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しおりを挟む二学期の始業式の朝、一ヶ月ぶりくらいに制服のシャツに袖を通した。襟口が思った以上にぶかぶかになっている。
もともと痩せぎすだったが、まだ削げる余地があったことに驚く。
一学期はいろいろな事があったけど、結構充実していたのかもしれない。楽しくなくはなかった。間違いなく耀士のおかげだ。
ズボンのウエストも緩くて、見ないふりしてベルトで誤魔化す。これ以上痩せたら、新しく穴を開けなければいけない。
制服を着ながらも胸が苦しくて逃げたい気持ちに駆られた。行きたくない、ずっと部屋に閉じこもりたい。それでも行こうとしているのは意地だ。
耀士くんに、謝るんだ。
高校卒業して、医者になるんだ……。
『二葉くんなら絶対なれるよ!』
そう屈託なく笑う耀士のことを思い出して、胸がもっとぎゅう、と握り潰されるような気持ちになった。
(耀士くんに酷いことをしてしまった。嘘吐いて逃げた。連絡も無視した。最低だ)
愛想を尽かされていても仕方がない。ごめんなさいと謝って、それで終わろう。
それからは入学したての頃と変わらずに、ただ勉強だけすればいい。高校は卒業するためだけに通うのだ。もともとそう思って入学したはずだ。だから間違っていない。
「顔色悪い。もう一週間くらい家でゆっくりしたら?」
朝食を囲んでいた母が心配そうな眼差しを向けてくる。
鬱陶しかった。そうしたい気持ちをこらえているのに、決意に水を差されたみたいだ。そんな悲しさが怒りに変わっている自分に気づいて惨めになる。
出された朝食は、本当は二口、三口食べるので精一杯だった。でも一生懸命食べた。
ごちそうさまを言ってすぐに玄関に向かう。
「行ってきます」
いってらっしゃいと普段通りに言う母に、イライラしてしまう。
……変だ、僕。
なんでこんなにやるせない気持ちになるのか。乱雑に靴を履いて家を出た。
***
夏休みの時点で靴箱にいたずらされていたが、案の定今日もそうだった。
二葉の靴箱はゴミ箱状態になっている。
(靴、入れてなくてよかった……)
上滑りに安堵しながら廊下を歩いた。
行きたくない気持ちが強くて、登校時間もいつもより遅めになってしまった。そのせいか生徒の数が多い。
廊下を歩いているとちくちくとした視線を感じるのは気のせいだろうか。白い目で見られている気がする。
居心地が悪くて目眩を感じた。
夏休み前はこんなことなかった。みんないない者として二葉を扱ったし、他クラスや他学年の生徒になど見向きもされていなかったのに。
気のせいだと自分に言い聞かせるが、どうにも誤魔化しようがないくらいだ。
嫌な予感がする……。
なにか、本当に、取り返しのつかないことが起こっている感じが……。
後ろの扉からA組の教室に入った時、自分の胸騒ぎは正しかったのだと悟った。
音を立てずに入ったのに、教室にいた生徒全員が二葉の方を向いて顔をしかめたり好奇の目を向けたりする。
クラスメイトは勢揃いで、その中には藤木もいた。彼女はスカートから覗く長い脚を堂々と組んで座り、机に肘を付いて取り巻きたちと笑っている。
ちらと二葉の方を見ると、得意そうな顔で友だちと目配せして吹き出していた。
一人だけ二葉に背中を向けている生徒がいて、それは来栖だった。来栖の隣の席は、遠目からみても分かるくらい黒ずんでいる。
二葉の席だ。
近くに行くと、机上に油性マーカーで「死ね」だの「ホモ」だの「目障り」だの「化け物」だの乱雑な字でみっちりと書かれていた。一日でできる汚れではない。夏休み中、ずっといたずらされていたのだと思う。
椅子はなぜか艶があり、あ、これ多分接着剤かな、と酸素の回っていない頭で思う。
頭が真っ白だ。
でも、逃げるわけにはいかない。ここで反応したら駄目だ。
(……拭けばいいか……)
自分に言い聞かせて平常心を保つ。机の上には一枚の紙が置いてあり、こっちも悪口が書いてあるのかと思ったが、どうやら違う。
LINEのスクリーンショットだった。誰かのやり取りが引き伸ばされて印刷されている。
『佐藤二葉ってホモなの?』
……息が止まりそうだ。
なぜ、なんで、どうして? 叫びそうになる自分を必死で抑え込む。
見たくもないのに目が文字を追ってしまう。
『うん。俺、去年の冬告られたし』
名前とアイコンに既視感があった。既視感というか、去年まで何度もやり取りをしてきた唯一の人……親友だと思っていた人だ。
『ほんと? 詳しく』
『あいつ勉強だけはできたからキープで仲良くしてただけなのに勘違いされて告られた』
『キモ! 鳥肌立つわ』
『それ。特にあの目つきほんとキモくて。言っちゃったから俺』
『なんて?』
『「そんな目で見んな気持ち悪いんだよ!」って。そしたら不登校になった。卒業式も来なかったよ笑』
『ほんと?』
『うん。ホモなのもキモいし、そもそもあんなガキっぽいのに俺と付き合おうとしてんのもキモかったわ! 何様だよ! 嫌なこと思い出させんなって』
笑……。
……。
手に力が入らなくなってしまって、肩から鞄がずり落ちる。バタバタと音を立てて鞄が床に落ちると「ギャハハハッ!」と藤木の楽しそうな笑い声が耳を貫いた。
がやがやという生徒の喧騒が二葉を襲ってくる。見れば全く同じプリントが黒板に何枚も貼ってあった。
いやだ、いやだ、いやだ。見たくない。
なにも考えられない……身体が石のように固まってびくともしない。
膝に力が入らない。倒れそうだった。うずくまって目を閉じて耳を塞ぎたい。でも、そんなことしたら思うツボだ。
「これ、マジなのか?」
来栖の一言で我に返った。
遠巻きに侮蔑の視線を向ける生徒たちと違い、来栖はいじっているスマホから顔を上げずに声だけで二葉に話しかけてきていた。
普段の接し方と全く変わらない。
クラスメイトの何人かがこちらに意識を向けているのを感じる。来栖はお構いなしだ。
反応しない二葉に痺れを切らしたのか、来栖が睨んでくる。びく、と体が跳ねた。
「マジなのかって聞いてんだよ。お前、今更無視でどうにかなると思ってねえよな?」
言いかたは刺々しいが敵意は感じない。情けを掛けられている気持ちになる。あの来栖がそうするくらい、傍から見ても酷いことをされているのだろうか。惨めだ。
「分かんない……」
必死で答えたが、来栖からは チッ、と大きな舌打ちが返って来て怯む。
「分かんないじゃねえよ! 腰抜け!」
「勉強できれば、いい、って……学校来るので、精一杯で……もう、分かんない……」
「いっつも無視して逃げて、キモいんだよ」
目の奥が強烈に痛くなった。音を立てないように吐き出した息は震えている。
気を抜けば倒れてしまいそうだった。
「だって、耐えるしかないじゃん。無視して、見えないふりするしか……!」
クラス中の視線が突き刺さっている。机に書かれているような言葉を、陰でヒソヒソ言われているのも聞こえる。
「一人でどうこうできる話じゃねえだろ。成績良いくせに馬鹿なのか?」
言葉の意味が分からない。
黙りこくっている二葉に、来栖は深いため息を吐く。
「全校に拡散されてんだよ、これ。黙ってないで嘘なら嘘って言えよ、馬鹿がよ」
開いている窓から飛び出したい衝動に駆られる。机を丸ごとベランダから投げ捨てて、一緒に飛び込みたい。
もどかしいのは、全く体が動かないことだ。人目に晒されている自分が恥ずかしくてしょうもないのに。外に出たくないのに。閉じこもりたいのに。動く気力がない。
こんなことになるなら朝食を抜いてくればよかった。さっさと気を失えたかもしれない。
なにをすればいい? 机を綺麗にして素知らぬ顔で授業を受け、勉強だけすればいい? だが、それは全部無駄なのだと来栖は言う。
分からない。なにも考えたくない。なにも。
ガラガラと、頭の右上の方でけたたましい音がなった。シン、と辺りが静まり返る。
「二葉、いる?」
耀士だった。声に引っ張られるように二葉は耀士が入ってきた扉の方を向く。
耀士は緊迫した雰囲気で、笑顔の一つもない。萎縮してしまう。
久々の耀士だ。顔を見たい。ごめんなさいと謝りたい。
目を見て話したい。
でも顔を向けられない。
「これ、どういうことだよ」
手にしていた紙の束を突きつけてくる。二葉の机の上に置いてある紙と全く同じものが十枚以上は束になっている。
静かな教室に緊張感が走った。
「なんだよこの机。あれもこれも、一体なんなんだよ」
俯いて黙り込んでいると、耀士の鋭い、ぴりぴりとした声がうなじに突き刺さる。
「もしかして靴箱もか? だから夏休みの時、靴を持ち歩いていたのか。……いつからだよ?」
戸惑いや怒りを押さえつけているせいで、かなりの圧がある。
「いつからこんなことになってるんだよ、二葉……! なんで……」
なんで、の後にどんな言葉が続いたのだろう。耀士の言葉は遮られてしまった。
「耀士くん、離れたほういいよ」
斜向かいから鈴のような声が飛んでくる。
「ホモが伝染るから」
語尾が上がって、それは堪えきれずに笑い声に変わった。
何人かのクスクスという嘲笑が聞こえる。
「黙ってろ藤木」
凄みのある耀士の声で、再びクラスがシンと静まり返った。
「二葉、これは嘘なのか? 本当なのか? どっちなんだ? お前はこれでいいのかよ」
さっきも来栖にされた質問だ。
いろんな選択肢が酸素の足りない頭に思い浮かんでくる。
結局どの選択をしても、自分にとってどこかは致命的でしかない。
これが今まで目を逸らしてきたツケか。
長い沈黙。
「クソッタレの意気地無し。少しは骨のあるやつだと思ってたのに。がっかりだよクサレメデューサ野郎。馬鹿は一生逃げ回ってろ」
来栖が吐き捨てた一言で、体が一気に熱くなった。
悩んでいたことが灰みたいに吹き流されて、なにもなくなった。
耀士の前でこれほど貶されて、一番見られたくない場面を見られて知られて、これ以下はないのに、もう取り繕う意味もない。
高校に行けなくなるより、惨めな思いをするよりも、耀士に失望されることのほうがずっと嫌だし苦しいと思う。彼を傷つけたままじゃ終われない。
せめて耀士にだけは誠実でありたい。
「嘘じゃない」
二葉は耀士と真正面から向き合った。
「それ全部、本当」
何故かすんなり耀士の目を見ることができた。
視線が素直に吸い込まれていく。
今までどれだけ頑張っても難しかったのに。
耀士の目は魅力が溢れている。
凛とした眉の下でビー玉みたいにきらきらしている彫りの深いきりりとした瞳だった。
目を見て話すのは不思議な感覚だ。
(……耀士くん、こんな顔してたんだ……)
初めて本当の意味で耀士の顔を見られた。
意思のこもった澄明な視線は、言葉はなくても何を訴えているのか感じることができる。
目を合わせられない自分は、隣にいても耀士の思いの半分も受け止めていなかったのだと悟った。失望されても仕方がなかった。
「ごめん。この前嘘吐いてごめん。無視してごめん……こんなで、ごめん」
笑った顔が見たかったな。目と目で会話してみたかったな。
重い前髪の後ろ側で、目から涙がぽろぽろ溢れてくる。
耀士に貰ったメッセージが頭を過った。
『俺のこと、嫌いになった?』
クラス中が耀士と二葉の動向を伺って、物音一つ聞こえない。
今更誰にどう思われようがおしまいだ。
それだったら、あの時返せなかった気持ちを返したい。
水面みたいにゆらゆら揺れる耀士の両目を、前髪越しに射抜いた。
伝わったのか知らないが、石のように固まって動かなくなった耀士を視線で捕まえる。
鼻を啜って、大きく息を吸い込んだ。
「耀士くんのこと、全然、嫌いじゃない」
耀士の目が大きく見開かれる。開いた瞳孔がたくさんの光を吸い込んで、突風に煽られた桜みたいにちかちかと明滅する。
自分は今まで彼のこんな仕草を見逃していたのか。もったいないことをしたなと思う。
「大好きだよ」
クラスがどよめき爆発したように悲鳴が飛び交っている。「いやーっ!」「うわあ」「きもーっ!」……息を呑む声や、短い叫び声が重なり合って事件現場みたいな悲惨な空気だ。
あの来栖までもが口を一文字にして目を見開いて動揺していた。
斜向かいから鋭いなにかを感じる。藤木が二葉に突進する勢いで腕を振りかざしていた。取り巻きに止められている。「ふざけんなてめえ!」という高音の向こう側から発せられる奇声が耳に爪痕を残す。
怪物に出遭ったようなクラス中の悲鳴を背中で浴びながら、耀士に近づいて背伸びした。
できるだけ耳元で囁く。
「好きでごめん」
「……っ!」
耀士はなにも言わない。
二葉は横を通り過ぎた。
そして、逃げるように教室を出て行った。
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