ふわふわの熊とお殿様

神光寺かをり

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蕎麦と饂飩と

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 川沿いの道に折れたすぐの所、矢澤屋の店の建物の横手に、窓付きの塗壁とけんぐちこしつきしょうがある。
 数ヶ月前までここにあった商家が『丹波や』であった頃は、こちら側を正面とした間口が狭く奥行きの深い店構えだった。矢澤屋はここに出店するにあたり、かめ町に面する側が正面になるように改築した。
 さらに、丹波や時代に店先だった側を仕切って、みせ一軒分の区画を作った。それがこの腰付障子の『内側』だ。

 矢澤屋の店の名が入った手拭いを姉さんかぶりにした福々しい中年の女性が奥から出てきた。名は体を表すと言うが、この女性の名もそれで、おたまという。
 お珠は左手に三段重ね、右手に二段重ねにした膳を乗せている。

「落ち着きましたら、あたしたちにはこちら側のたなうりを開かせるつもりだと、従兄あにが申しておるのですよ」

 煮売屋とは一種のそうざいのことだ。名前の通り主に煮物を扱い、一品あたり四文ほどで持ち帰り用に小売りしたり、店内できっしょくさせたりする。このとき飯や汁を追加注文すれば、そこそこの食事が摂れる。

「煮売屋とな? ではないのか?」

 入れ込みにあぐらを掻いた治左衛門の眉間にしわが寄っている。

「あたし共の郷である上田ちいさがたは、蕎麦そばばかりではなくどんうございますからね。蕎麦に肩入れなさる上田の殿様にも矢澤の殿様にも申し訳ござりませぬが、片方ばかり作るわけには参りません」

 お珠はにっこりと笑って、二段重ねの膳の方を、小県矢澤二千石領主・せんごくもんの前に置いた。

徳川家康ごんげんさまの頃、我が祖父がもろ城主になった折から、仙石家は蕎麦に凝っておってのぅ」

 治左衛門は少々拗ねたような、残念げな顔をした。
 しなののくにもろを領有していたせんごくひでひさの子・ただまさが上田藩へ入ったのが、仙石氏上田藩の始まりだ。
 その子で二代藩主であるまさとしが隠居した折、弟である治左衛門まさかつちいさがたぐん二千石が分知された。
 いわば生前分与かたみわけの領地によって、治左衛門は出世の見込めない「大名の部屋住み」から、働き次第では本家を越える大名にもなり得る「幕府旗本」となった。
 そうはいっても、治左衛門には大名を目指す程の出世欲はない様子だ。

「父の背を見、兄の背を見、跡を継いだ年少の甥を後見し、儂はつくづく感じ入ったのじゃよ。
 下手にしょうだいみょうになれば、幕府おかみから、やれ参勤交代だ、つだいしんだ、なぞとあれこれ言い付けられて、気をみ、しんだいをすり減らすことになる。
 ならばそこそこの旗本でいる方が、気も金も無駄に使わずに済む、とな」

 これが治左衛門の本音なのだ。

 お珠が運んできた膳の上にはどんつゆが三種類並べている。
 二段の膳の上の段に手を伸ばした矢野弾左衛門は膳を自分の前へ引き置いた。

「それで殿様、このつけじるは?」

 弾左衛門は、離れた場所に所在なげに座っている牛太夫、お寅、お熊の親子に給仕をしているお珠にではなく、目の前の治左衛門に尋ねた。
 汁は、白、緑、茶色の三種ある。白が大根おろしであるのはすぐに見て取れた。

「……だからといってただの大根おろしではないぞ。山葵わさびほども辛い。いや、それ以上かも知れぬな。
 隣のあおいのもな、大根じゃよ。くにもとではあおくび大根と呼んでおったな。しっかり大根の味がするのに甘い。
 茶色はるみという。味噌だれに当たり鉢で当たった胡桃を混ぜてある。香ばしさが癖になる」

 治左衛門がじょうぜつになっている。

「殿様が全部仰ってくださったから、あたしが言うことは無くなっちまいましたねぇ。
 ああ、辛み大根はお熊ちゃんのベロにはまだ早いだろうから、あおくびと胡桃味噌だけにしておいたよ」

 お珠はお熊の前に汁が二つだけで麺の盛りが少ない膳を置く。
 お熊がひょこりと頭を下げた。

「おたまさん、あんがとうござんます。おくまはからいのきらいのです。したがびりびりするのがとてもだめのです」

 弾左衛門が孫を見る祖父のとろけた顔をしている。
 治左衛門は『客』たちを急かすように手を叩いた。

「さあさおのおのがた、伸びないうちに食べてくれ。これこそ儂が故郷の味、そしてこの矢澤屋の主人のお袋の味ぞ」

「では遠慮無く頂戴いたします」
「頂戴いたします」
「頂きます」
「いたまきます」

 四つの声がし、蕎麦と饂飩をすする音があがる。

「おお、辛い!」

 叫んだのは弾左衛門、叫ぶことなく目を見開いたのは牛太夫、涙をこぼしたのがお寅だった。

「その辛さが良いのではないか!」

 破顔一笑する治左衛門だが、彼も蕎麦と一緒にはなみずをすすっている。

「確かに、確かに」

 そんたくなのか本心なのか解らないが、弾左衛門はひいひい言いながらも辛み大根で蕎麦をたぐり込んでいた。
 別席の牛太夫は目に涙をにじませつつ、

「これは酷い、堪らなく辛い、ああ鼻が痛い、口がヒリヒリする、頭の天辺に辛さが抜けて行く」

 文句を言いながら勢いよく蕎麦をすすり、また饂飩を吸い込む。
 そんな亭主に自分の分の辛み大根のつけ汁を押しつけたおとらは、緑首の方に麺を絡ませている。この甘い大根の汁を気に入ったようだ。
 お熊はまず胡桃味噌だれの中に饂飩を一本落とし、グルグルと掻き混ぜてすすった。続いて緑首おろしに蕎麦を一本入れて混ぜ、ちゅるっとすする。そのあとは饂飩を緑首に、蕎麦を胡桃味噌に……と、交互に楽しげに食べていた。
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