あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

文字の大きさ
21 / 28

21

しおりを挟む
夜会の喧騒から離れたテラスで、ファルルは冷え始めた夜風を浴びていた。

そこへ、ボロボロのプライドを必死にかき集めたシリウスが、音を立てて扉を開け放った。

「ファルル! まだだ、まだ納得がいかんぞ。お前は……お前はかつて、俺に『愛している』と言ったではないか!」

ファルルはゆっくりと振り返り、手にした扇子を静かに閉じた。

「ええ、言いましたわね。……ですが殿下、それはあくまで『契約維持のための定型文』に過ぎません」

「定型文だと!? あの時、俺が風邪を引いて寝込んだ際、三日三晩不眠不休で看病してくれたのは愛ではないというのか!」

「いいえ。あれは『重要資産の毀損を防ぐためのメンテナンス』ですわ」

ファルルは、事務的な報告でもするかのように淡々と続けた。

「あの時期は隣国との通商条約の締結直前でした。あなたが死んだり、後遺症が残ったりしては、私の数ヶ月に及ぶ準備がすべて水の泡になりますもの。必死にもなりますわ」

「な……なら、俺に贈ってくれたあの手編みの手袋は! あれを編むのに指先を傷だらけにしていたと聞いたぞ!」

「あれは指先の巧緻性を高めるための訓練です。……それと、あなたが手袋を紛失するたびに買い換える経費が馬鹿にならなかったので、自作してコストカットを図っただけですわ」

シリウスは、まるで剣で突かれたかのように胸を押さえて後ずさった。

「お前……。まさか、俺との全ての時間を、そんな計算ずくで過ごしていたのか?」

「計算だけではありませんわ。情熱もありました。……ですがそれは、あなたに向けられたものではなく、『シリウス・フォン・アルカディア』という、極めて制御困難で、欠陥だらけのプロジェクトをいかに完璧に完遂するか、という仕事への情熱です」

ファルルは一歩、シリウスに近づいた。

「殿下、あなたは私にとって、世界で一番やりがいのある『難解なパズル』でした。朝の着替えから夜の公務まで、私が糸を引かなければ崩壊するあなたを、完璧に操る。その達成感に、私は酔いしれていたのです」

「パズル……。俺を、パズルだと思っていたのか?」

「ええ。ですが、パズルは完成してしまえば、あとは額縁に入れて飾っておくだけのものですわ。……そして何より、私は気づいてしまったのです。自分ではない誰かの人生を完璧に整えるよりも、自分自身の人生を自由に経営する方が、よほど刺激的で、高利回りであることに」

ファルルの瞳には、かつてシリウスが求めたような献身的な光は微塵もなかった。

そこにあるのは、自らの価値を正当に評価し、次なる市場を見据えるプロフェッショナルの輝きだ。

「……残酷な女だ。お前は、俺に心なんて持っていなかったのか」

「いいえ。仕事への愛は本物でしたわ。……ですが、あなたが私を『解雇』してくださったおかげで、ようやく私はその重責から解放されました。今は、あなたを操縦するゲーム性よりも、自分でお湯を沸かして淹れるお茶の味の方が、よほど大切ですの」

シリウスは力なく手すりに縋り付いた。

彼が「愛」だと思っていたものの正体は、彼女という超一流のマネージャーによる、完璧な「オペレーション」の結果でしかなかったのだ。

「……さようなら、殿下。私の『最高傑作』としてのあなたは、私の記憶のアーカイブに大切に保存しておきますわ。……あ、もうアーカイブの容量が一杯になりそうなので、上書き保存されるのも時間の問題かもしれませんが」

「ファルル……待ってくれ、俺を……俺を見捨てないでくれ……!」

「失礼いたします。……セバス、もう帰りましょう。お肌のゴールデンタイムが過ぎてしまいますわ」

テラスの影から音もなく現れたセバスが、ファルルの肩に温かなショールをかけた。

「畏まりました。馬車の準備は整っております。……殿下、どうぞそのまま、美しい月夜とご自身の『孤独』をご堪能ください」

ファルルは一度も振り返ることなく、夜会の光の中へと戻っていった。

取り残されたシリウスの耳には、遠くで鳴り響く祝祭の音楽だけが、虚しく木霊していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

《完結》悪女と噂されたわたくしのざまぁ

ヴァンドール
恋愛
悪女と噂のわたくしとの結婚なら、どれほど軽んじても問題はないと思っていた旦那様。 ところが……。

聞き分けよくしていたら婚約者が妹にばかり構うので、困らせてみることにした

今川幸乃
恋愛
カレン・ブライスとクライン・ガスターはどちらも公爵家の生まれで政略結婚のために婚約したが、お互い愛し合っていた……はずだった。 二人は貴族が通う学園の同級生で、クラスメイトたちにもその仲の良さは知られていた。 しかし、昨年クラインの妹、レイラが貴族が学園に入学してから状況が変わった。 元々人のいいところがあるクラインは、甘えがちな妹にばかり構う。 そのたびにカレンは聞き分けよく我慢せざるをえなかった。 が、ある日クラインがレイラのためにデートをすっぽかしてからカレンは決心する。 このまま聞き分けのいい婚約者をしていたところで状況は悪くなるだけだ、と。 ※ざまぁというよりは改心系です。 ※4/5【レイラ視点】【リーアム視点】の間に、入れ忘れていた【女友達視点】の話を追加しました。申し訳ありません。

《本編完結》あの人を綺麗さっぱり忘れる方法

本見りん
恋愛
メラニー アイスナー子爵令嬢はある日婚約者ディートマーから『婚約破棄』を言い渡される。  ショックで落ち込み、彼と婚約者として過ごした日々を思い出して涙していた───が。  ……あれ? 私ってずっと虐げられてない? 彼からはずっと嫌な目にあった思い出しかないんだけど!?  やっと自分が虐げられていたと気付き目が覚めたメラニー。  しかも両親も昔からディートマーに騙されている為、両親の説得から始めなければならない。  そしてこの王国ではかつて王子がやらかした『婚約破棄騒動』の為に、世間では『婚約破棄、ダメ、絶対』な風潮がある。    自分の思うようにする為に手段を選ばないだろう元婚約者ディートマーから、メラニーは無事自由を勝ち取る事が出来るのだろうか……。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

忖度令嬢、忖度やめて最強になる

ハートリオ
恋愛
エクアは13才の伯爵令嬢。 5才年上の婚約者アーテル侯爵令息とは上手くいっていない。 週末のお茶会を頑張ろうとは思うもののアーテルの態度はいつも上の空。 そんなある週末、エクアは自分が裏切られていることを知り―― 忖度ばかりして来たエクアは忖度をやめ、思いをぶちまける。 そんなエクアをキラキラした瞳で見る人がいた。 中世風異世界でのお話です。 2話ずつ投稿していきたいですが途切れたらネット環境まごついていると思ってください。

愛はリンゴと同じ

turarin
恋愛
学園時代の同級生と結婚し、子供にも恵まれ幸せいっぱいの公爵夫人ナタリー。ところが、ある日夫が平民の少女をつれてきて、別邸に囲うと言う。 夫のナタリーへの愛は減らない。妾の少女メイリンへの愛が、一つ増えるだけだと言う。夫の愛は、まるでリンゴのように幾つもあって、皆に与えられるものなのだそうだ。 ナタリーのことは妻として大切にしてくれる夫。貴族の妻としては当然受け入れるべき。だが、辛くて仕方がない。ナタリーのリンゴは一つだけ。 幾つもあるなど考えられない。

【完結】恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?―――激しく同意するので別れましょう

冬馬亮
恋愛
「恋人にしたい人と結婚したい人とは別だよね?」 セシリエの婚約者、イアーゴはそう言った。 少し離れた後ろの席で、婚約者にその台詞を聞かれているとも知らずに。 ※たぶん全部で15〜20話くらいの予定です。 さくさく進みます。

鈍感令嬢は分からない

yukiya
恋愛
 彼が好きな人と結婚したいようだから、私から別れを切り出したのに…どうしてこうなったんだっけ?

処理中です...