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「……マーシャ。その顔を隠せと言っているだろう。もっと深くフードを被るんだ」
王都の裏通り。潜入用の地味な灰色のローブを纏ったカイルが、甲斐甲斐しくマーシャの頭にフードを押し付けていた。
「もう、カイル様。これでは前が見えませんわ。鼻が塞がったら、美味しい匂いを嗅ぎ分けることができなくなってしまいます」
「それでいい。お前のその顔は、目立ちすぎる。……それに、他の男に見せたくないんだよ」
カイルは後半をボソボソと呟き、マーシャの肩を強く抱き寄せた。
「あら。カイル様って、意外と独占欲が強いのですわね? でもご安心を。私の瞳は今、美味しいものしか映しておりませんわ」
「……それはそれで、男として複雑な気分だがな」
カイルは溜息をつき、周囲を警戒した。
ここは王都。本来なら敵陣のど真ん中だ。
だが、すれ違う市民たちの足取りは重く、漂ってくるのは饐えたような嫌な匂いばかり。
「……ひどいものですわ。ランドール公爵家の息がかかった市場も、すっかり活気を失っていますわね」
一行が辿り着いたのは、王都の隅にひっそりと佇むランドール公爵邸の裏門だった。
かつては最高級のハーブが茂っていた庭園は、今や見る影もなく枯れ果てている。
「……父様、いらっしゃるかしら」
マーシャが合言葉のリズムで裏門を叩くと、中からガタリと大きな音がした。
現れたのは、かつては恰幅の良かったマーシャの父、ランドール公爵であった。
だが今の彼は、頬がこけ、目は虚ろである。
「……マーシャか? マーシャなのか!? おお、我が愛しの、そして最高のメニュー考案者よ!」
「父様! なんてお姿……! もしや、断罪のストレスで心労が?」
「いいや! 違うんだ、マーシャ! 聞いてくれ! ……昨日の晩餐、メインディッシュが『ただの茹でた豆』だったんだ! 塩加減も絶望的で、私は……私はもう、このままでは餓死してしまう!」
公爵は、娘の無事を喜ぶよりも先に、食卓の惨状を訴えて泣き崩れた。
カイルは呆然と立ち尽くした。
(……やはり、この親にしてこの子ありか)
「お父様、しっかりなさって! 私が戻ったからには、もうそんな不浄なものは食べさせませんわ! ……それで、地下の隠し倉庫の備蓄はどうなっていますの?」
「あそこも、ウィフレッドの息がかかった騎士団に没収されてしまった。あいつらは、私の秘蔵の『熟成バルサミコ酢』を、こともあろうに油汚れを落とすために使いやがったんだ!」
「――なんですって!?」
マーシャの背後から、リリアの『浄化の炎』よりも激しい怒りのオーラが立ち昇った。
「バルサミコ酢を……洗剤代わりに……? 万死。万死に値しますわ、ウィフレッド殿下!」
「マーシャ、落ち着け。顔が怖い。……というか、公爵。今の王宮の警備状況はどうなっている」
カイルが冷静に話を戻すと、公爵は鼻を啜りながら答えた。
「ああ……。卒業パーティーの準備で、城内は混乱の極みだ。何せ、まともな食事が作れる者がいないからな。……あ、そうだ。マーシャ、これを」
公爵は懐から、汚れた招待状を取り出した。
「それは?」
「パーティーの『臨時調理スタッフ』の募集要項だ。誰も応募してこなくて困っているらしい。……これを使えば、正面から城に潜り込めるぞ」
マーシャは、その紙を引ったくるように受け取った。
「……決まりましたわね。カイル様、私の『お掃除』の時間は、卒業パーティーのメインディッシュの時間に設定いたしますわ」
「ああ。俺の部下も、裏から配置に付かせよう。……だが、マーシャ」
カイルは彼女の手を握り、真剣な目で見つめた。
「絶対に無茶はするな。お前の身に何かあったら、俺は王国を更地にするぞ。……いや、美味しいものを一切生み出せない死の土地に変えてやる」
「……カイル様の過保護も、なかなかの美食家(グルメ)級ですわね」
マーシャはクスリと笑うと、父に向かって力強く頷いた。
「父様、待っていてください。明日の夜には、最高級のステーキと、極上のワインをあの方たちに『請求』してまいりますから!」
「頼んだぞ、マーシャ! 私は……私は、お前の作る『フォアグラのムース』を夢見て、今夜の不味い豆を耐え抜こう!」
こうして、公爵邸での密会は終わった。
マーシャの瞳には、かつてないほどの闘志が宿っている。
彼女を「悪役」として追放した王国。
その最大の罪は、彼女から食事を奪ったことではなく、彼女の愛する人々の食卓を汚したことだ。
「さあ、カイル様。ハンスさん。今夜は野営ですが、明日への活力のために、とっておきの『ビーフジャーキーの炊き込みご飯』を作りますわよ!」
「はっ! 喜んで準備いたします!」
不敵に笑うマーシャ。
卒業パーティーの会場で、ウィフレッドが口にするのは、果たして栄光の味か、それとも絶望の味か。
運命の断罪劇まで、あと二十四時間。
王都の裏通り。潜入用の地味な灰色のローブを纏ったカイルが、甲斐甲斐しくマーシャの頭にフードを押し付けていた。
「もう、カイル様。これでは前が見えませんわ。鼻が塞がったら、美味しい匂いを嗅ぎ分けることができなくなってしまいます」
「それでいい。お前のその顔は、目立ちすぎる。……それに、他の男に見せたくないんだよ」
カイルは後半をボソボソと呟き、マーシャの肩を強く抱き寄せた。
「あら。カイル様って、意外と独占欲が強いのですわね? でもご安心を。私の瞳は今、美味しいものしか映しておりませんわ」
「……それはそれで、男として複雑な気分だがな」
カイルは溜息をつき、周囲を警戒した。
ここは王都。本来なら敵陣のど真ん中だ。
だが、すれ違う市民たちの足取りは重く、漂ってくるのは饐えたような嫌な匂いばかり。
「……ひどいものですわ。ランドール公爵家の息がかかった市場も、すっかり活気を失っていますわね」
一行が辿り着いたのは、王都の隅にひっそりと佇むランドール公爵邸の裏門だった。
かつては最高級のハーブが茂っていた庭園は、今や見る影もなく枯れ果てている。
「……父様、いらっしゃるかしら」
マーシャが合言葉のリズムで裏門を叩くと、中からガタリと大きな音がした。
現れたのは、かつては恰幅の良かったマーシャの父、ランドール公爵であった。
だが今の彼は、頬がこけ、目は虚ろである。
「……マーシャか? マーシャなのか!? おお、我が愛しの、そして最高のメニュー考案者よ!」
「父様! なんてお姿……! もしや、断罪のストレスで心労が?」
「いいや! 違うんだ、マーシャ! 聞いてくれ! ……昨日の晩餐、メインディッシュが『ただの茹でた豆』だったんだ! 塩加減も絶望的で、私は……私はもう、このままでは餓死してしまう!」
公爵は、娘の無事を喜ぶよりも先に、食卓の惨状を訴えて泣き崩れた。
カイルは呆然と立ち尽くした。
(……やはり、この親にしてこの子ありか)
「お父様、しっかりなさって! 私が戻ったからには、もうそんな不浄なものは食べさせませんわ! ……それで、地下の隠し倉庫の備蓄はどうなっていますの?」
「あそこも、ウィフレッドの息がかかった騎士団に没収されてしまった。あいつらは、私の秘蔵の『熟成バルサミコ酢』を、こともあろうに油汚れを落とすために使いやがったんだ!」
「――なんですって!?」
マーシャの背後から、リリアの『浄化の炎』よりも激しい怒りのオーラが立ち昇った。
「バルサミコ酢を……洗剤代わりに……? 万死。万死に値しますわ、ウィフレッド殿下!」
「マーシャ、落ち着け。顔が怖い。……というか、公爵。今の王宮の警備状況はどうなっている」
カイルが冷静に話を戻すと、公爵は鼻を啜りながら答えた。
「ああ……。卒業パーティーの準備で、城内は混乱の極みだ。何せ、まともな食事が作れる者がいないからな。……あ、そうだ。マーシャ、これを」
公爵は懐から、汚れた招待状を取り出した。
「それは?」
「パーティーの『臨時調理スタッフ』の募集要項だ。誰も応募してこなくて困っているらしい。……これを使えば、正面から城に潜り込めるぞ」
マーシャは、その紙を引ったくるように受け取った。
「……決まりましたわね。カイル様、私の『お掃除』の時間は、卒業パーティーのメインディッシュの時間に設定いたしますわ」
「ああ。俺の部下も、裏から配置に付かせよう。……だが、マーシャ」
カイルは彼女の手を握り、真剣な目で見つめた。
「絶対に無茶はするな。お前の身に何かあったら、俺は王国を更地にするぞ。……いや、美味しいものを一切生み出せない死の土地に変えてやる」
「……カイル様の過保護も、なかなかの美食家(グルメ)級ですわね」
マーシャはクスリと笑うと、父に向かって力強く頷いた。
「父様、待っていてください。明日の夜には、最高級のステーキと、極上のワインをあの方たちに『請求』してまいりますから!」
「頼んだぞ、マーシャ! 私は……私は、お前の作る『フォアグラのムース』を夢見て、今夜の不味い豆を耐え抜こう!」
こうして、公爵邸での密会は終わった。
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彼女を「悪役」として追放した王国。
その最大の罪は、彼女から食事を奪ったことではなく、彼女の愛する人々の食卓を汚したことだ。
「さあ、カイル様。ハンスさん。今夜は野営ですが、明日への活力のために、とっておきの『ビーフジャーキーの炊き込みご飯』を作りますわよ!」
「はっ! 喜んで準備いたします!」
不敵に笑うマーシャ。
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