婚約破棄、心より感謝申し上げます!

苺マカロン

文字の大きさ
26 / 29

26

しおりを挟む
「……平和ね」

帰国から数日後。
私の相談所『バーミリオン』には、久しぶりに静寂が戻っていた。

クロード殿下は王宮で書類の山と格闘中(「師匠に褒められたい!」と叫びながら)。
ミナ様は、持ち帰った巨人ギガントを実家の農作業に従事させているらしい(「耕運機より便利です!」とのこと)。

そして、私の目の前には、いつものように特等席を占拠するシグルド様がいる。

ただし、今日は様子が違った。
いつもなら山積みの書類を片付けているはずの彼が、今日は何もせず、ただ紅茶のカップを見つめている。

「……公爵様?」

「……なんだ」

「仕事はいいんですか? 監査局の未処理案件、溜まってるんじゃ?」

「今日は休みだ」

「珍しいですね。あの仕事人間の公爵様が」

私がからかうように言うと、シグルド様はカップを置き、私を真っ直ぐに見た。

「アンズ。話がある」

その声のトーンに、私の背筋が伸びた。
いつもの軽口を叩く雰囲気ではない。
真剣で、どこか切羽詰まったような響き。

「……なんでしょう。まさか、支援打ち切りですか? 『やっぱり君の店は赤字だから潰す』とか?」

私は冗談めかして言ったが、心臓は早鐘を打っていた。
オリエント王国での「愛の試練の間」以来、私たちの距離は明らかに近くなりすぎていた。
お互いに、触れてはいけない一線――「本当の関係」に気づかない振りをしているような、もどかしい空気。

シグルド様は立ち上がり、ゆっくりとカウンターに歩み寄ってきた。

「契約の話だ」

「け、契約?」

「当初の契約を覚えているか? 『私がスポンサーになり、君は情報を共有する』。そして『互いの退屈を紛らわせる』」

「ええ、覚えてますよ。しっかり履行してますよね?」

「不十分だ」

シグルド様はカウンター越しに身を乗り出し、私の逃げ道を塞いだ。

「私はもう、退屈などしていない」

「え?」

「お前と出会ってから、毎日が刺激的すぎた。元婚約者のストーカー騒ぎ、筋肉女の暴走、隣国との外交トラブル……。私の人生で、これほど感情が揺れ動いた日々はない」

「それは……ご愁傷様です。慰謝料なら請求書を……」

「違う」

シグルド様が私の手首を掴んだ。
その手は熱く、少し震えているようにも見えた。

「アンズ。私は気づいてしまったんだ」

「な、何を?」

「他人の修羅場を観察するのも面白いが……自分の人生の主役になるのも、悪くないとな」

彼の青い瞳が、私を吸い込むように見つめている。

「私は今まで、自分を『観察者』だと思っていた。王族という立場上、感情を表に出さず、常に一歩引いて物事を見てきた。だが……お前を見ていると、どうしても冷静でいられなくなる」

「シグルド様……」

「お前が他の男に口説かれれば腹が立つ。お前が危険な目に遭えば心臓が止まりそうになる。お前が笑えば……私も嬉しくなる」

シグルド様は、掴んでいた私の手を引き寄せ、その甲に唇を押し当てた。
以前、契約の印としてした時とは違う。
もっと深く、重い口づけ。

「アンズ。ビジネスパートナーとしての契約は、今日で破棄する」

「……えっ」

「その代わり、新しい契約を結びたい」

彼は顔を上げ、はっきりと言った。

「私の妻になってくれ」

時が止まった。
店内の古時計の秒針の音だけが、カチ、カチと響く。

「……本気、ですか?」

私は震える声で尋ねた。

「私は、元婚約者に捨てられた傷物令嬢ですよ? 性格も悪いし、口も悪いし、貴族らしい振る舞いなんてできませんよ?」

「知っている。そこがいい」

「王妃になんてなりたくないし、ドレスよりエプロンが好きだし、毎日ここでお茶を飲んでいたいんですよ?」

「知っている。私もここで飲む茶が好きだ」

「……あなたの人生、めちゃくちゃになりますよ?」

「もう手遅れだ」

シグルド様はフッと笑った。
それは、今まで見た中で一番、優しく、そして愛おしさに満ちた笑顔だった。

「お前がいない人生など、もう退屈すぎて考えられない。……責任を取ってくれ、アンズ」

卑怯だ。
そんな風に言われて、断れるわけがない。

私は大きく息を吐き、そして……口角を上げた。

「……条件があります」

「なんだ? 国庫の半分か? それとも別荘か?」

「違います。この店です」

私は店内を見渡した。
私の城。
私の自由の象徴。

「公爵夫人になっても、ましてや王太子妃になっても……私はこの『相談所』を続けます。ただのお飾りのお姫様にはなりません」

「……ふっ」

シグルド様は肩を揺らして笑った。

「やはり、お前はブレないな」

「当然です。それが私ですから」

「いいだろう。許可する。ただし、条件がある」

「なんですか?」

「私も、ここで『用心棒兼雑用係』として働くことを許可しろ。……妻一人に危険な真似はさせられんからな」

「……公務はどうするんですか」

「クロードにやらせる」

「鬼ですね」

「合意か?」

シグルド様が手を差し出した。
私はその手を見つめ、そして強く握り返した。

「……交渉成立です、パートナー」

「いいや」

シグルド様は私をカウンター越しに引き寄せ、抱きしめた。

「『パートナー』ではない。『愛しい妻』だ」

「……はいはい。分かりましたよ、旦那様」

私が照れ隠しに軽口を叩こうとすると、その唇は塞がれた。
紅茶の香りがする、甘く長いキス。
窓の外で、スズメたちが驚いて飛び立つのが気配で分かった。

「……ん」

ようやく唇が離れると、シグルド様は満足げに、しかし少し照れくさそうに言った。

「……これで、文句はないな」

「一つだけあります」

「なんだ」

「今、入り口のドアが開いてました」

「……なに?」

シグルド様が振り返ると、半開きのドアの隙間から、数人の人影が覗いているのが見えた。

「師匠……! おめでとうございますぅぅぅ!!(号泣)」
「素晴らしい愛の形ですわ……! 大胸筋が震えます!」
「わんっ!」
「あらあら、若いっていいわねぇ」

クロード殿下、ミナ様、アレクサンダー、そして肉屋のマーサさんまで。
全員がハンカチを噛んで見守っていた。

「……いつから見ていた」

シグルド様の顔が、みるみる赤くなっていく。
氷の公爵、痛恨のミス。

「『契約破棄する』のあたりからです!」
「バッチリ見ましたよ!」

「……記憶を消す。全員並べ」

シグルド様が殺気を放ちながら剣に手をかける。
私は慌てて彼を止めた。

「いいじゃないですか、シグルド様。これも『公開プロポーズ』ですよ。弟君に負けてられませんし」

「……くっ」

シグルド様はバツが悪そうに顔を背け、私を抱きしめる腕に力を込めた。

「……見世物にされるのは癪だが。まあ、お前が私のものだと周知できるなら、悪くはないか」

「独占欲が強いですねぇ」

「言っただろう。私はお前に関しては、余裕がないんだ」

そう言って、彼はもう一度、今度は皆に見せつけるように、私の額にキスをした。

外から「キャーッ!」という歓声と、「リア充爆発しろ!」というクロード殿下の嫉妬の叫びが聞こえる。

私の「平穏な」隠居生活は、こうして終わりを告げた。
これからは、「王太子妃兼相談員」という、前代未聞の二足のわらじ生活が始まるのだ。

まあ、この最強のパートナーと一緒なら、どんな修羅場も笑って乗り越えられる気がする。
私はシグルド様の胸の中で、幸せなため息をついた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ

恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。 王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。 長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。 婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。 ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。 濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。 ※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています

次代の希望 愛されなかった王太子妃の愛

Rj
恋愛
王子様と出会い結婚したグレイス侯爵令嬢はおとぎ話のように「幸せにくらしましたとさ」という結末を迎えられなかった。愛し合っていると思っていたアーサー王太子から結婚式の二日前に愛していないといわれ、表向きは仲睦まじい王太子夫妻だったがアーサーにはグレイス以外に愛する人がいた。次代の希望とよばれた王太子妃の物語。 全十二話。(全十一話で投稿したものに一話加えました。2/6変更)

あなたに嘘を一つ、つきました

小蝶
恋愛
 ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…  最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ

裏切りの先にあるもの

マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。 結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。

10年前に戻れたら…

かのん
恋愛
10年前にあなたから大切な人を奪った

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

処理中です...