13 / 29
13
しおりを挟む
豪華な装飾が施されたヴァレンシュタイン公爵家の馬車。
その車内は、本来であれば婚約したばかりの男女が甘いひと時を過ごす、密室の楽園となるはずだった。
だが、現実は非情である。
「……ジークハルト様。この馬車のサスペンション、改良の余地がありますわ。振動で算盤の珠がコンマ二秒ほど戻るのが遅れます」
ニーアは、向かい側に座る絶世の美青年を完全に「背景」と見なし、膝の上に広げた帳簿と格闘していた。
「……そうか。乗り心地ではなく、計算速度に支障が出るのが問題なのだな」
ジークハルトは苦笑しながら、銀のティーポットを手に取った。
「ああ、お茶は結構ですわ。カップを置くスペースがあれば、そこに新しい領地の人口統計資料を置きたいので」
「ニーア、少しは窓の外を見たらどうだ。我が領が誇る『銀嶺の街道』だ。今の時期は雪解け水が反射して美しいぞ」
「……。……。……見ましたわ。反射率が高いということは、将来的に太陽光を集積して魔力に変換する装置の設置場所として有望ですわね。貴重な情報ありがとうございます」
ニーアは一瞬だけ外に目をやり、即座に手帳にメモを走らせる。
ジークハルトは、差し出そうとした紅茶を自分で飲み込み、深く背もたれに体を預けた。
「……君といると、私の価値観が根底から覆される気分だ。通常の令嬢なら、ここで『まあ、素敵!』と私の腕に抱きつく場面なのだが」
「抱きついても一ゴルドの利益にもなりませんわ。それよりも、この街道の通行税。なぜ平民と貴族で価格差がこれほど少ないのですか?」
「……? 貴族への配慮だが、それが何か?」
ニーアは、パチンと算盤の珠を弾き、ジークハルトを鋭く睨みつけた。
「甘いですわ! ジークハルト様! 貴族は『見栄』を食べる生き物です。通行料を十倍にし、『プラチナ・パス』という名前をつけて、専用の豪華な休憩所を使える権利を付帯させなさい」
「十倍だと? それでは誰も通らなくなるのではないか?」
「いいえ。むしろ『私は十倍の通行料を払える選ばれた人間だ』と誇示するために、成金貴族がこぞって押し寄せますわ。その収益で、平民向けの通行料を完全無料化……いえ、むしろ歩くごとにポイントが貯まる仕組みにすれば、物流はさらに加速します」
ジークハルトは、感心したように顎を撫でた。
「……選民意識をキャッシュに変え、それを社会資本に還元するか。君の脳内はどうなっているんだ」
「欲望と数字のミルフィーユ構造ですわ。……おっと、次の宿場町まであと三十分。ジークハルト様、一つお願いがあります」
ニーアは、真剣な顔でジークハルトに詰め寄った。
「なんだ。宝石か? それとも新しい執務室か?」
「宿場町に到着するまでの三十分間、私の肩を貸してください。……少し、眠ります」
「……! ……ああ、構わないが。珍しいな、君が休息を求めるなんて」
ジークハルトが驚きながらも肩を差し出すと、ニーアはコテリとそこに頭を預けた。
「……。……。……。……五分でレム睡眠に入り、二十五分で脳のキャッシュをクリアします。三十分後の私は、今の二倍の速度で計算できるはずですから……」
数秒後には、ニーアの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ジークハルトは、自分の肩に乗った小さな頭を、壊れ物を扱うような手つきでそっと支える。
「……計算速度を上げるための睡眠、か。どこまでも君らしい」
彼は、窓から差し込む陽光が彼女の眠りを妨げないよう、カーテンを少しだけ閉めた。
「……だが。私を信頼して眠ってくれるその姿は、どんな計算式よりも、私の心を温めてくれるよ」
ジークハルトは、誰もいない車内で、そっと彼女の髪に唇を寄せた。
それはニーアの計算には含まれていない、極めて非効率的で、最高に贅沢な「愛の配当」であった。
馬車が宿場町に到着するまでの間、世界で最も冷徹な公爵は、世界で最も幸福な「椅子」となって、幸せな時間を過ごしたのである。
その車内は、本来であれば婚約したばかりの男女が甘いひと時を過ごす、密室の楽園となるはずだった。
だが、現実は非情である。
「……ジークハルト様。この馬車のサスペンション、改良の余地がありますわ。振動で算盤の珠がコンマ二秒ほど戻るのが遅れます」
ニーアは、向かい側に座る絶世の美青年を完全に「背景」と見なし、膝の上に広げた帳簿と格闘していた。
「……そうか。乗り心地ではなく、計算速度に支障が出るのが問題なのだな」
ジークハルトは苦笑しながら、銀のティーポットを手に取った。
「ああ、お茶は結構ですわ。カップを置くスペースがあれば、そこに新しい領地の人口統計資料を置きたいので」
「ニーア、少しは窓の外を見たらどうだ。我が領が誇る『銀嶺の街道』だ。今の時期は雪解け水が反射して美しいぞ」
「……。……。……見ましたわ。反射率が高いということは、将来的に太陽光を集積して魔力に変換する装置の設置場所として有望ですわね。貴重な情報ありがとうございます」
ニーアは一瞬だけ外に目をやり、即座に手帳にメモを走らせる。
ジークハルトは、差し出そうとした紅茶を自分で飲み込み、深く背もたれに体を預けた。
「……君といると、私の価値観が根底から覆される気分だ。通常の令嬢なら、ここで『まあ、素敵!』と私の腕に抱きつく場面なのだが」
「抱きついても一ゴルドの利益にもなりませんわ。それよりも、この街道の通行税。なぜ平民と貴族で価格差がこれほど少ないのですか?」
「……? 貴族への配慮だが、それが何か?」
ニーアは、パチンと算盤の珠を弾き、ジークハルトを鋭く睨みつけた。
「甘いですわ! ジークハルト様! 貴族は『見栄』を食べる生き物です。通行料を十倍にし、『プラチナ・パス』という名前をつけて、専用の豪華な休憩所を使える権利を付帯させなさい」
「十倍だと? それでは誰も通らなくなるのではないか?」
「いいえ。むしろ『私は十倍の通行料を払える選ばれた人間だ』と誇示するために、成金貴族がこぞって押し寄せますわ。その収益で、平民向けの通行料を完全無料化……いえ、むしろ歩くごとにポイントが貯まる仕組みにすれば、物流はさらに加速します」
ジークハルトは、感心したように顎を撫でた。
「……選民意識をキャッシュに変え、それを社会資本に還元するか。君の脳内はどうなっているんだ」
「欲望と数字のミルフィーユ構造ですわ。……おっと、次の宿場町まであと三十分。ジークハルト様、一つお願いがあります」
ニーアは、真剣な顔でジークハルトに詰め寄った。
「なんだ。宝石か? それとも新しい執務室か?」
「宿場町に到着するまでの三十分間、私の肩を貸してください。……少し、眠ります」
「……! ……ああ、構わないが。珍しいな、君が休息を求めるなんて」
ジークハルトが驚きながらも肩を差し出すと、ニーアはコテリとそこに頭を預けた。
「……。……。……。……五分でレム睡眠に入り、二十五分で脳のキャッシュをクリアします。三十分後の私は、今の二倍の速度で計算できるはずですから……」
数秒後には、ニーアの規則正しい寝息が聞こえ始めた。
ジークハルトは、自分の肩に乗った小さな頭を、壊れ物を扱うような手つきでそっと支える。
「……計算速度を上げるための睡眠、か。どこまでも君らしい」
彼は、窓から差し込む陽光が彼女の眠りを妨げないよう、カーテンを少しだけ閉めた。
「……だが。私を信頼して眠ってくれるその姿は、どんな計算式よりも、私の心を温めてくれるよ」
ジークハルトは、誰もいない車内で、そっと彼女の髪に唇を寄せた。
それはニーアの計算には含まれていない、極めて非効率的で、最高に贅沢な「愛の配当」であった。
馬車が宿場町に到着するまでの間、世界で最も冷徹な公爵は、世界で最も幸福な「椅子」となって、幸せな時間を過ごしたのである。
0
あなたにおすすめの小説
婚約者が私のことをゴリラと言っていたので、距離を置くことにしました
相馬香子
恋愛
ある日、クローネは婚約者であるレアルと彼の友人たちの会話を盗み聞きしてしまう。
――男らしい? ゴリラ?
クローネに対するレアルの言葉にショックを受けた彼女は、レアルに絶交を突きつけるのだった。
デリカシーゼロ男と男装女子の織り成す、勘違い系ラブコメディです。
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
私ってわがまま傲慢令嬢なんですか?
山科ひさき
恋愛
政略的に結ばれた婚約とはいえ、婚約者のアランとはそれなりにうまくやれていると思っていた。けれどある日、メアリはアランが自分のことを「わがままで傲慢」だと友人に話している場面に居合わせてしまう。話を聞いていると、なぜかアランはこの婚約がメアリのわがままで結ばれたものだと誤解しているようで……。
せめて、淑女らしく~お飾りの妻だと思っていました
藍田ひびき
恋愛
「最初に言っておく。俺の愛を求めるようなことはしないで欲しい」
リュシエンヌは婚約者のオーバン・ルヴェリエ伯爵からそう告げられる。不本意であっても傷物令嬢であるリュシエンヌには、もう後はない。
「お飾りの妻でも構わないわ。淑女らしく務めてみせましょう」
そうしてオーバンへ嫁いだリュシエンヌは正妻としての務めを精力的にこなし、徐々に夫の態度も軟化していく。しかしそこにオーバンと第三王女が恋仲であるという噂を聞かされて……?
※ なろうにも投稿しています。
〖完結〗終着駅のパッセージ
苺迷音
恋愛
分厚い眼鏡と、ひっつめた髪を毛糸帽で覆う女性・カレン。
彼女はとある想いを胸に北へ向かう蒸気機関車に乗っていた。
王都から離れてゆく車窓を眺めながら、カレンは夫と婚姻してから三年という長い時間を振り返る。
その間、夫が帰宅したのは数えるほどだった。
※ご覧いただけましたらとても嬉しいです。よろしくお願いいたします。
寡黙な貴方は今も彼女を想う
MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。
ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。
シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。
言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。
※設定はゆるいです。
※溺愛タグ追加しました。
王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました
さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。
王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ
頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。
ゆるい設定です
完結 冗談で済ますつもりでしょうが、そうはいきません。
音爽(ネソウ)
恋愛
王子の幼馴染はいつもわがまま放題。それを放置する。
結婚式でもやらかして私の挙式はメチャクチャに
「ほんの冗談さ」と王子は軽くあしらうが、そこに一人の男性が現れて……
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる