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鬼狩人クレールの夢
古の【世界】
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クレールは意識を失った。
深淵の底の深い闇に突き落とされたような、ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包んだ。
しかしそれは一瞬のことだった。
目を開いた。
床があった。
四角く切りそろえられた石が、律儀に隙間なく組み合わされた床だ。
合板を敷き詰めた舞台の床でも、ならした土の上に薄い布を敷いただけの移動式芝居小屋の床もなかった。
長い間日の光を浴びていない、燭台の灯火に照らされたことさえない、冷え切った石の床。
現実感のないその床に、クレールは打ち倒れている。
敷き詰められた石の目地の中で、埃のように細かい砂粒がブルブルと揺れていた。
いや、床が……彼女のいる場所全体が、揺れ動いている。
床の振動の奥から聞こえるのは、人の声、足音、物が壊れる音。
『戦争……』
直感したが、クレールはそれを確かめられない。
身を起こすことができなかった。
指の一本を動かすだけの力すら湧いてこない。
ただ石の床にうつ伏し倒れていることしかできない彼女の耳に、
「望みは叶ったか?」
強い風のうねりのような低い声が聞こえた。
声は、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
『望み?』
何を言われているのか、理解できなかった。
「【世界】の平和と安寧を願った者よ、人々が悲しみ怒ることを願わぬ者よ。
その望みはかなえられる。
そうだ、ここをお前の【世界】とすれば良いのだ。
お前はこの場所に君臨せよ。
お前の民は誰一人として悲しむことはなく、誰一人として苦しむことはない。
ここには餓えも貧しさも、不平等も搾取もない。
お前は誰からも攻められず、憎まれず、責められず、蔑まされない。
この何もない【世界】にいる限り」
クレールは目を閉じた。瞼の裏側の、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
首を横振った。
実際に首が動いたのかは、彼女にも解らない。
ただ彼女の心は、明確に拒絶と否定を示した。
「お前の言いたいことは判っているよ。
お前はこんな詭弁でごまかせるような子供ではない。
だがね……」
仄暗い闇の奥から、赫く薄明かるく光る、逞しい腕が差し出されるのが見えた。
「隔絶され、閉ざされた、小さな【世界】、それが今のお前の【世界】なのだよ。
そしてお前がここにいる限り、ここがお前の【世界】であり続ける」
『ここに、いる、限り……?』
耐えきれない違和感を覚えた瞬間、クレールの身体が不意に軽くなった。
腕に、背骨に、背筋に、腹筋に、腰に、脚に力を感じる。
彼女は冷たい床から身を起こした。腕で身体を支え、半身を起こして周囲を見回した。
狭い部屋だった。
石を積んだ強固な壁に、丸く取り巻かれている。
明かりはなく、薄暗い。
ただ一つ、手の届かない高見に空いた小さな窓から差し込む陽光だけが眩しい。
その歪んだ四角の枠の中の、小さく青く澄んだ空には、白い雲と灰色の煙が流れている。
高い天井から、細かい埃が落ちちてきた。
地面が揺れているのか、あるいはこの「建物」だけが揺すられているのか――。
「選ぶが良い。お前一人だけの【世界】の行く末を。
誰かに崩して貰うのを待って、瓦礫に押し潰されるか。
自分から切り崩して、外へ飛び出すか」
あの声がまたする。
「お前の選ぶべき道はわかっているだろう?
勇敢なノアール……いや、賢いクレール」
それは大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを覚え、同時に懐かしさをも感じた。
頭の上で、何かが壊れる音がした。
深淵の底の深い闇に突き落とされたような、ひたすらに沈み込んでゆくばかりの薄寒い浮遊感が彼女を包んだ。
しかしそれは一瞬のことだった。
目を開いた。
床があった。
四角く切りそろえられた石が、律儀に隙間なく組み合わされた床だ。
合板を敷き詰めた舞台の床でも、ならした土の上に薄い布を敷いただけの移動式芝居小屋の床もなかった。
長い間日の光を浴びていない、燭台の灯火に照らされたことさえない、冷え切った石の床。
現実感のないその床に、クレールは打ち倒れている。
敷き詰められた石の目地の中で、埃のように細かい砂粒がブルブルと揺れていた。
いや、床が……彼女のいる場所全体が、揺れ動いている。
床の振動の奥から聞こえるのは、人の声、足音、物が壊れる音。
『戦争……』
直感したが、クレールはそれを確かめられない。
身を起こすことができなかった。
指の一本を動かすだけの力すら湧いてこない。
ただ石の床にうつ伏し倒れていることしかできない彼女の耳に、
「望みは叶ったか?」
強い風のうねりのような低い声が聞こえた。
声は、一点の輝きと共に頭上から降ってきた気がした。
『望み?』
何を言われているのか、理解できなかった。
「【世界】の平和と安寧を願った者よ、人々が悲しみ怒ることを願わぬ者よ。
その望みはかなえられる。
そうだ、ここをお前の【世界】とすれば良いのだ。
お前はこの場所に君臨せよ。
お前の民は誰一人として悲しむことはなく、誰一人として苦しむことはない。
ここには餓えも貧しさも、不平等も搾取もない。
お前は誰からも攻められず、憎まれず、責められず、蔑まされない。
この何もない【世界】にいる限り」
クレールは目を閉じた。瞼の裏側の、血潮の色を帯びた暗闇だけが眼前にある。
首を横振った。
実際に首が動いたのかは、彼女にも解らない。
ただ彼女の心は、明確に拒絶と否定を示した。
「お前の言いたいことは判っているよ。
お前はこんな詭弁でごまかせるような子供ではない。
だがね……」
仄暗い闇の奥から、赫く薄明かるく光る、逞しい腕が差し出されるのが見えた。
「隔絶され、閉ざされた、小さな【世界】、それが今のお前の【世界】なのだよ。
そしてお前がここにいる限り、ここがお前の【世界】であり続ける」
『ここに、いる、限り……?』
耐えきれない違和感を覚えた瞬間、クレールの身体が不意に軽くなった。
腕に、背骨に、背筋に、腹筋に、腰に、脚に力を感じる。
彼女は冷たい床から身を起こした。腕で身体を支え、半身を起こして周囲を見回した。
狭い部屋だった。
石を積んだ強固な壁に、丸く取り巻かれている。
明かりはなく、薄暗い。
ただ一つ、手の届かない高見に空いた小さな窓から差し込む陽光だけが眩しい。
その歪んだ四角の枠の中の、小さく青く澄んだ空には、白い雲と灰色の煙が流れている。
高い天井から、細かい埃が落ちちてきた。
地面が揺れているのか、あるいはこの「建物」だけが揺すられているのか――。
「選ぶが良い。お前一人だけの【世界】の行く末を。
誰かに崩して貰うのを待って、瓦礫に押し潰されるか。
自分から切り崩して、外へ飛び出すか」
あの声がまたする。
「お前の選ぶべき道はわかっているだろう?
勇敢なノアール……いや、賢いクレール」
それは大きな声ではない。強い声でもない。穏やかで力のあるその響きに、クレールは耳新しさを覚え、同時に懐かしさをも感じた。
頭の上で、何かが壊れる音がした。
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