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正体
変化
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グラーヴ卿は帽子の下で嗤った。
歪んだ唇からは、みるみるうちに口紅の赤の色が失せた。塗りたくられた顔料によっても覆い隠せぬほど、その下の肉の色が変じたのであろうか。
死んだ血液の黒い色に変じた唇が、小さく動く。
「赤い、石……」
ほとんど同時に、楽屋の方角から獣じみた悲鳴が上がった。
マイヨールの耳には、それは女の声とは聞こえなかった。つまり、シルヴィーが泣き叫んでいるのではない。そして、地の底から響く、煉獄の業火に炙られる亡者のごとき叫び声が、可憐な「クレールの若様」の声音とも思えない。
マイヨールは目眩を起こした。恐怖や緊張と、胸の悪い臭気が、彼の神経を麻痺させた。
彼の背骨はまっすぐ立つ力を失い、身体が後ろ側へ傾いた。頭が放物線を描いて落ちる。体が楽団溜まりの中へ倒れ込んだ。
白んでゆく脳味噌で、しかし彼は必死で考えを巡らせていた。
『まさかにもソードマンの旦那が、あれほど情けなく泣き叫ぶとは思えない。
万が一にもあの旦那が絶叫するようなことがあったとしたら、同時に若様の悲鳴だって聞こえて良いはずだ。
妬けるが、あの人達はほとんど一心同体なのだから』
案ずることはない、お二人は無事だ。案ずることはない。そしてお二人が無事なら、もう一人、ウチのシルヴィーも無事に違いない。
彼は自分自身に言い聞かせた。
狭い楽団溜まりの中は蜂の巣を突いた騒ぎになっていた。
笛吹きたちが一度に舞台下へ通じる小さな潜り戸に殺到し、提琴弾きは命より大事な楽器を抱えてしゃがみ込み、喇叭吹きと指揮者が身を縮めておろおろと辺りを見回している。
倒れ込んできた劇作家の体を受け止めたのは竪琴弾きのユリディスという娘だった。
彼女は古い竪琴を打楽器弾きの胸ぐらに投げつけるように渡すと、開いた両腕を真っ直ぐに差し出して、落ちてくるマイヨールの頭を散らばった椅子への激突から守った。
マイヨールの上半身を抱え込んだ彼女は、白目を剥いたマイヨールの頬を平手で打った。
両頬を数度打っても彼は意識を取り戻さない。焦りを覚えたユリディスは、拳を握ると彼の頬桁を有りっ丈の力を込めて思い切り殴った。
そのおかげでマイヨールの魂は現世に引き戻された。
その代償が奥歯二本だというのは、むしろ安く上がったと言わねばなるまい。
マイヨールは咳き込みながら口の中の血と虫食いの奥歯を吐き出し、瞼をどうにか見開いた。
まだ霞む目で、細い黒い影を見た。
倒れ込み、仰ぎ見る格好になったおかげで、マイヨールはグラーヴ卿の顔立ち全体を見ることができた。
『この人の顔は、こんなだったか?』
昼間、酒屋で遭ったときとはまるきり別人のような気がした。
顔は青白く、唇は薄く、眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬髯も顎鬚もない。
それはあの時と同じだ。
しかし、どこかが違う。
顔立ちが僅かに丸みを帯びてきている。
顎のあたりのラインが、若々しさを感じる曲線を描きつつある。
歪んだ唇からは、みるみるうちに口紅の赤の色が失せた。塗りたくられた顔料によっても覆い隠せぬほど、その下の肉の色が変じたのであろうか。
死んだ血液の黒い色に変じた唇が、小さく動く。
「赤い、石……」
ほとんど同時に、楽屋の方角から獣じみた悲鳴が上がった。
マイヨールの耳には、それは女の声とは聞こえなかった。つまり、シルヴィーが泣き叫んでいるのではない。そして、地の底から響く、煉獄の業火に炙られる亡者のごとき叫び声が、可憐な「クレールの若様」の声音とも思えない。
マイヨールは目眩を起こした。恐怖や緊張と、胸の悪い臭気が、彼の神経を麻痺させた。
彼の背骨はまっすぐ立つ力を失い、身体が後ろ側へ傾いた。頭が放物線を描いて落ちる。体が楽団溜まりの中へ倒れ込んだ。
白んでゆく脳味噌で、しかし彼は必死で考えを巡らせていた。
『まさかにもソードマンの旦那が、あれほど情けなく泣き叫ぶとは思えない。
万が一にもあの旦那が絶叫するようなことがあったとしたら、同時に若様の悲鳴だって聞こえて良いはずだ。
妬けるが、あの人達はほとんど一心同体なのだから』
案ずることはない、お二人は無事だ。案ずることはない。そしてお二人が無事なら、もう一人、ウチのシルヴィーも無事に違いない。
彼は自分自身に言い聞かせた。
狭い楽団溜まりの中は蜂の巣を突いた騒ぎになっていた。
笛吹きたちが一度に舞台下へ通じる小さな潜り戸に殺到し、提琴弾きは命より大事な楽器を抱えてしゃがみ込み、喇叭吹きと指揮者が身を縮めておろおろと辺りを見回している。
倒れ込んできた劇作家の体を受け止めたのは竪琴弾きのユリディスという娘だった。
彼女は古い竪琴を打楽器弾きの胸ぐらに投げつけるように渡すと、開いた両腕を真っ直ぐに差し出して、落ちてくるマイヨールの頭を散らばった椅子への激突から守った。
マイヨールの上半身を抱え込んだ彼女は、白目を剥いたマイヨールの頬を平手で打った。
両頬を数度打っても彼は意識を取り戻さない。焦りを覚えたユリディスは、拳を握ると彼の頬桁を有りっ丈の力を込めて思い切り殴った。
そのおかげでマイヨールの魂は現世に引き戻された。
その代償が奥歯二本だというのは、むしろ安く上がったと言わねばなるまい。
マイヨールは咳き込みながら口の中の血と虫食いの奥歯を吐き出し、瞼をどうにか見開いた。
まだ霞む目で、細い黒い影を見た。
倒れ込み、仰ぎ見る格好になったおかげで、マイヨールはグラーヴ卿の顔立ち全体を見ることができた。
『この人の顔は、こんなだったか?』
昼間、酒屋で遭ったときとはまるきり別人のような気がした。
顔は青白く、唇は薄く、眼窩は黒く沈んだ色に染まっており、頬髯も顎鬚もない。
それはあの時と同じだ。
しかし、どこかが違う。
顔立ちが僅かに丸みを帯びてきている。
顎のあたりのラインが、若々しさを感じる曲線を描きつつある。
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