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ニーアが即席の「相談窓口」と化した露店で、契約書の束を整理していた時のことだ。
それまで騒がしかった市場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……おい、見ろよ。あんな立派な馬車、下町に来るなんて珍しいぜ」
「どこの大貴族だ? 騎士が護衛についてるぞ」
野次馬たちの視線の先には、漆黒の装甲に銀の紋章が刻まれた、見るからに頑丈そうな馬車が止まっていた。
そこから降りてきたのは、夜の闇を溶かし込んだような黒髪と、冷徹な氷河を思わせる鋭い瞳を持つ青年だった。
整った容姿は彫刻のように美しいが、纏う空気があまりに冷たく、周囲の人間は自然と道を開けてしまう。
「……あれが噂の『隣国の氷公爵』か?」
「ジークハルト・ノア・ヴァレンシュタイン。なんでこんな汚い市場に……」
そんな囁きを意に介さず、ジークハルトは一直線にニーアの露店へと歩み寄った。
ニーアは、算盤を弾く手を止めることなく、顔だけを上げてその「上客」を値踏みした。
「……いらっしゃいませ。恐れ入りますが、レンタルの列はあちらの最後尾に並んでいただけますか? 身分による優先搭乗、もとい優先契約は別途特急料金を頂戴しておりますが」
周囲の貴族や騎士たちが、ニーアの不敬とも取れる発言に息を呑む。
だが、ジークハルトは怒るどころか、じっとニーアの手元……正確には彼女が書き上げた契約書を見つめた。
「……この契約体系、君が考えたのか?」
「左様でございます。初期投資を抑え、継続的なキャッシュフローを確保するためのサブスクリプション方式ですわ。何か問題でも?」
「問題はない。極めて合理的だ。……だが、魔石の摩耗率に対する価格設定が、あと零・五パーセント安くできるはずだ。この回路の組み方なら、魔力消費をさらに抑えられる」
ジークハルトは無造作に身を乗り出し、ニーアの魔改造ランプを指差した。
ニーアの眉が、ぴくりと動く。
「……ほう? その零・五パーセントの余剰分を、どこで回収するおつもりで?」
「筐体の冷却フィンを薄型化し、表面積を広げることで放熱効率を上げる。その分の材料費削減で、顧客還元を行えば、市場占有率は三割増しになる」
「……! ですが、フィンの薄型化は耐久性を損なうリスクがありますわ。メンテナンスコストの増大をどうお考えかしら?」
「特殊な防錆塗装を施せばいい。我が領地の特産品だ。……原価で提供してもいいぞ」
二人の間で、火花が散るような「効率化議論」が展開される。
周囲は「公爵が令嬢に一目惚れして口説いている」という甘い展開を期待していたが、実際の内容は極めてドライな原価計算の話だった。
「……素晴らしい。私の計算式にこれほど的確な修正案を出されたのは、貴方が初めてですわ」
ニーアは初めて算盤を置き、立ち上がって優雅に一礼した。
「改めて自己紹介を。ニーア・フォン・アステリア……いえ、現在はただの個人事業主ニーアです」
「ジークハルト・ノア・ヴァレンシュタインだ。君の噂は聞いていた。『王宮の金庫番をしていた狂犬令嬢』だと」
「あら、失礼ですわね。『忠実な番犬』と呼んでいただきたいものです。……それで、公爵様。これほどの効率化オタクが、私に何の御用でしょう?」
ジークハルトは、無表情なままニーアの手を握った。
「君をスカウトしに来た。私の領地の財政は、無駄な贅沢を好む無能な役人どもによって、一五パーセントの損失を出し続けている」
「……一五パーセント! それは万死に値しますわね!」
「同感だ。そこで、君に全権を委ねたい。私のパートナーとして……いや、『最高経営責任者』として、私の隣で算盤を弾いてはくれないか?」
それは、公爵からの事実上の求婚(プロポーズ)……のように聞こえなくもなかったが。
「条件は?」
ニーアの問いは、色気も何もないものだった。
「私の領地全域の商業利権の三割。および、君専用の最新型計算機と、二十四時間稼働可能な執務室を保証しよう」
「……交渉成立ですわ、ジークハルト様。今日から貴方の財布は、私が一ゴルドの狂いもなく守り抜いて差し上げます」
ニーアの瞳が、アレン王子の時とは比較にならないほど、金色の欲望……もとい、やる気で燃え上がった。
こうして、悪役令嬢と氷の公爵による、世界で最も「冷徹で効率的な」最強タッグが結成されたのである。
それまで騒がしかった市場の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……おい、見ろよ。あんな立派な馬車、下町に来るなんて珍しいぜ」
「どこの大貴族だ? 騎士が護衛についてるぞ」
野次馬たちの視線の先には、漆黒の装甲に銀の紋章が刻まれた、見るからに頑丈そうな馬車が止まっていた。
そこから降りてきたのは、夜の闇を溶かし込んだような黒髪と、冷徹な氷河を思わせる鋭い瞳を持つ青年だった。
整った容姿は彫刻のように美しいが、纏う空気があまりに冷たく、周囲の人間は自然と道を開けてしまう。
「……あれが噂の『隣国の氷公爵』か?」
「ジークハルト・ノア・ヴァレンシュタイン。なんでこんな汚い市場に……」
そんな囁きを意に介さず、ジークハルトは一直線にニーアの露店へと歩み寄った。
ニーアは、算盤を弾く手を止めることなく、顔だけを上げてその「上客」を値踏みした。
「……いらっしゃいませ。恐れ入りますが、レンタルの列はあちらの最後尾に並んでいただけますか? 身分による優先搭乗、もとい優先契約は別途特急料金を頂戴しておりますが」
周囲の貴族や騎士たちが、ニーアの不敬とも取れる発言に息を呑む。
だが、ジークハルトは怒るどころか、じっとニーアの手元……正確には彼女が書き上げた契約書を見つめた。
「……この契約体系、君が考えたのか?」
「左様でございます。初期投資を抑え、継続的なキャッシュフローを確保するためのサブスクリプション方式ですわ。何か問題でも?」
「問題はない。極めて合理的だ。……だが、魔石の摩耗率に対する価格設定が、あと零・五パーセント安くできるはずだ。この回路の組み方なら、魔力消費をさらに抑えられる」
ジークハルトは無造作に身を乗り出し、ニーアの魔改造ランプを指差した。
ニーアの眉が、ぴくりと動く。
「……ほう? その零・五パーセントの余剰分を、どこで回収するおつもりで?」
「筐体の冷却フィンを薄型化し、表面積を広げることで放熱効率を上げる。その分の材料費削減で、顧客還元を行えば、市場占有率は三割増しになる」
「……! ですが、フィンの薄型化は耐久性を損なうリスクがありますわ。メンテナンスコストの増大をどうお考えかしら?」
「特殊な防錆塗装を施せばいい。我が領地の特産品だ。……原価で提供してもいいぞ」
二人の間で、火花が散るような「効率化議論」が展開される。
周囲は「公爵が令嬢に一目惚れして口説いている」という甘い展開を期待していたが、実際の内容は極めてドライな原価計算の話だった。
「……素晴らしい。私の計算式にこれほど的確な修正案を出されたのは、貴方が初めてですわ」
ニーアは初めて算盤を置き、立ち上がって優雅に一礼した。
「改めて自己紹介を。ニーア・フォン・アステリア……いえ、現在はただの個人事業主ニーアです」
「ジークハルト・ノア・ヴァレンシュタインだ。君の噂は聞いていた。『王宮の金庫番をしていた狂犬令嬢』だと」
「あら、失礼ですわね。『忠実な番犬』と呼んでいただきたいものです。……それで、公爵様。これほどの効率化オタクが、私に何の御用でしょう?」
ジークハルトは、無表情なままニーアの手を握った。
「君をスカウトしに来た。私の領地の財政は、無駄な贅沢を好む無能な役人どもによって、一五パーセントの損失を出し続けている」
「……一五パーセント! それは万死に値しますわね!」
「同感だ。そこで、君に全権を委ねたい。私のパートナーとして……いや、『最高経営責任者』として、私の隣で算盤を弾いてはくれないか?」
それは、公爵からの事実上の求婚(プロポーズ)……のように聞こえなくもなかったが。
「条件は?」
ニーアの問いは、色気も何もないものだった。
「私の領地全域の商業利権の三割。および、君専用の最新型計算機と、二十四時間稼働可能な執務室を保証しよう」
「……交渉成立ですわ、ジークハルト様。今日から貴方の財布は、私が一ゴルドの狂いもなく守り抜いて差し上げます」
ニーアの瞳が、アレン王子の時とは比較にならないほど、金色の欲望……もとい、やる気で燃え上がった。
こうして、悪役令嬢と氷の公爵による、世界で最も「冷徹で効率的な」最強タッグが結成されたのである。
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