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オープニング

怨差の声②

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 時は少し前にさかのぼる、のだろうか。目の前の風景は中世ヨーロッパ だが、日本語、それも現代語を話しているため確証はない。ので、時系列が定まらないが、とりあえず自分の時間軸を頼りに語るとする。少なくともオレは、元々は現代日本の、都会ヅラをしているがそれほど都会ではない地域にいたはずだった。そこは見た目ほど治安のいい土地ではなく、むしろ小学生同士ですら、居住している地区ごとに民族紛争をしているような場所だった。

 その中でも最底辺である、スラムとも言える地区で育った私は、カビとダニと親のタバコのヤニにまみれ、どこからか聞こえて来る念仏と悲鳴、爆竹(だと思いたい)をBGMに過ごしていた。入って半年の会社では罵倒され、家では殴られ、目に見えて人相が悪くなっていくのを見ながら老いを感じていた。まだ20代後半である。老いという言葉を使うには早いと思う反面、眉間から消えないシワと落ち窪んだ目、への字に曲がった口元を見ながら『いずれ誰にでも訪れる老い』という嘆きと処理して胸の内に仕舞い込み、黙々と日々のルーチンをこなしていた。

 ある雨の夜だった。オレは駐輪場から自転車を引きながら家に帰る前の電話をした。向こう側から聞こえてくる声色を聴くに、恐らくは相当に不機嫌だろう。怯えを悟られないよう慎重に相槌を打って電話を切り、帰りたくない気持ちを抑えながら帰路に着く。傘を会社に忘れたが買い足すほどの金の余裕がなかったので、それなりの大雨の中をバシャバシャと自転車で走っていた時に、それは起こった。

 煌々こうこうと真っ白なライトを灯した巨大なトラックが、目の前に突如現れた。疲れていたからか、あるいはわかりづらい曲がり角の向こう側からきたからか、オレはそのトラックに、恐らくは見るも無惨な形で轢かれることになる。驚いた勢いで地面に転がった目の前には、巨大なタイヤが迫っていた。数瞬の走馬灯に愉快な記憶はそれほどなかった。そういえば、3日くらい前に衝動買いしたエロゲがあったな。勿体無いことをしたな。そんな心底どうでもいい心残りしかない人生だった。

 元の世界の記憶の最期の痛みは、炎で焼かれるよりもあっさりとしたものだった。ぱこ、という頭蓋の破裂音と共に全てが終わる──はずだった。
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