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嵐のような初日の整理整頓が一段落し、私はカシアン閣下と向かい合って執務机に座っていた。
机の上は、先ほどまでのカオスが嘘のように、項目別に分類された書類が整然と積み上げられている。
「……さて。閣下。まずは、正式な契約書を交わしましょう。私は口約束で動くほど、お人好しではありませんの」
私は手帳から、あらかじめ書き出しておいた契約案を机に叩きつけた。
カシアン閣下は、それを宝物でも見るような目で見つめ、ゆっくりと読み上げ始めた。
「……『第一条:乙(ミリアーナ)は甲(カシアン)の私生活、および領地経営におけるすべての無駄を排除する全権を有する』。ほう、全権か。いい響きだ」
「当然ですわ。責任を持たせるなら、それ相応の権限をいただくのが道理。……次を読みなさい。そこが重要です」
「『第二条:甲は、乙による教育的指導、すなわち罵倒、叱咤、冷徹な指摘に対して一切の反論を禁じ、むしろ感謝の意を持ってこれを受け入れるものとする』……。……っ!!」
カシアン閣下が、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
その顔は歓喜に震え、瞳には熱いものが込み上げている。
「感謝の意を持って受け入れる……! ミリアーナ、君はなんて慈悲深いんだ! 君に罵られることを、義務ではなく『権利』として認めてくれるというのか!?」
「……。閣下、感動するポイントが著しくズレています。それは、あなたが私の指導に逆らって業務を停滞させるのを防ぐための『防衛策』に過ぎません。……いいから座りなさい。見苦しいですよ」
「ああ! 『見苦しい』! 本日十回目のご褒美、感謝する!」
「……。話が進みませんので、その変態的なリアクションは、一日につき三回までに制限します。四回目以降は、給与から罰金を差し引きますわよ?」
閣下は慌てて口を押さえ、借りてきた猫のように静かになった。
私は満足げに頷き、ペンを走らせる。
「第三条、報酬についてです。先ほど『今の生活の三倍』とおっしゃいましたが、具体的な数字に換算するとこうなります。……これに、無駄を削減した分からのインセンティブ(成果報酬)を追加していただきますわ」
「……。……ふむ。これは、相場よりもかなり高いな」
カシアン閣下が、珍しく真面目な顔で書類を凝視した。
私は一歩も引かずに言い返す。
「高い? 心外ですわね。私の指導によって、この屋敷の維持費は今後三ヶ月で三割は削減されます。その削減分に比べれば、私の給与など端金(はしたがね)のようなもの。……それとも、閣下は自分の生活習慣の改善に、それだけの価値もないとお考えなのですか?」
「いや、安い。安すぎるくらいだ! 君の言葉一つ一つに金貨を払いたい気分だよ。……よし、契約成立だ。今すぐサインしよう」
カシアン閣下は、流れるような手つきで契約書に署名し、自らの印章を力強く押し当てた。
これで、私は正式にこの屋敷の「支配者」……もとい、「専属秘書」となったわけだ。
「契約完了ですわね。……では、早速ですが閣下。第四条に基づき、本日の最初のミッションを通達いたします」
「……。ごくり。何かな? さらに激しい罵倒かな?」
「いいえ。……健康管理です。閣下、昨夜の就寝時間は何時でしたか?」
問い詰められた閣下が、視線を泳がせた。
「ええと……書類を片付けて、君の磨いた床を思い出していたら、だいたい午前三時を過ぎていたような……」
「……論外ですわね。午前三時!? 人間が成長ホルモンを分泌し、脳の老廃物を除去するゴールデンタイムを、あろうことか『妄想』で無駄に過ごすとは。……あなたの脳は、すでに腐り始めているのではありませんか?」
「腐り始めている……! ああ、脳へのダイレクトな侮辱……心地いい……」
「喜んでいる暇があったら、今すぐその顔を洗ってきなさい! 目の下にクマを作った公爵など、領民に不安を与えるだけです。本日から、閣下の就寝時間は午後十一時厳守。一分でも遅れた場合は、翌日の私の口数は半分になりますわよ?」
「なっ……! それは困る! 君に叱られない一日など、味のしないガムを噛み続けるような苦行だ!」
「ならば守ることです。……執事長!」
扉の外で様子を伺っていたであろう執事長が、ビクッとして入ってきた。
「は、はい! お呼びでしょうか、ミリアーナ様!」
「閣下の夕食の献立を変更します。脂っこい肉料理は控え、脳の活性化を促す青魚と、ビタミン豊富な野菜を多めに。……それから、寝室の寝具もすべて交換します。枕の高さが閣下の頸椎に合っていませんわ。だから彼は、あんなに性格が歪んでしまったのです」
「……。さ、左様でございますか……。頸椎のせいだったのですか……」
執事長は、どこか遠い目をしてメモを取っていた。
カシアン閣下はといえば、「頸椎からくる性格の歪み」という新しい指摘に、うっとりと酔いしれている。
「……ふふ。ミリアーナ。君が来てから、この屋敷が急激に『熱』を帯び始めた気がするよ。……もちろん、私の体温も上がっているが」
「……。それは発熱です。今すぐ寝室へ。……あ、言い忘れましたが、閣下。明日の朝は、午前六時に叩き起こしますわよ。朝の散歩と、私への進捗報告(および罵倒の受給)から一日を始めていただきます」
「ああ……。明日の朝が、こんなに待ち遠しいのは生まれて初めてだ……」
私は、幸せそうに(あるいは不気味に)笑う雇用主を冷たく見下ろした。
私の新生活は、どうやら「健康」と「正論」と「変態」に囲まれた、とんでもない日々になりそうだった。
けれど、不思議と胸が躍っている自分に気づく。
ウィルフレッド様に従順だった頃の私よりも、今の私の方が、ずっと「可愛くない」けれど「自分らしい」。
「……さあ。まずはこの山積みの書類を、私が眠るまでにすべて片付けてしまいますわよ」
私は赤ペンを武器のように構え、新たな戦場へと身を投じた。
机の上は、先ほどまでのカオスが嘘のように、項目別に分類された書類が整然と積み上げられている。
「……さて。閣下。まずは、正式な契約書を交わしましょう。私は口約束で動くほど、お人好しではありませんの」
私は手帳から、あらかじめ書き出しておいた契約案を机に叩きつけた。
カシアン閣下は、それを宝物でも見るような目で見つめ、ゆっくりと読み上げ始めた。
「……『第一条:乙(ミリアーナ)は甲(カシアン)の私生活、および領地経営におけるすべての無駄を排除する全権を有する』。ほう、全権か。いい響きだ」
「当然ですわ。責任を持たせるなら、それ相応の権限をいただくのが道理。……次を読みなさい。そこが重要です」
「『第二条:甲は、乙による教育的指導、すなわち罵倒、叱咤、冷徹な指摘に対して一切の反論を禁じ、むしろ感謝の意を持ってこれを受け入れるものとする』……。……っ!!」
カシアン閣下が、ガタッと椅子を鳴らして立ち上がった。
その顔は歓喜に震え、瞳には熱いものが込み上げている。
「感謝の意を持って受け入れる……! ミリアーナ、君はなんて慈悲深いんだ! 君に罵られることを、義務ではなく『権利』として認めてくれるというのか!?」
「……。閣下、感動するポイントが著しくズレています。それは、あなたが私の指導に逆らって業務を停滞させるのを防ぐための『防衛策』に過ぎません。……いいから座りなさい。見苦しいですよ」
「ああ! 『見苦しい』! 本日十回目のご褒美、感謝する!」
「……。話が進みませんので、その変態的なリアクションは、一日につき三回までに制限します。四回目以降は、給与から罰金を差し引きますわよ?」
閣下は慌てて口を押さえ、借りてきた猫のように静かになった。
私は満足げに頷き、ペンを走らせる。
「第三条、報酬についてです。先ほど『今の生活の三倍』とおっしゃいましたが、具体的な数字に換算するとこうなります。……これに、無駄を削減した分からのインセンティブ(成果報酬)を追加していただきますわ」
「……。……ふむ。これは、相場よりもかなり高いな」
カシアン閣下が、珍しく真面目な顔で書類を凝視した。
私は一歩も引かずに言い返す。
「高い? 心外ですわね。私の指導によって、この屋敷の維持費は今後三ヶ月で三割は削減されます。その削減分に比べれば、私の給与など端金(はしたがね)のようなもの。……それとも、閣下は自分の生活習慣の改善に、それだけの価値もないとお考えなのですか?」
「いや、安い。安すぎるくらいだ! 君の言葉一つ一つに金貨を払いたい気分だよ。……よし、契約成立だ。今すぐサインしよう」
カシアン閣下は、流れるような手つきで契約書に署名し、自らの印章を力強く押し当てた。
これで、私は正式にこの屋敷の「支配者」……もとい、「専属秘書」となったわけだ。
「契約完了ですわね。……では、早速ですが閣下。第四条に基づき、本日の最初のミッションを通達いたします」
「……。ごくり。何かな? さらに激しい罵倒かな?」
「いいえ。……健康管理です。閣下、昨夜の就寝時間は何時でしたか?」
問い詰められた閣下が、視線を泳がせた。
「ええと……書類を片付けて、君の磨いた床を思い出していたら、だいたい午前三時を過ぎていたような……」
「……論外ですわね。午前三時!? 人間が成長ホルモンを分泌し、脳の老廃物を除去するゴールデンタイムを、あろうことか『妄想』で無駄に過ごすとは。……あなたの脳は、すでに腐り始めているのではありませんか?」
「腐り始めている……! ああ、脳へのダイレクトな侮辱……心地いい……」
「喜んでいる暇があったら、今すぐその顔を洗ってきなさい! 目の下にクマを作った公爵など、領民に不安を与えるだけです。本日から、閣下の就寝時間は午後十一時厳守。一分でも遅れた場合は、翌日の私の口数は半分になりますわよ?」
「なっ……! それは困る! 君に叱られない一日など、味のしないガムを噛み続けるような苦行だ!」
「ならば守ることです。……執事長!」
扉の外で様子を伺っていたであろう執事長が、ビクッとして入ってきた。
「は、はい! お呼びでしょうか、ミリアーナ様!」
「閣下の夕食の献立を変更します。脂っこい肉料理は控え、脳の活性化を促す青魚と、ビタミン豊富な野菜を多めに。……それから、寝室の寝具もすべて交換します。枕の高さが閣下の頸椎に合っていませんわ。だから彼は、あんなに性格が歪んでしまったのです」
「……。さ、左様でございますか……。頸椎のせいだったのですか……」
執事長は、どこか遠い目をしてメモを取っていた。
カシアン閣下はといえば、「頸椎からくる性格の歪み」という新しい指摘に、うっとりと酔いしれている。
「……ふふ。ミリアーナ。君が来てから、この屋敷が急激に『熱』を帯び始めた気がするよ。……もちろん、私の体温も上がっているが」
「……。それは発熱です。今すぐ寝室へ。……あ、言い忘れましたが、閣下。明日の朝は、午前六時に叩き起こしますわよ。朝の散歩と、私への進捗報告(および罵倒の受給)から一日を始めていただきます」
「ああ……。明日の朝が、こんなに待ち遠しいのは生まれて初めてだ……」
私は、幸せそうに(あるいは不気味に)笑う雇用主を冷たく見下ろした。
私の新生活は、どうやら「健康」と「正論」と「変態」に囲まれた、とんでもない日々になりそうだった。
けれど、不思議と胸が躍っている自分に気づく。
ウィルフレッド様に従順だった頃の私よりも、今の私の方が、ずっと「可愛くない」けれど「自分らしい」。
「……さあ。まずはこの山積みの書類を、私が眠るまでにすべて片付けてしまいますわよ」
私は赤ペンを武器のように構え、新たな戦場へと身を投じた。
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