悪役令嬢、婚約破棄された本日より暴走を開始します 

八雲

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豪華な装飾が施されたヴァレンシュタイン公爵家の馬車。


その車内は、本来であれば婚約したばかりの男女が甘いひと時を過ごす、密室の楽園となるはずだった。


だが、現実は非情である。


「……ジークハルト様。この馬車のサスペンション、改良の余地がありますわ。振動で算盤の珠がコンマ二秒ほど戻るのが遅れます」


ニーアは、向かい側に座る絶世の美青年を完全に「背景」と見なし、膝の上に広げた帳簿と格闘していた。


「……そうか。乗り心地ではなく、計算速度に支障が出るのが問題なのだな」


ジークハルトは苦笑しながら、銀のティーポットを手に取った。


「ああ、お茶は結構ですわ。カップを置くスペースがあれば、そこに新しい領地の人口統計資料を置きたいので」


「ニーア、少しは窓の外を見たらどうだ。我が領が誇る『銀嶺の街道』だ。今の時期は雪解け水が反射して美しいぞ」


「……。……。……見ましたわ。反射率が高いということは、将来的に太陽光を集積して魔力に変換する装置の設置場所として有望ですわね。貴重な情報ありがとうございます」


ニーアは一瞬だけ外に目をやり、即座に手帳にメモを走らせる。


ジークハルトは、差し出そうとした紅茶を自分で飲み込み、深く背もたれに体を預けた。


「……君といると、私の価値観が根底から覆される気分だ。通常の令嬢なら、ここで『まあ、素敵!』と私の腕に抱きつく場面なのだが」


「抱きついても一ゴルドの利益にもなりませんわ。それよりも、この街道の通行税。なぜ平民と貴族で価格差がこれほど少ないのですか?」


「……? 貴族への配慮だが、それが何か?」


ニーアは、パチンと算盤の珠を弾き、ジークハルトを鋭く睨みつけた。


「甘いですわ! ジークハルト様! 貴族は『見栄』を食べる生き物です。通行料を十倍にし、『プラチナ・パス』という名前をつけて、専用の豪華な休憩所を使える権利を付帯させなさい」


「十倍だと? それでは誰も通らなくなるのではないか?」


「いいえ。むしろ『私は十倍の通行料を払える選ばれた人間だ』と誇示するために、成金貴族がこぞって押し寄せますわ。その収益で、平民向けの通行料を完全無料化……いえ、むしろ歩くごとにポイントが貯まる仕組みにすれば、物流はさらに加速します」


ジークハルトは、感心したように顎を撫でた。


「……選民意識をキャッシュに変え、それを社会資本に還元するか。君の脳内はどうなっているんだ」


「欲望と数字のミルフィーユ構造ですわ。……おっと、次の宿場町まであと三十分。ジークハルト様、一つお願いがあります」


ニーアは、真剣な顔でジークハルトに詰め寄った。


「なんだ。宝石か? それとも新しい執務室か?」


「宿場町に到着するまでの三十分間、私の肩を貸してください。……少し、眠ります」


「……! ……ああ、構わないが。珍しいな、君が休息を求めるなんて」


ジークハルトが驚きながらも肩を差し出すと、ニーアはコテリとそこに頭を預けた。


「……。……。……。……五分でレム睡眠に入り、二十五分で脳のキャッシュをクリアします。三十分後の私は、今の二倍の速度で計算できるはずですから……」


数秒後には、ニーアの規則正しい寝息が聞こえ始めた。


ジークハルトは、自分の肩に乗った小さな頭を、壊れ物を扱うような手つきでそっと支える。


「……計算速度を上げるための睡眠、か。どこまでも君らしい」


彼は、窓から差し込む陽光が彼女の眠りを妨げないよう、カーテンを少しだけ閉めた。


「……だが。私を信頼して眠ってくれるその姿は、どんな計算式よりも、私の心を温めてくれるよ」


ジークハルトは、誰もいない車内で、そっと彼女の髪に唇を寄せた。


それはニーアの計算には含まれていない、極めて非効率的で、最高に贅沢な「愛の配当」であった。


馬車が宿場町に到着するまでの間、世界で最も冷徹な公爵は、世界で最も幸福な「椅子」となって、幸せな時間を過ごしたのである。
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