可愛げのない女とは婚約破棄?では、遠慮なく可愛くない反撃を。

ハチワレ

文字の大きさ
2 / 28

2

しおりを挟む
私の指先に唇を落とした男――隣国の若き公爵、カシアン・ノルド・グランヴィル閣下は、うっとりとした表情で私を見上げていた。

社交界では「冷徹な軍神」や「氷の貴公子」とまで呼ばれる彼だが、今その瞳に宿っているのは、およそ理性的とは言い難い熱量である。

私は、彼に握られたままの手を無機質に引き抜くと、ドレスのポケットから取り出した清潔なハンカチで、執拗に指先を拭いた。


「……閣下。初対面の、それも婚約破棄されたばかりの女性の手を、許可なく取るのは極めて不衛生です。それに、夜風にさらされた皮膚には雑菌が付着しております。不用意な接触は感染症のリスクを増大させるだけだということを、学ばなかったのですか?」


私の冷ややかな指摘を受け、カシアン閣下の肩がビクリと跳ねた。
彼は顔を覆うようにして、深く、重い吐息を漏らす。


「……素晴らしい。これだ、私が求めていたのは、この『氷を投げつけられるような快感』だ……! もっと言ってくれ。君の口から出る言葉は、どれも一級品の刺激物だ」


「……。閣下、お疲れのようですね。もしくは、脳のどこかの神経が、著しく短絡(ショート)している可能性を疑います。早急に医師の診察を受けることを強く推奨いたしますわ」


「短絡! 脳の診断! いいぞ、最高だミリアーナ。君は自分がどれほど稀有な才能を持っているか自覚していないのか?」


カシアン閣下は、一歩、私との距離を詰めてきた。
月明かりに照らされた彼の顔は、悔しいほどに整っている。
しかし、その端正な顔立ちから発せられる言葉は、極めて遺憾な内容だった。


「私はね、これまで数多くの令嬢から媚びを売られてきた。猫撫で声で、中身のない賛辞を並べ立てる女たちに、反吐(へど)が出るほど退屈していたんだ。だが、君は違う」


「私をあのおバカな王子と同じカテゴリーに入れないでいただけます? 私はただ、事実を事実として述べているだけです」


「そこだ! その『事実で相手を叩きのめす』姿勢! 君が会場で殿下を追い詰めていた姿、柱の影から見ていたが……あんなに鮮やかで効率的な断罪は初めて見た。特に鼻毛の指摘は芸術点が高い」


「……覗き見ですか。公爵ともあろう方が、趣味が悪いですね。ストーカー行為は立派な犯罪ですわ。訴えられたいのですか?」


私がジロリと睨みつけると、カシアン閣下はなぜか恍惚とした表情で胸を押さえた。
この男、ダメだ。話が通じない。
私は大きくため息をつき、彼を無視して歩き出した。


「待ってくれ、ミリアーナ。君はこれからどうするつもりだ? 実家であるオーブリー公爵家は、殿下との婚約を維持することを至上命題としていたはずだ。破棄された君を、あの一族が温かく迎えるとは思えないが」


その指摘には、私も足を止めざるを得なかった。
おっしゃる通り、私の父は「王妃の父」という肩書きに執着している。
婚約破棄され、あまつさえ王子に恥をかかせた娘など、良くて幽閉、悪ければどこかの成金に売り飛ばされるのが関の山だろう。


「ええ、分かっていますわ。ですから、家には戻りません。そのまま街へ出て、自力で生計を立てるつもりです。幸い、実務能力だけは叩き込まれていますから」


「女一人でか? それはあまりにも非効率的だ。君ほどの知性を、安宿の掃除や帳簿係で終わらせるのは、国家的な損失だと思わないか?」


「損失かどうかを判断するのは私自身です。閣下にとやかく言われる筋合いはありません」


私が突き放すと、カシアン閣下はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
彼は懐から、金色の縁取りがされた重厚なカードを取り出した。


「そこで提案だ。私の『専属秘書』にならないか? 給与は今の生活の三倍、個室と三食を保証しよう。仕事内容は、私の生活態度の改善、および領地経営における無駄の徹底的な排除……そして、私への『適切な教育的指導』だ」


「……最後の一項目が、非常に不純な動機に聞こえるのですが」


「気のせいだ。私は真剣に、君のその冷徹なまでの事務処理能力を求めている。……どうだ? オーブリー公爵家という鳥籠から逃げ出し、私の元でその毒舌を振るってみないか?」


私は、差し出されたカードを凝視した。
正直なところ、条件は破格だ。
今から安宿を探して、明日から職探しに奔走する苦労を考えれば、この変態的な公爵の提案に乗る方が、生存戦略としては正しい。


「……一つ確認ですが。私はあなたの愛人になるつもりはありませんし、夜のお相手などもってのほかです。そのような要求が一度でもあれば、即座に訴訟を起こし、あなたの不名誉を世界中に宣伝しますが、よろしいですね?」


「もちろんだ! むしろ、そんなことをして君に軽蔑の眼差しで見られることを想像しただけで……いや、失礼。とにかく、契約はあくまで仕事としてだ」


「……分かりました。では、お受けいたしますわ。ただし、私の指導は非常に厳しいですわよ? あなたのその、緩みきった私生活を更生させるには、相当な時間と罵倒が必要になりそうですから」


「ああ、頼む! 思う存分、私を正してくれ、ミリアーナ!」


カシアン閣下は満足げに頷くと、再び私の手を取ろうとして、私の鋭い視線に気づき、慌てて手を引っ込めた。


「……失礼した。まだ除菌が済んでいなかったな」


「学習能力があるのは素晴らしいことですわ。では、行きましょうか。まずはその、無駄に長い前髪を切るところから始めますわよ。視界の遮りは判断ミスを招きますから」


「素晴らしい! 初仕事が散髪指導とは! 君を選んで本当に正解だった!」


こうして、私は婚約破棄されたその日のうちに、隣国の公爵に雇われることになった。
背後でパーティー会場から聞こえる喧騒は、もう遠い世界の出来事のようだった。


私は明日からの「更生計画」を頭の中で組み立てながら、意気揚々と歩くカシアン閣下の後ろを追った。
……まさか、この男の「更生」が、王国の運命まで変えてしまうことになるとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

一年後に離婚すると言われてから三年が経ちましたが、まだその気配はありません。

木山楽斗
恋愛
「君とは一年後に離婚するつもりだ」 結婚して早々、私は夫であるマグナスからそんなことを告げられた。 彼曰く、これは親に言われて仕方なくした結婚であり、義理を果たした後は自由な独り身に戻りたいらしい。 身勝手な要求ではあったが、その気持ちが理解できない訳ではなかった。私もまた、親に言われて結婚したからだ。 こうして私は、一年間の期限付きで夫婦生活を送ることになった。 マグナスは紳士的な人物であり、最初に言ってきた要求以外は良き夫であった。故に私は、それなりに楽しい生活を送ることができた。 「もう少し様子を見たいと思っている。流石に一年では両親も納得しそうにない」 一年が経った後、マグナスはそんなことを言ってきた。 それに関しては、私も納得した。彼の言う通り、流石に離婚までが早すぎると思ったからだ。 それから一年後も、マグナスは離婚の話をしなかった。まだ様子を見たいということなのだろう。 夫がいつ離婚を切り出してくるのか、そんなことを思いながら私は日々を過ごしている。今の所、その気配はまったくないのだが。

妻よりも幼馴染が大事? なら、家と慰謝料はいただきます

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢セリーヌは、隣国の王子ブラッドと政略結婚を果たし、幼い娘クロエを授かる。結婚後は夫の王領の離宮で暮らし、義王家とも程よい関係を保ち、領民に親しまれながら穏やかな日々を送っていた。 しかし数ヶ月前、ブラッドの幼馴染である伯爵令嬢エミリーが離縁され、娘アリスを連れて実家に戻ってきた。元は豊かな家柄だが、母子は生活に困っていた。 ブラッドは「昔から家族同然だ」として、エミリー母子を城に招き、衣装や馬車を手配し、催しにも同席させ、クロエとアリスを遊ばせるように勧めた。 セリーヌは王太子妃として堪えようとしたが、だんだんと不満が高まる。

頑張らない政略結婚

ひろか
恋愛
「これは政略結婚だ。私は君を愛することはないし、触れる気もない」 結婚式の直前、夫となるセルシオ様からの言葉です。 好きにしろと、君も愛人をつくれと。君も、もって言いましたわ。 ええ、好きにしますわ、私も愛する人を想い続けますわ! 五話完結、毎日更新

勝手にしろと言われたので、勝手にさせていただきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
子爵家の私は自分よりも身分の高い婚約者に、いつもいいように顎でこき使われていた。ある日、突然婚約者に呼び出されて一方的に婚約破棄を告げられてしまう。二人の婚約は家同士が決めたこと。当然受け入れられるはずもないので拒絶すると「婚約破棄は絶対する。後のことなどしるものか。お前の方で勝手にしろ」と言い切られてしまう。 いいでしょう……そこまで言うのなら、勝手にさせていただきます。 ただし、後のことはどうなっても知りませんよ? * 他サイトでも投稿 * ショートショートです。あっさり終わります

自発的に失踪していた夫が、三年振りに戻ってきました。「もう一度やり直したい?」そんな都合のいいことがよく言えますね。

木山楽斗
恋愛
セレント公爵家の夫人であるエファーナは、夫であるフライグが失踪してから、彼の前妻の子供であるバルートと暮らしていた。 色々と大変なことはあったが、それでも二人は仲良く暮らしていた。実の親子ではないが、エファーナとバルートの間には確かな絆があったのだ。 そんな二人の前に、三年前に失踪したフライグが帰って来た。 彼は、失踪したことを反省して、「もう一度やり直したい」と二人に言ってきたのである。 しかし、二人にとってそれは許せないことだった。 身勝手な理由で捨てられた後、二人で手を取り合って頑張って来た二人は、彼を切り捨てるのだった。

幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。

灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。 曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。 婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。 前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。

悪役令嬢の末路

ラプラス
恋愛
政略結婚ではあったけれど、夫を愛していたのは本当。でも、もう疲れてしまった。 だから…いいわよね、あなた?

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

処理中です...