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馬車が到着したのは、街道沿いでも屈指の高級宿『銀狐の尾亭』の前だった。
ニーアはジークハルトの肩から頭を上げると、淀みのない動作で眼鏡をかけ直し、算盤を鞄に収めた。
「……起床。脳の処理速度、通常比一二〇パーセント。完璧な仮眠でしたわ、ジークハルト様」
「それは良かった。私の肩の凝り具合も、君の安眠に貢献できたのなら本望だ」
ジークハルトは少し痺れた肩を回しながら、苦笑して馬車を降りた。
二人が宿のカウンターに向かうと、支配人が顔を真っ青にして揉み手をしながら現れた。
「……ヴァレンシュタイン公爵閣下! これは、その……大変申し訳ございません!」
「どうした。予約は一ヶ月前に入れているはずだが」
ジークハルトの冷徹な声に、支配人がガタガタと震え出す。
「は、はい! ですが、先ほど隣国の急使が到着しまして……手違いで、閣下のお部屋とスイートルームが重複してしまったのです! 現在、空いているのは……その、特大ベッドが一つだけの『最上階特別室』一室のみで……」
支配人は床に額を擦り付けんばかりの勢いだ。
ジークハルトは眉を寄せ、氷のような視線を支配人に突き刺した。
「……貴族の令嬢と私が、同室に泊まれと言うのか? 君は、ニーア嬢の評判を……」
「ジークハルト様、お待ちになって」
後ろからニーアがひょいと顔を出し、支配人の手元にある価格表を凝視した。
「……支配人さん。その『最上階特別室』一室のお値段と、本来予約していた二室分の合計、どちらが高いのかしら?」
「えっ? あ、はあ……。特別室一室の方が、二室借りるより三割ほどお安くなっておりますが……」
「採用ですわ」
ニーアは即座に断言した。
「ニーア!? 何を言っているんだ。君は公爵令嬢……今は私の婚約者だぞ。体面というものが……」
「体面で部屋代は安くなりませんわ。いいですか、ジークハルト様? 一室に集約することで、照明用の魔石消費は半分。暖炉の薪も半分。清掃チップも一回分。……この『固定費削減』のチャンスを逃す手はありません!」
ニーアの瞳は、節約の喜びでキラキラと輝いている。
「……しかし、ベッドが一つだと言っていたぞ」
「真ん中に帳簿の山を積み上げれば、立派な境界線になりますわ。……さあ、支配人さん。その三割引きの価格から、さらに『予約不備による迷惑料』として一割引いてください。それで手を打ちます」
「は、はいぃっ! 喜んで!」
支配人は逃げるように鍵を差し出した。
ジークハルトは、もはや反論する気力も失い、大きく溜息をついてニーアの後に続いた。
豪華な特別室に入ると、ニーアはさっそく窓際のデスクに陣取り、再び算盤を取り出した。
「……よし、移動中の遅れを取り戻しますわよ」
「……ニーア。少しは休めと言っただろう」
ジークハルトは、どこからか取り出した小さな銀の箱を、ニーアのデスクの端に置いた。
「なんですの、これ。賄賂かしら?」
「隣国の王室御用達ショップで取り寄せた、最高級のビターチョコレートだ。糖分は脳のエネルギー源だろう?」
ニーアは不審そうに箱を開け、一粒を口に放り込んだ。
「……っ! ……あ、甘美ですわ。カカオの含有量と甘みのバランスが、黄金比率(ゴールデンレシオ)を保っています……」
「そうか。それは良かった」
ジークハルトは、ニーアの背後に回り込むと、彼女の細い肩に大きな手を置いた。
「……!? ジ、ジークハルト様? 何をして……」
「マッサージだ。肩が凝っていては、計算ミスを誘発するだろう? これも領地の利益を守るための『メンテナンス』だと思って、大人しく受けろ」
ジークハルトの指先が、絶妙な力加減でニーアの肩を解していく。
「……。……くっ、この技術……。プロの整体師を雇うコストを考えれば、公爵自らの奉仕は、時給換算で数十万ゴルドの価値が……」
ニーアは必死に計算で理性を保とうとしたが、耳元で聞こえるジークハルトの落ち着いた呼吸に、脳内の数字がバラバラと崩れていくのを感じた。
「……ニーア。君は本当に、可愛いな」
ジークハルトが、マッサージの手を止め、ニーアの耳たぶを指先で軽く掠める。
「……なっ!? ひゃっ……!?」
「計算が止まったな。……今の私の行為、君の帳簿にはどう記載される?」
ニーアは、真っ赤な顔で算盤を抱きしめた。
「……き、記載不能ですわ! ……心拍数の一時的な上昇によるエネルギーロス、および……ええい、不確定要素が多すぎます!」
「ふふ……。なら、これからもっと不確定要素を増やしてあげよう。……今日はもう仕事は終わりだ」
ジークハルトの甘い「デレ」に、最強の商売人ニーアは、生まれて初めて「大赤字(大混乱)」の夜を迎えることになったのである。
ニーアはジークハルトの肩から頭を上げると、淀みのない動作で眼鏡をかけ直し、算盤を鞄に収めた。
「……起床。脳の処理速度、通常比一二〇パーセント。完璧な仮眠でしたわ、ジークハルト様」
「それは良かった。私の肩の凝り具合も、君の安眠に貢献できたのなら本望だ」
ジークハルトは少し痺れた肩を回しながら、苦笑して馬車を降りた。
二人が宿のカウンターに向かうと、支配人が顔を真っ青にして揉み手をしながら現れた。
「……ヴァレンシュタイン公爵閣下! これは、その……大変申し訳ございません!」
「どうした。予約は一ヶ月前に入れているはずだが」
ジークハルトの冷徹な声に、支配人がガタガタと震え出す。
「は、はい! ですが、先ほど隣国の急使が到着しまして……手違いで、閣下のお部屋とスイートルームが重複してしまったのです! 現在、空いているのは……その、特大ベッドが一つだけの『最上階特別室』一室のみで……」
支配人は床に額を擦り付けんばかりの勢いだ。
ジークハルトは眉を寄せ、氷のような視線を支配人に突き刺した。
「……貴族の令嬢と私が、同室に泊まれと言うのか? 君は、ニーア嬢の評判を……」
「ジークハルト様、お待ちになって」
後ろからニーアがひょいと顔を出し、支配人の手元にある価格表を凝視した。
「……支配人さん。その『最上階特別室』一室のお値段と、本来予約していた二室分の合計、どちらが高いのかしら?」
「えっ? あ、はあ……。特別室一室の方が、二室借りるより三割ほどお安くなっておりますが……」
「採用ですわ」
ニーアは即座に断言した。
「ニーア!? 何を言っているんだ。君は公爵令嬢……今は私の婚約者だぞ。体面というものが……」
「体面で部屋代は安くなりませんわ。いいですか、ジークハルト様? 一室に集約することで、照明用の魔石消費は半分。暖炉の薪も半分。清掃チップも一回分。……この『固定費削減』のチャンスを逃す手はありません!」
ニーアの瞳は、節約の喜びでキラキラと輝いている。
「……しかし、ベッドが一つだと言っていたぞ」
「真ん中に帳簿の山を積み上げれば、立派な境界線になりますわ。……さあ、支配人さん。その三割引きの価格から、さらに『予約不備による迷惑料』として一割引いてください。それで手を打ちます」
「は、はいぃっ! 喜んで!」
支配人は逃げるように鍵を差し出した。
ジークハルトは、もはや反論する気力も失い、大きく溜息をついてニーアの後に続いた。
豪華な特別室に入ると、ニーアはさっそく窓際のデスクに陣取り、再び算盤を取り出した。
「……よし、移動中の遅れを取り戻しますわよ」
「……ニーア。少しは休めと言っただろう」
ジークハルトは、どこからか取り出した小さな銀の箱を、ニーアのデスクの端に置いた。
「なんですの、これ。賄賂かしら?」
「隣国の王室御用達ショップで取り寄せた、最高級のビターチョコレートだ。糖分は脳のエネルギー源だろう?」
ニーアは不審そうに箱を開け、一粒を口に放り込んだ。
「……っ! ……あ、甘美ですわ。カカオの含有量と甘みのバランスが、黄金比率(ゴールデンレシオ)を保っています……」
「そうか。それは良かった」
ジークハルトは、ニーアの背後に回り込むと、彼女の細い肩に大きな手を置いた。
「……!? ジ、ジークハルト様? 何をして……」
「マッサージだ。肩が凝っていては、計算ミスを誘発するだろう? これも領地の利益を守るための『メンテナンス』だと思って、大人しく受けろ」
ジークハルトの指先が、絶妙な力加減でニーアの肩を解していく。
「……。……くっ、この技術……。プロの整体師を雇うコストを考えれば、公爵自らの奉仕は、時給換算で数十万ゴルドの価値が……」
ニーアは必死に計算で理性を保とうとしたが、耳元で聞こえるジークハルトの落ち着いた呼吸に、脳内の数字がバラバラと崩れていくのを感じた。
「……ニーア。君は本当に、可愛いな」
ジークハルトが、マッサージの手を止め、ニーアの耳たぶを指先で軽く掠める。
「……なっ!? ひゃっ……!?」
「計算が止まったな。……今の私の行為、君の帳簿にはどう記載される?」
ニーアは、真っ赤な顔で算盤を抱きしめた。
「……き、記載不能ですわ! ……心拍数の一時的な上昇によるエネルギーロス、および……ええい、不確定要素が多すぎます!」
「ふふ……。なら、これからもっと不確定要素を増やしてあげよう。……今日はもう仕事は終わりだ」
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