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しおりを挟む「……っ!」
しまった! と飛び起きて、真っ先に時計を探した。ベッドの上。周囲は全面レールカーテンで仕切られている。保健室にいるらしい。隙間から壁掛け時計が見える。
昼休みはとっくに過ぎ、あと五分で放課後だ。午後の授業を丸々欠席したことになる。
後悔で気持ちがはち切れそうだった。
(またこれか……)
僕はバカ高の授業すら満足に受けられないのか。
授業すらまともに出られないのに、国立医学部なんて受かるわけない……。
目縁から涙がぽろぽろ溢れてくる。ベッドの上で膝を抱えて頭を埋めた。
チャイムが鳴った途端、無遠慮で力強い足音が響き、保健室の扉が開く。
「佐藤くん! 大丈夫かー?」
取り繕おうにも涙はちっとも止まらない。もう声だけで嫌気が差す。
「開けるよ」
やかましい、干渉するな、と叫ぶ間もなくカーテンが開いた。
埋めている膝の間から初夏の日差しが入り込んでくる。目縁に溜まっている涙を乱反射させてちかちかと七色に光った。眩しい。
「佐藤くん……?」
意地でも顔を上げてやるもんかと思ったが、鼻を啜る音は誤魔化せない。さすがの耀士もおかしいと思ったらしい。
「具合まだ悪い?」
背中に重みを感じる。
耀士の手だ。大きな手がシャツ越しに骨張った二葉の背中を擦ってくれた。
触るなと突っぱねる元気もない。黙って流されていた。
耀士の手つきは意外にも優しくて、縋ってしまいそうになる自分に戸惑う。
「病院行く? 先生呼ぶよ」
「行かない。治んないよ。僕、体弱いから。生まれつきだし。仕方ない」
気づいたら本音を口にしていた。
「仕方なくはないだろ」
「仕方ないんだよ。気持ちがすぐ体に出ちゃって寝込むから。頑張ってもいつもこれ。上手くいかなくて失敗する。受験だって……」
時計の針がチクタクと耳を打つ。レモンみたいに絞られたくたくたの心臓が強く胸を打って、体が悲鳴を上げている気がした。
「……授業出たかった」
嗚咽を殺しきれない。泣きべそをかいていることに完全に気づかれただろう。あえて触れてこないのは耀士の優しさなのだろうか。
「ごめん。俺のせいだよな。俺が追いかけ回したせいで、プレッシャー、だったんだよな」
耀士のよく通る声が揺れる。自信のなさそうな言葉は、どこからか借りてきたみたいだ。
申し訳ない気持ちを素直に表現されて、多少なりとも驚く。
「これ、貰ってよ」
カサカサとした紙の音。顔は上げなかったが耀士も頑なに動かない。結局二葉が折れた。
目の前には数枚のルーズリーフだ。
「佐藤くんより勉強ができる人はいないから役に立つか分からないし、これで佐藤くんの気が晴れるとは思ってないけどさ……」
授業のノートらしい。数学Ⅰと化学だ。今日の五限目と六限目の授業内容だ。
なぜこれがここに? クラスが違う耀士がどうやって板書したのだろう? まさか自分のクラスを抜け出して二葉の席に座り、耀士が書いたとも思えない。
「なんで……」
「佐藤くん、勉強頑張ってるだろ」
二葉はびっくりして目を瞠る。顔を上げたら耀士の口が弧を描いていた。浅く焼けた肌に白い歯が眩しい。きっと明るくて眩しい笑顔をしているに違いない。
「毎日図書室にいるの見るよ。素振りしてると外から佐藤くんが見えるんだ。あそこにも頑張ってるやつがいるなあって、前から佐藤くんのこと、気になって見てた」
いつも図書室で一人で勉強していたから、自分が誰かに認識されているだなんて思ってもみなかった。動揺が隠せない。
耀士は熱っぽく続ける。
「中間考査の成績見てびっくりしたよ! 満点一位だろ? 満点! 七〇〇点! 七つテストがあって、一つも間違いがないって、野球だったら毎回打席に立ってすぐホームラン打つようなもんだろ? すごすぎるよ」
「別に、そんな大したことじゃ……」
「大したことだよ。頑張ってるんだよ。一番になるって、絶対に簡単なことじゃない。佐藤くんはすごい努力をしているはずだ」
これほどに力強く言われると、全然足りないと卑屈になるのも憚られる。
なぜか、彼に真っ直ぐ「頑張っている」と言われるたび、体が熱くなった。凍えたような指先が温かさを取り戻して滑らかに動く。
「俺、一生懸命頑張っている人が好きなんだ。気が合うんだよな。俺も必死だからかな」
自分で言うくらいなのだから、相当なにかに打ち込んでいるんだろう。
「野球……?」
来栖が言っていたことを思い出し二葉が訊くと、耀士は嬉しそうに頷く。彼の纏う明るさが二割増くらいになって眩しい。
「うん! 俺、野球頑張ってる! 甲子園に行きたいんだ。夢なんだ!」
甲子園。夏は体調を崩しやすくて、入院中何度もテレビで見たことがある。毎年恒例の野球の大会くらいの認識だが、勝つと仲間と抱き合って喜び、負けると泣きながら砂を袋に入れている選手の姿が印象的だった。
二葉は野球のルールは知らないけれど、甲子園という場所が、選手たちにとってはとても大切な場所であることは分かった。きっと簡単に行けるような場所ではないのだろう。
そこに行きたいのか。
随分途方もない非現実的な夢のように感じる。
でも耀士は躊躇わず胸を張って嬉しそうに「甲子園に行きたい」と堂々と笑う。
「佐藤くんはどうして勉強しているんだ?」
訊かれると思わなくて、二葉はしばらく言葉に迷った。一高の生徒に言えるわけがない。
医者になりたいだなんて。
鼻で笑われて終わりだ。ペンギンが空飛ぶ夢なんか見るな、って。
でも……耀士なら分かってくれるのではないかとも思ってしまった。甲子園に行きたいとこんなに堂々と言えてしまう彼になら……。
「こ、国立の医学部に入りたい。僕、医者になりたいんだ」
崖から飛び降りるような気持ちで言った。
落ち着いていた心臓がバクバクと早鐘を打っている。無言の時間に、津波のような後悔が押し寄せてくる。
「お医者さんかあ、そうか」
ははは、と耀士が笑う。すごく嬉しそうな笑い声だった。
二葉まで明るくて前向きな気持ちになる。
「良い夢だ! 佐藤くんなら絶対なれる!」
……親だってこんな手放しに受け止めてはくれなかったな。
百パーセントの「なれる」は、二葉の凝り固まった心をみるみる解いていく。チョコレートがミルクの中で溶けるみたいにまろやかだ。艶っぽくて温かい。
「佐藤くんのこと、すごく頑張って結果を出していてかっこいいと思ってる。邪魔をしちゃって、ごめんな」
背中から手が離れて、温もりがなくなったことに名残惜しさを感じている自分に驚く。耀士に励まされ、元気づけられていたことに気づいた。涙はいつの間にか止まっている。
「あ、あの……き、北見くん」
考えるよりも先に引き留めてしまった。なぜだかは分からない。自分でも混乱している。
「耀士でいいよ。俺も名前で呼んで良い?」
提案に耳まで熱くなる。ぎこちなく頷いた。
「な……なんで、勉強教えてほしいの……?」
耀士に緊張が走る。「それがさあ……」とがっくりと肩を落とし、傍の椅子に腰掛けた。
「一学期の中間考査、全教科赤点だったから」
最高点は数学、二十二点だという。
最高点が二十二点……。
衝撃の成績だ。二葉はなんて声をかければよいのかさっぱり分からず「そ、そう……なんだ……」と微妙な相槌しか打てない。
「そしたらさ、部活動停止になった。監督に『最低一教科、考査で六十点以上取るまで部活をやらせない』って言われた」
文武両道しろとまでは言わないけれど、進級できなきゃ高校生の意味がないときつく叱られたらしい。補習で済ませればいいという考えは甘い、と更に釘を刺された。
「『バカでも野球はできるけど、バカじゃ勝てないんだよ』って言われてさ。そう言われたらやるしかないよ。勝ちたいもん……」
素直すぎて、一周回って感心する。
「期末まであと二週間だろ。六十点以上取るっていっても、どこから手を付けていいのか……なにが分からないかも分からないんだよ。だからその道の人の知恵を借りたいと思って。二葉くんに声をかけたんだ」
膝の上に乗っている耀士の拳にぐっと力がこもるのが分かった。
「甲子園どうしても行きたい。凌先輩とは息が合うし、みんなすごいんだ」
凌先輩というのは、耀士とバッテリーというものを組んでいる二年の先輩らしい。
それほど気が合う仲間なのだろうか。二葉には理解できないが耀士の熱は伝わってくる。
夢のために苦手なことにも立ち向かおうとする気持ちには、心当たりがなくもない。
「まあなんとかやってみる。いろいろごめん」
耀士が諦めたように笑う。
気づけば立ち上がろうした彼のシャツを、二葉は前のめりになって掴んでいた。
「いいよ。教えるよ、勉強」
口に出してから随分差し出がましい言いかただったと思い直して急に恥ずかしくなる。俯いて、ベッドのシーツに目を落とした。血色の悪い骨みたいな手がぶるぶる震えている。
「ほ、本当か? 俺、邪魔じゃないか?」
耀士が希望と戸惑いが混ざった声で聞いてきた。「はい」か「いいえ」だったら「はい」だ。一人で勉強しているほうがずっといいに決まっている。耀士の勉強を見る間、英単語を何十単語暗記できるだろうか。
頭では分かってはいるのに、なぜか口走ってしまっている。
「甲子園……行きたいんでしょ」
「ああ!」
「手伝うよ。僕でよければ……」
耀士は躊躇もなく二葉の手を掴んでくる。
大きくて力強くて温かい両手が、二葉の華奢な手を無理やり握り込んで引っ張ってきた。
「ありがとう! 二葉くんがいい! よろしくな!」
席を外していた保健室の先生が戻ってきたみたいで、「そんなに大きな声でどうしたの」と迷惑そうな声がした。
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