あの日、最高の婚約破棄を。

八雲

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「待ちなさい! この泥棒猫……いえ、泥棒悪役令嬢!」

夜会も終盤、ファルルが会場を後にしようとしたその時、正面の扉が再び勢いよく跳ね上がった。

現れたのは、ボロボロに引き裂かれた(ように自分で加工した)ドレスを身に纏い、顔中にわざとらしい泥を塗ったリリアンだった。

会場の貴族たちが、その異様な姿に再びざわめき立つ。

「あら。リリアン様。実家へ損切りの逃避行をされたと伺っていましたが、その格好は……何かのパフォーマンスかしら?」

ファルルは足を止め、無表情に彼女を見つめた。

「ファルル様、ひどいですわ! あなたがシリウス様を裏切って、冷たい言葉を浴びせたせいで……あの方は今、庭の池で金魚と会話をしていらっしゃるんですのよ!」

「それは彼に新しい友人ができたということで、喜ばしいことではありませんか」

「ふざけないで! あなたがシリウス様を甘やかし、依存させるような『毒』を盛ったから、あの方は私との愛だけでは生きていけない身体になってしまったんですわ!」

リリアンは震える指でファルルを指差し、周囲に聞こえるように叫んだ。

「皆様、聞いてください! この方は、シリウス様を無能に見せかけることで、自分が王宮を支配しようとしていた恐ろしい女なんですの!」

会場に沈黙が流れる。しかし、それはリリアンへの同情ではなく、あまりにも論理性の欠片もない主張への困惑だった。

「リリアン様。まず一点、事実誤認を訂正します。私が殿下を無能に見せかけたのではありません。殿下の潜在的な無能さを、私の圧倒的な労働力で『隠蔽』していただけです」

ファルルは一歩、リリアンに近づいた。

「そして二点目。あなたが今、私を攻撃することで得られる『期待利益』は何ですか? ここで私を貶めたところで、あなたの手元に残るのは、金魚と話す元婚約者と、山積みの未決済書類だけですわよ」

「うっ……。そ、それは……でも、あなたが謝罪して、王宮に戻って、私の代わりに全部やってくれればいいんですの!」

「つまり、あなたは『私への嫌がらせ』をしたいのではなく、『私の有能さに寄生したい』という要求を、逆ギレという不適切なプレゼンテーションで伝えているだけですね?」

ファルルは呆れたように肩をすくめた。

「お話になりませんわ。セバス、彼女のこの暴挙による、本日の夜会の『運営遅延損害金』を算出しておいて」

「承知いたしました。お嬢様のドレスの美しさを鑑賞する時間が一分削られたことへの慰謝料を含め、金貨五十枚ほどでよろしいでしょうか」

「安いわね。百枚に上げなさい」

リリアンは顔を真っ赤にして、今度は泣き落とし作戦に出た。

「ひどい! ファルル様はいつもそうやってお金や数字の話ばかり! 愛はないんですか! 愛は!」

「愛、ですか。……リリアン様、あなたはかつて『愛があれば腹は膨れる』と仰いましたね。今のその薄汚れた格好、空腹のあまり厨房に忍び込もうとして衛兵に捕まった際の『名残』ではありませんか?」

リリアンがビクッと肩を震わせた。

「な、なぜそれを……」

「当家の情報網(セバスの雑談ネットワーク)を舐めないでくださいな。愛で腹が膨れるなら、なぜ公爵家のキッチンからベーコンの塊を盗もうとされたのです?」

会場から失笑が漏れる。もはやリリアンに「悲劇のヒロイン」としての面影はなかった。

「もういいわ、リリアン様。あなたの『逆襲』という名の甘えは、本日をもって終了です。……これ以上騒ぐなら、あなたの実家の男爵家に、これまでの『殿下への不適切な誘導による国益毀損』の請求書を送りますわよ?」

「せ、請求書……!?」

「ええ。桁は、あなたが一生かかっても覚えられないくらい多くなるはずですわ」

リリアンは絶望の表情を浮かべ、へなへなとその場に崩れ落ちた。

「さようなら、リリアン様。……次は、もう少し収益性の高い人生設計を立てることをお勧めしますわ」

ファルルは軽やかに踵を返し、今度こそ会場を後にした。

背後では、衛兵たちが「さあ、お嬢さん。ベーコンは返してもらおうか」とリリアンを連行していく声が聞こえていたが、ファルルはそれを心地よいBGMとして聞き流した。

「お嬢様、実に見事な『強制終了』でございました」

「当然よ。価値のない議論に費やす時間は、私の人生という名の資産において最大の損失ですもの」

夜の冷たい空気が、ファルルの火照った頬を優しく撫でた。

彼女の「完全勝利」という名の経営計画は、着実に最終段階へと向かっていた。
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