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四
れっきとした侍
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蒸し暑い。
杉原四郎兵衛はこの数日の間まともに眠っていない。
天正十三年の閏八月が、秋とは思えぬ日和続きであるから、という他にも理由はある。
世間が静かすぎる。
『もっと大きな騒ぎになると胸算用していたものを――』
この月の初めの二日に、川向こうの上田城のある方角に煙が上がったのが、この子檀嶺城からもはっきり見えた。
上田城が落城したのだ、と四郎兵衛は確信した。
全てが焼け落ちたのではなくとも、城に火が掛けられるほどには、城方は劣勢にはなったはずだ。
もし建築物が全部燃え果てて裸城になったなら、そこを守り抜くことは難しい。
そうであるなら、真田方は大負けに負けたか、城を捨てて逃げねばならない大打撃を受けたに違いない。
逃げる先はどこか。
徳川がいる東側は無理だ。南側は千曲川の分流の尼ヶ淵が渦を巻いている。北へ向かうにしても、真田昌幸自身が付け替えた矢出沢川がある。
残っている道は、西側のみだ。
しかし徳川勢が上田城を超えて西に進軍した様子はない。これは虚空蔵山中の葛尾城まで出張ってきている上杉勢と争うのを恐れてのことだろう。葛尾にいる部隊が怖いのではない。彼の部隊と戦うことが越後国にいる上杉に徳川と全面戦争を起こす口実にされる、その可能性が恐ろしい。
そうなれば、徳川の軍はどこへ向かうだろうか。
接収した上田城を足がかりに、周囲の山城を落としに掛かるはずだ。
まずは北東に向かって東太郎山峰先の砥石城か、あるいはさらに奥へ進んで真田の本城たる松尾城まで行ってしまうのか。
あるいは千曲川の支流の依田川の川筋を南へ遡って、丸子城を取りに行くだろうか。
それとも千曲川を越えて南下して塩田平へ「攻めて」来るのか――。
『半月……上田城が落ちてからもう半月以上過ぎている。どうしたんだ徳川は。どうしているんだ徳川は』
その晩も四郎兵衛は眠らなかった。
子檀嶺の「城」の中、地面に敷いた筵の上にあぐらをかいて、同じ筵で葺いた天井を見上げていた。
まだ夜は明けぬ。
「四郎!」
呼びかけたのは次郎太という若者だ。
次郎太は四郎兵衛の従兄だ。年齢は四郎兵衛より一つばかり上だったが、四郎兵衛のほうが本家筋だから、普段なら一応はへりくだって「四郎殿」などと呼ぶ。
呼び捨てにするのは、よほど同年代の従弟兼親友と共にいることに楽しさ嬉しさを覚えたときか、よほど本家の倅に対して腹の立つことがあったときに限られる。
今日は、後者であるようだ。
「四郎!」
返事がないので、再び次郎太が呼び捨てにしていう。
四郎兵衛は寝不足で血走った不機嫌な目を次郎太へ向けた。
「次郎の兄貴よ。俺のことは、皆の前では殿と呼べと言ったはずだ。俺はこの軍の総大将なんだ。たとえお前でも、そこをわきまえねば許さんぞ」
「なぁにが総大将だ。十やそこらの食い詰めの水呑田夫の頭になったのが、そんなにうれしいのかよ?」
次郎太はわざとらしく腹を抱えて笑って見せた。
「田夫じゃねぇ。俺は歴とした武士だ!」
四郎兵衛が怒鳴り返した。
杉原四郎兵衛はこの数日の間まともに眠っていない。
天正十三年の閏八月が、秋とは思えぬ日和続きであるから、という他にも理由はある。
世間が静かすぎる。
『もっと大きな騒ぎになると胸算用していたものを――』
この月の初めの二日に、川向こうの上田城のある方角に煙が上がったのが、この子檀嶺城からもはっきり見えた。
上田城が落城したのだ、と四郎兵衛は確信した。
全てが焼け落ちたのではなくとも、城に火が掛けられるほどには、城方は劣勢にはなったはずだ。
もし建築物が全部燃え果てて裸城になったなら、そこを守り抜くことは難しい。
そうであるなら、真田方は大負けに負けたか、城を捨てて逃げねばならない大打撃を受けたに違いない。
逃げる先はどこか。
徳川がいる東側は無理だ。南側は千曲川の分流の尼ヶ淵が渦を巻いている。北へ向かうにしても、真田昌幸自身が付け替えた矢出沢川がある。
残っている道は、西側のみだ。
しかし徳川勢が上田城を超えて西に進軍した様子はない。これは虚空蔵山中の葛尾城まで出張ってきている上杉勢と争うのを恐れてのことだろう。葛尾にいる部隊が怖いのではない。彼の部隊と戦うことが越後国にいる上杉に徳川と全面戦争を起こす口実にされる、その可能性が恐ろしい。
そうなれば、徳川の軍はどこへ向かうだろうか。
接収した上田城を足がかりに、周囲の山城を落としに掛かるはずだ。
まずは北東に向かって東太郎山峰先の砥石城か、あるいはさらに奥へ進んで真田の本城たる松尾城まで行ってしまうのか。
あるいは千曲川の支流の依田川の川筋を南へ遡って、丸子城を取りに行くだろうか。
それとも千曲川を越えて南下して塩田平へ「攻めて」来るのか――。
『半月……上田城が落ちてからもう半月以上過ぎている。どうしたんだ徳川は。どうしているんだ徳川は』
その晩も四郎兵衛は眠らなかった。
子檀嶺の「城」の中、地面に敷いた筵の上にあぐらをかいて、同じ筵で葺いた天井を見上げていた。
まだ夜は明けぬ。
「四郎!」
呼びかけたのは次郎太という若者だ。
次郎太は四郎兵衛の従兄だ。年齢は四郎兵衛より一つばかり上だったが、四郎兵衛のほうが本家筋だから、普段なら一応はへりくだって「四郎殿」などと呼ぶ。
呼び捨てにするのは、よほど同年代の従弟兼親友と共にいることに楽しさ嬉しさを覚えたときか、よほど本家の倅に対して腹の立つことがあったときに限られる。
今日は、後者であるようだ。
「四郎!」
返事がないので、再び次郎太が呼び捨てにしていう。
四郎兵衛は寝不足で血走った不機嫌な目を次郎太へ向けた。
「次郎の兄貴よ。俺のことは、皆の前では殿と呼べと言ったはずだ。俺はこの軍の総大将なんだ。たとえお前でも、そこをわきまえねば許さんぞ」
「なぁにが総大将だ。十やそこらの食い詰めの水呑田夫の頭になったのが、そんなにうれしいのかよ?」
次郎太はわざとらしく腹を抱えて笑って見せた。
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四郎兵衛が怒鳴り返した。
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