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「……止めてください。ここで降りますわ」
馬車が繁華街の入り口に差し掛かったところで、私はきっぱりと告げた。
対面に座るカシアン閣下は、獲物を逃した大型犬のような顔をして私を見た。
「何を言っているんだ、ミリアーナ。このまま私の屋敷へ行けばいい。客室はいくらでも余っているし、羽毛の質も保証する。今夜からすぐに私の生活態度を罵倒してくれて構わないんだぞ?」
「お断りします。私はまだ、あなたの屋敷へ行くための心の準備も、荷物の整理もできておりません。それに、正式な契約書も交わしていない段階で主人の屋敷に転がり込むなど、公爵令嬢としての……いえ、一人の職業婦人としてのプライドが許しませんわ」
「プライド! 素晴らしい、その頑固さ! だが、こんな夜更けに女一人でどこへ行くつもりだ?」
「安宿ですわ。この国の庶民がどのような環境で生活しているのか、知っておくのも秘書の務めでしょう。閣下は、どうぞお先に。……あと、その名残惜しそうな顔、非常に見苦しいですよ。公爵としての威厳が霧散しています」
「……くっ、見苦しい……! 最高だ……。分かった、君の意思を尊重しよう。だが、明日の朝一番に、私が迎えに来ることだけは許可してくれ」
私は閣下の言葉を無視して、馬車を降りた。
重厚な扉が閉まり、馬車が去っていく音を聞きながら、私は大きく伸びをした。
「……さて。まずは、今夜の城(宿)を決めなくては」
手元にあるのは、ドレスの隠しポケットに忍ばせていた僅かな金貨と、あの「説教手帳」だけ。
実家から持ち出したものは何一つない。
だが、不思議と心は軽かった。
私は迷わず、一番安そうな――そして一番「掃除のしがいがありそうな」宿の門を叩いた。
「いらっしゃい。……って、あんた、そんな綺麗なドレス着て、うちみたいなボロ宿に何の用だい?」
宿の主人は、眠たそうに目をこすりながら私を不審げに見つめた。
私は扇で口元を隠し、冷ややかな視線を向けた。
「一泊お願いしたいのです。それと、部屋の鍵を。……あ、その前に。あなたの後ろの棚、埃が三ミリほど積もっていますわよ。換気効率が落ちて、宿全体の湿度が上がり、ダニが繁殖する原因になります。今すぐ拭きなさい」
「は……? なんだい、いきなり説教かい?」
「事実を指摘しているだけです。客に不衛生な空気を吸わせるのは、宿泊業としての怠慢、あるいは犯罪に近い行為ですわ。部屋代は払います。ただし、部屋の清掃が行き届いていない場合は、清掃代として宿泊費から差し引かせていただきますわよ」
「な、なんだこのお嬢様……。分かったよ、ほら、鍵だ! 二階の一番奥だよ!」
投げ出された鍵を素手で受け取るのを躊躇い、私はハンカチ越しにそれを掴んだ。
案内された部屋は、予想を上回る惨状だった。
ベッドのシーツは黄ばみ、窓枠には得体の知れない汚れがこびりついている。
普通のお嬢様なら泣いて逃げ出すところだろう。
だが、私はむしろ、燃えていた。
「……ふん。やりがいがありますわね。ウィルフレッド様の歪んだ性格を矯正するよりは、この部屋を磨き上げる方が、よほど建設的ですわ」
私はドレスの袖をまくり上げ、裾を膝上までたくし上げて縛った。
公爵令嬢が絶対にしてはいけない格好だが、誰も見ていない。
私は宿の主人から掃除用具(という名のボロ布とバケツ)を分捕ると、深夜の「大掃除」を開始した。
キュッ、キュッ、と床を磨く音が、静かな夜の部屋に響く。
不思議だ。
王宮でダンスを踊っている時よりも、お茶会で中身のない会話に付き合っている時よりも、今の方がずっと「生きている」実感がある。
「……自由。なんて素晴らしい言葉かしら。明日から、私は私自身の力で、あの変態公爵から給料をもぎ取る。そして、いつかはこの国……いえ、隣国の経済を裏から支配するほどの秘書になってみせるわ」
一時間後。
部屋は見違えるほどに輝きを取り戻した。
不衛生な臭いは消え、窓からは月の光が清々しく差し込んでいる。
私は満足げに頷くと、清潔になった(私が洗った)シーツの上に身を投げ出した。
少し硬いベッドだが、誰かに指図されることも、誰かの鼻毛を気にする必要もない夜は、最高の贅沢だった。
だが、眠りに落ちる直前、窓の外からガサリと音がした。
「……。誰です?」
私は瞬時に起き上がり、手近にあったバケツ(汚水入り)を掴んだ。
窓を開けると、そこには宿の隣の木に登り、双眼鏡を構えたカシアン閣下の姿があった。
「……ミリアーナ。君が、その、たくましくドレスをたくし上げて床を磨く姿……実にかっこよかった。私は感動して、つい……」
「……。閣下、今すぐそこから飛び降りて、地面に頭を打ち付けて、その歪んだ煩悩をリセットしてきてください。さもなくば、この特製汚水をあなたの高級な髪にぶっかけますわよ?」
「お願いする! ぜひぶっかけてくれ!」
「……寝ます。明日、私があなたの屋敷に行かなかったら、それは私があなたを軽蔑しすぎて消滅したと思ってください」
ピシャリと窓を閉め、私は鍵を厳重にかけた。
外から「ああ……拒絶された……! 幸せだ……!」という声が聞こえてきたが、私は耳に綿を詰め、無理やり目を閉じた。
私の新生活は、どうやら前途多難どころか、崖っぷちからのスタートのようである。
それでも、私は明日が楽しみで仕方がなかった。
馬車が繁華街の入り口に差し掛かったところで、私はきっぱりと告げた。
対面に座るカシアン閣下は、獲物を逃した大型犬のような顔をして私を見た。
「何を言っているんだ、ミリアーナ。このまま私の屋敷へ行けばいい。客室はいくらでも余っているし、羽毛の質も保証する。今夜からすぐに私の生活態度を罵倒してくれて構わないんだぞ?」
「お断りします。私はまだ、あなたの屋敷へ行くための心の準備も、荷物の整理もできておりません。それに、正式な契約書も交わしていない段階で主人の屋敷に転がり込むなど、公爵令嬢としての……いえ、一人の職業婦人としてのプライドが許しませんわ」
「プライド! 素晴らしい、その頑固さ! だが、こんな夜更けに女一人でどこへ行くつもりだ?」
「安宿ですわ。この国の庶民がどのような環境で生活しているのか、知っておくのも秘書の務めでしょう。閣下は、どうぞお先に。……あと、その名残惜しそうな顔、非常に見苦しいですよ。公爵としての威厳が霧散しています」
「……くっ、見苦しい……! 最高だ……。分かった、君の意思を尊重しよう。だが、明日の朝一番に、私が迎えに来ることだけは許可してくれ」
私は閣下の言葉を無視して、馬車を降りた。
重厚な扉が閉まり、馬車が去っていく音を聞きながら、私は大きく伸びをした。
「……さて。まずは、今夜の城(宿)を決めなくては」
手元にあるのは、ドレスの隠しポケットに忍ばせていた僅かな金貨と、あの「説教手帳」だけ。
実家から持ち出したものは何一つない。
だが、不思議と心は軽かった。
私は迷わず、一番安そうな――そして一番「掃除のしがいがありそうな」宿の門を叩いた。
「いらっしゃい。……って、あんた、そんな綺麗なドレス着て、うちみたいなボロ宿に何の用だい?」
宿の主人は、眠たそうに目をこすりながら私を不審げに見つめた。
私は扇で口元を隠し、冷ややかな視線を向けた。
「一泊お願いしたいのです。それと、部屋の鍵を。……あ、その前に。あなたの後ろの棚、埃が三ミリほど積もっていますわよ。換気効率が落ちて、宿全体の湿度が上がり、ダニが繁殖する原因になります。今すぐ拭きなさい」
「は……? なんだい、いきなり説教かい?」
「事実を指摘しているだけです。客に不衛生な空気を吸わせるのは、宿泊業としての怠慢、あるいは犯罪に近い行為ですわ。部屋代は払います。ただし、部屋の清掃が行き届いていない場合は、清掃代として宿泊費から差し引かせていただきますわよ」
「な、なんだこのお嬢様……。分かったよ、ほら、鍵だ! 二階の一番奥だよ!」
投げ出された鍵を素手で受け取るのを躊躇い、私はハンカチ越しにそれを掴んだ。
案内された部屋は、予想を上回る惨状だった。
ベッドのシーツは黄ばみ、窓枠には得体の知れない汚れがこびりついている。
普通のお嬢様なら泣いて逃げ出すところだろう。
だが、私はむしろ、燃えていた。
「……ふん。やりがいがありますわね。ウィルフレッド様の歪んだ性格を矯正するよりは、この部屋を磨き上げる方が、よほど建設的ですわ」
私はドレスの袖をまくり上げ、裾を膝上までたくし上げて縛った。
公爵令嬢が絶対にしてはいけない格好だが、誰も見ていない。
私は宿の主人から掃除用具(という名のボロ布とバケツ)を分捕ると、深夜の「大掃除」を開始した。
キュッ、キュッ、と床を磨く音が、静かな夜の部屋に響く。
不思議だ。
王宮でダンスを踊っている時よりも、お茶会で中身のない会話に付き合っている時よりも、今の方がずっと「生きている」実感がある。
「……自由。なんて素晴らしい言葉かしら。明日から、私は私自身の力で、あの変態公爵から給料をもぎ取る。そして、いつかはこの国……いえ、隣国の経済を裏から支配するほどの秘書になってみせるわ」
一時間後。
部屋は見違えるほどに輝きを取り戻した。
不衛生な臭いは消え、窓からは月の光が清々しく差し込んでいる。
私は満足げに頷くと、清潔になった(私が洗った)シーツの上に身を投げ出した。
少し硬いベッドだが、誰かに指図されることも、誰かの鼻毛を気にする必要もない夜は、最高の贅沢だった。
だが、眠りに落ちる直前、窓の外からガサリと音がした。
「……。誰です?」
私は瞬時に起き上がり、手近にあったバケツ(汚水入り)を掴んだ。
窓を開けると、そこには宿の隣の木に登り、双眼鏡を構えたカシアン閣下の姿があった。
「……ミリアーナ。君が、その、たくましくドレスをたくし上げて床を磨く姿……実にかっこよかった。私は感動して、つい……」
「……。閣下、今すぐそこから飛び降りて、地面に頭を打ち付けて、その歪んだ煩悩をリセットしてきてください。さもなくば、この特製汚水をあなたの高級な髪にぶっかけますわよ?」
「お願いする! ぜひぶっかけてくれ!」
「……寝ます。明日、私があなたの屋敷に行かなかったら、それは私があなたを軽蔑しすぎて消滅したと思ってください」
ピシャリと窓を閉め、私は鍵を厳重にかけた。
外から「ああ……拒絶された……! 幸せだ……!」という声が聞こえてきたが、私は耳に綿を詰め、無理やり目を閉じた。
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それでも、私は明日が楽しみで仕方がなかった。
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