ」
「は?」
「ロドリゴは隣のクラスのキャプテンのロドリゴ・エッセリンク。モンタネール伯爵の跡継ぎさ。あいつ、屋敷の使用人のアリアドナとできてて、いっつも自慢してたんだ。それこそ彼女の身体のことまで。可哀そうだよね、そんなことまで言われるなんて。私にはモニカのことを話すなんてできないよ」

 貴族学校、恐るべし。早熟なのはカルロスだけではなかった。
 ふと思う。貴族学校は当然のことながら貴族の子弟が多い。すでにモニカのことを彼の学友たちは知っているのではないか。

「あの、私のことを御学友の皆様御存知なのでは?」
「知ってるだろうけどまともな奴は言わないよ。それくらいマナーだ。だけど、ロドリゴの奴は違うんだ。アリアドナのことを何だと思ってるんだろうね。だから悔しくて、モニカに勝利を捧げるって言ったんだ」
「それって、ロドリゴ様と同じ」
「違うよ!」

 少年は唇を尖らせた。

「女神モニカに捧げると言ったんだ。私の大切な女神だと」

 カルロスは違うと言うが、さらされたのはアリアドナと同じだとモニカは思う。

「モニカのおかげで勝てたんだ。ありがとう」
「私は何もしておりません」
「何もしなくてもいいんだ。いるだけでいい。それだけで頑張れるんだ」

 テーブルを挟んで真向かいに座っていたカルロスはモニカの傍に跪き、スカートの布地越しに太腿に顔を埋めた。

「だから、離れないで」
「え?」
「どこにも行かないで」

 まるで子どものようだとモニカは思った。それでは私は母親? そんな役割までは果たせないと思った。ふと皇帝の顔が浮かぶ。政務で母親として子どもにあまり接することのできない彼女は、自分の代わりをモニカにさせようとしているのではないか。だから年の離れたモニカがカルロスの相手をすることを黙認しているのではないか。
 まさか、とは思う。だが、皇帝ならばやりかねないとも思う。彼女は人の使い方がうまい。
 皇帝の考え次第ではいつかモニカは遠ざけられるかもしれない。彼女は己の愛人でさえあっさりと捨てるのだから、息子の愛人くらい簡単に切り捨てるだろう。
 それでもかまわないと思う。だが、一方ではその日の来る日が怖いと思う自分もいた。
 何故だろう。これが愛? いや違う。愛はもっと美しく清らかなものだと思う。身体の繋がりから始まるなんて……。
 それでも今自分にすがる少年を抱き締めたい自分がいた。いや、正確にはもうすがってはいなかった。少年はスカートの裾をまくり上げていた。
 ここは居間である。隣室にトニアが控えている。

「声出して大丈夫だから。トニアは聞こえても誰にも言わない」
「え?」
「おしゃべりな女官は替えてもらった」

 そういえば理由は聞いていないが側仕えが数日前に一人交代している。もしやカルロスは夜勤の側仕えにも聞こえるようにわざと大きな声で話していたのではないか。

「交代してから学校で誰もモニカの噂をしなくなった」

 よかったと喜べる話ではない。その前には一体どんな噂があったことやら。モニカは交代した女官が夜勤の時のことを思い返していた。
 跪いていたカルロスは立ち上がった。

「足に傷が」

 モニカは足の脛の擦り傷に気付いた。

「これは試合でけずられただけ。大したことない。洗って消毒もした。名誉の負傷さ」

 カルロスは自慢げに言うと、モニカを立ち上がらせ抱き締めた。
 今だけはこうしていたい。快楽を与え与えられるだけの関係でもいい。
 恐らく隣の部屋に控えているトニアの耳にもはっきり聞こえただろう。
 息も絶え絶えのモニカにカルロスは囁いた。

「舞踏会に行こう。皆に私のモニカを見せつけてやる」



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