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翌朝、午前六時ちょうど。
私は、借りた客室の鏡の前で完璧に身なりを整え、カシアン閣下の寝室の前に立っていた。
手に持っているのは、厨房から借りてきた特大の真鍮製ベルだ。
これを、扉の前で遠慮なく打ち鳴らす。
「閣下! 起床時間ですわ! いつまで泥のように眠り、貴重な人生の時間を無駄に浪費しているのですか! 今すぐ起きなさい、この怠慢の塊!」
ガンガンと鼓膜を揺らす轟音と共に、私の鋭い声が廊下に響き渡った。
数秒後、扉が勢いよく開き、髪を振り乱したカシアン閣下が飛び出してきた。
その顔は、睡眠不足など微塵も感じさせないほど輝いている。
「……! 素晴らしい……。鼓膜が痺れるような、暴力的なまでのモーニングコール。ミリアーナ、君の声で目覚める朝が、これほどまでに官能的だとは……」
「……。閣下。朝一番にその手の発言をするのは、精神衛生上、極めて不適切です。それから、その格好は何ですか? 寝巻きのボタンが一つ掛け違っていますわよ。自分の指先の制御すらできないのですか?」
「あ、ああ……! 指摘されて初めて気づいた。私の不完全さを君に暴かれる喜び……。さあ、もっと。もっと私の朝のルーチンを否定してくれ」
「喜んでいる暇があったら、顔を洗ってきなさい。三分以内に身支度を終えられなければ、今日の朝食のデザートは抜きにしますわ」
「三分!? それは過酷だ……。だが、君の命令ならば遂行しよう!」
閣下が慌てて部屋に引っ込んだのを見届けてから、私はダイニングルームへと向かった。
そこには、昨夜私が指示を出したにもかかわらず、まだ贅を尽くした料理を並べようとしている使用人たちの姿があった。
「……ちょっと待ち。その金箔が散らされたオムレツは、誰の許可を得て作っていますの?」
「は、はい! 閣下は毎朝、最高級の食材を召し上がるのが恒例でして……」
シェフが震えながら答える。
私はそのオムレツを指差し、冷徹に言い放った。
「金箔に栄養価はありませんわ。むしろ、重金属の過剰摂取は内臓に負担をかけるだけ。閣下の消化器官をゴミ箱代わりに使うのはおやめなさい。今すぐ、その成金趣味な飾りを排除した、普通の――それでいて栄養バランスの完璧な食事に作り直しなさい」
「で、ですが、そんな質素なものを閣下にお出ししたら、私たちの首が……」
「首が飛ぶのを心配する前に、閣下の血管が詰まるのを心配しなさい。責任はすべて私が取ります。さあ、動きなさい! 三、二、一……!」
カウントダウンを開始すると、シェフたちは悲鳴を上げて厨房へと走り去った。
その様子を後ろから眺めていた執事長が、ハンカチで額の汗を拭っている。
「ミリアーナ様……。本当に、閣下はこれで満足されるのでしょうか? これまで何十年も、この屋敷は贅沢こそが美徳とされてきましたが……」
「執事長。贅沢と浪費は別物ですわ。今のこの屋敷は、ただの『自己満足の展示場』に成り下がっています。私はそれを、機能的で合理的な『公爵の拠点』に作り変えるだけです。……あ、それから。その壁に掛かっている三枚組の肖像画、位置が二センチほどズレています。閣下の性格が歪む原因になりますから、今すぐ直しておきなさい」
「……。二、二センチで性格が……。承知いたしました」
執事長が半ば悟りを開いたような顔で立ち去った頃、身支度を終えたカシアン閣下がやってきた。
彼の前に出されたのは、私の指示通りの、地元の野菜をふんだんに使ったスープと、焼きたての全粒粉パン。
そして、金箔など一切ない、極めてシンプルなオムレツだ。
「……ほう。これはまた、随分と簡素な……いや、失礼。非常に『効率的』な朝食だね」
「閣下の今日の活動予定を鑑みれば、摂取カロリーはこの程度で十分です。余剰なエネルギーは脂肪となり、あなたのその、無駄に整った顔立ちを醜く歪ませるだけですから。……さあ、黙って食べなさい。食べるのも仕事のうちですわ」
「……! 醜く歪む……! 私の美醜まで管理してくれるのか! ああ、一口ごとに君の愛情(という名の正論)が五臓六腑にしみわたる……。美味い、美味いよミリアーナ!」
「……。味が良ければそれでいいですわ。……それと閣下、食事中に独り言を漏らすのはマナー違反です。それから、スプーンの持ち方。少し力が入りすぎています。道具は愛でるものではなく、使うものですわ。もっとスマートに扱いなさい」
「はい! ご指導、ありがとうございます!」
周囲の使用人たちは、質素な朝食を幸せそうに頬張り、なおかつ叱られて悦ぶ主人を、もはや「別の生き物」を見るような目で眺めていた。
食事を終えると、私は間髪入れずに分厚い書類の束を閣下の前に叩きつけた。
「満足したなら、次はこの予算案の修正案に目を通してください。昨夜私がチェックしましたが、庭園の維持費、特に『孔雀の飼育代』が異常です。閣下、あなたは孔雀に税金を払わせるつもりですか? 彼らが何か生産的な活動をしているとでも?」
「い、いや……。あれは先代からの趣味で……」
「先代が間違っていたのなら、現当主が正すのが道理。今すぐ里親を探しなさい。さもなくば、私が明日のメインディッシュにして差し上げますわよ」
「……!! メインディッシュ……! その徹底した合理主義、好きだ!」
「好きだとか嫌いだとか、脳内の不純物を口に出す暇があるなら、ペンを動かしなさい! ほら、ここ! 計算が一桁間違っていますわ! 閣下、あなたは指が十本しかないのですか? それとも、算数は三歳児で止まっているのですか?」
「……っはぁ! たまらない。……三歳児……! 今の、もう一度言ってくれないか?」
「二度と言いません! 早く書きなさい!」
こうして、グランヴィル公爵邸の朝は、私の罵倒と閣下の歓喜、そして使用人たちの困惑と共に、極めて「賑やか」に始まっていくのだった。
私は、借りた客室の鏡の前で完璧に身なりを整え、カシアン閣下の寝室の前に立っていた。
手に持っているのは、厨房から借りてきた特大の真鍮製ベルだ。
これを、扉の前で遠慮なく打ち鳴らす。
「閣下! 起床時間ですわ! いつまで泥のように眠り、貴重な人生の時間を無駄に浪費しているのですか! 今すぐ起きなさい、この怠慢の塊!」
ガンガンと鼓膜を揺らす轟音と共に、私の鋭い声が廊下に響き渡った。
数秒後、扉が勢いよく開き、髪を振り乱したカシアン閣下が飛び出してきた。
その顔は、睡眠不足など微塵も感じさせないほど輝いている。
「……! 素晴らしい……。鼓膜が痺れるような、暴力的なまでのモーニングコール。ミリアーナ、君の声で目覚める朝が、これほどまでに官能的だとは……」
「……。閣下。朝一番にその手の発言をするのは、精神衛生上、極めて不適切です。それから、その格好は何ですか? 寝巻きのボタンが一つ掛け違っていますわよ。自分の指先の制御すらできないのですか?」
「あ、ああ……! 指摘されて初めて気づいた。私の不完全さを君に暴かれる喜び……。さあ、もっと。もっと私の朝のルーチンを否定してくれ」
「喜んでいる暇があったら、顔を洗ってきなさい。三分以内に身支度を終えられなければ、今日の朝食のデザートは抜きにしますわ」
「三分!? それは過酷だ……。だが、君の命令ならば遂行しよう!」
閣下が慌てて部屋に引っ込んだのを見届けてから、私はダイニングルームへと向かった。
そこには、昨夜私が指示を出したにもかかわらず、まだ贅を尽くした料理を並べようとしている使用人たちの姿があった。
「……ちょっと待ち。その金箔が散らされたオムレツは、誰の許可を得て作っていますの?」
「は、はい! 閣下は毎朝、最高級の食材を召し上がるのが恒例でして……」
シェフが震えながら答える。
私はそのオムレツを指差し、冷徹に言い放った。
「金箔に栄養価はありませんわ。むしろ、重金属の過剰摂取は内臓に負担をかけるだけ。閣下の消化器官をゴミ箱代わりに使うのはおやめなさい。今すぐ、その成金趣味な飾りを排除した、普通の――それでいて栄養バランスの完璧な食事に作り直しなさい」
「で、ですが、そんな質素なものを閣下にお出ししたら、私たちの首が……」
「首が飛ぶのを心配する前に、閣下の血管が詰まるのを心配しなさい。責任はすべて私が取ります。さあ、動きなさい! 三、二、一……!」
カウントダウンを開始すると、シェフたちは悲鳴を上げて厨房へと走り去った。
その様子を後ろから眺めていた執事長が、ハンカチで額の汗を拭っている。
「ミリアーナ様……。本当に、閣下はこれで満足されるのでしょうか? これまで何十年も、この屋敷は贅沢こそが美徳とされてきましたが……」
「執事長。贅沢と浪費は別物ですわ。今のこの屋敷は、ただの『自己満足の展示場』に成り下がっています。私はそれを、機能的で合理的な『公爵の拠点』に作り変えるだけです。……あ、それから。その壁に掛かっている三枚組の肖像画、位置が二センチほどズレています。閣下の性格が歪む原因になりますから、今すぐ直しておきなさい」
「……。二、二センチで性格が……。承知いたしました」
執事長が半ば悟りを開いたような顔で立ち去った頃、身支度を終えたカシアン閣下がやってきた。
彼の前に出されたのは、私の指示通りの、地元の野菜をふんだんに使ったスープと、焼きたての全粒粉パン。
そして、金箔など一切ない、極めてシンプルなオムレツだ。
「……ほう。これはまた、随分と簡素な……いや、失礼。非常に『効率的』な朝食だね」
「閣下の今日の活動予定を鑑みれば、摂取カロリーはこの程度で十分です。余剰なエネルギーは脂肪となり、あなたのその、無駄に整った顔立ちを醜く歪ませるだけですから。……さあ、黙って食べなさい。食べるのも仕事のうちですわ」
「……! 醜く歪む……! 私の美醜まで管理してくれるのか! ああ、一口ごとに君の愛情(という名の正論)が五臓六腑にしみわたる……。美味い、美味いよミリアーナ!」
「……。味が良ければそれでいいですわ。……それと閣下、食事中に独り言を漏らすのはマナー違反です。それから、スプーンの持ち方。少し力が入りすぎています。道具は愛でるものではなく、使うものですわ。もっとスマートに扱いなさい」
「はい! ご指導、ありがとうございます!」
周囲の使用人たちは、質素な朝食を幸せそうに頬張り、なおかつ叱られて悦ぶ主人を、もはや「別の生き物」を見るような目で眺めていた。
食事を終えると、私は間髪入れずに分厚い書類の束を閣下の前に叩きつけた。
「満足したなら、次はこの予算案の修正案に目を通してください。昨夜私がチェックしましたが、庭園の維持費、特に『孔雀の飼育代』が異常です。閣下、あなたは孔雀に税金を払わせるつもりですか? 彼らが何か生産的な活動をしているとでも?」
「い、いや……。あれは先代からの趣味で……」
「先代が間違っていたのなら、現当主が正すのが道理。今すぐ里親を探しなさい。さもなくば、私が明日のメインディッシュにして差し上げますわよ」
「……!! メインディッシュ……! その徹底した合理主義、好きだ!」
「好きだとか嫌いだとか、脳内の不純物を口に出す暇があるなら、ペンを動かしなさい! ほら、ここ! 計算が一桁間違っていますわ! 閣下、あなたは指が十本しかないのですか? それとも、算数は三歳児で止まっているのですか?」
「……っはぁ! たまらない。……三歳児……! 今の、もう一度言ってくれないか?」
「二度と言いません! 早く書きなさい!」
こうして、グランヴィル公爵邸の朝は、私の罵倒と閣下の歓喜、そして使用人たちの困惑と共に、極めて「賑やか」に始まっていくのだった。
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