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ヴァレンシュタイン公爵邸、法務局。
そこは、領内のあらゆる契約と法律を司る、厳格で保守的な場所だ。
しかし今、その中心にある大円卓では、一人の令嬢が放つ圧倒的な「圧」によって、歴戦の法務官たちが冷や汗を流していた。
「……お言葉ですが、ニーア様。公爵家における婚約とは、歴史と伝統に基づいた神聖なる儀式でございまして……」
法務局長のシュトラウス男爵が、震える手で眼鏡を拭きながら訴える。
「シュトラウス様。私は『神聖さ』の定義を聞きに来たのではありません。婚約に伴うリスクヘッジと、資産の流動性確保について議論したいのです」
ニーアは、自ら書き上げた全五十ページに及ぶ『婚約及び共同経営契約案』を、円卓にドンと置いた。
パチ、パチ、パチン!
「まず第一項。不貞行為があった場合の違約金について。ジークハルト様が私以外の女性と、業務外で一時間以上の密会、あるいは身体的接触を行った場合。公爵領の年間税収の五パーセントを、損害賠償として私の個人口座へ振り込んでいただきます」
「ご、五パーセント!? それは国家予算に匹敵する額では……!」
「当然ですわ。私の時間を独占するということは、それだけの機会損失を強いているということですもの。安売りはいたしません」
ニーアは冷徹に言い放ち、ページをめくる。
「次に第十二項。私の事業における独占禁止法の免除、および公爵家名義での無利子融資枠の確保。これは、将来的な領地拡大のコストを削減するために不可欠ですわ」
「……ニーア、その項目については私も一点、修正案がある」
円卓の隅で、興味深そうに一部始終を眺めていたジークハルトが口を開いた。
「あら、ジークハルト様。どの部分の利率がお気に召しませんか?」
「いや、融資枠の『上限』についてだ。なぜこれほど低い? 君の商才なら、私の全財産の半分を担保にしても、十分なリターンが見込めるはずだが」
法務官たちが一斉に「公爵様!?」と叫んで椅子から転げ落ちそうになった。
しかし、ニーアは不満げに頬を膨らませた。
「ジークハルト様。あまりに過剰なレバレッジは、経営の安定性を損なうリスクがあります。私は『着実に、かつ強欲に』資産を増やしたいのです。いきなり全額なんて、甘やかしは不要ですわ」
「……フッ、やはり君は面白いな。審査は厳しければ厳しいほど燃えるというわけか」
ジークハルトが、楽しげに口角を上げる。
その様子を見ていたシュトラウス局長が、恐る恐る口を挟んだ。
「あ、あの……殿下、ニーア様。先ほどからお話を伺っておりますと、これは婚約の交渉というより、国家間の通商条約の締結に近い気がするのですが……」
「何か問題でも? 結婚とは、二つの個体が資源を統合し、人生という名のプロジェクトを最大化するための合併(M&A)でしょう?」
ニーアは不思議そうに首を傾げた。
「愛とか恋とかいうふわふわした言葉で誤魔化すより、こうして数字で愛の深さ(違約金)を証明する方が、よほど誠実だと思いませんか?」
「……仰る通りでございます」
シュトラウスは、もはや反論する気力を失い、震える手で承認印を構えた。
「では、最後にもう一点。……第百二十八項。ジークハルト様は一日に一回、必ず私を『有能なパートナーだ』と褒めること。……これは、私のメンタル維持コストの削減と、モチベーション向上に寄与します」
「……それだけでいいのか? 『愛している』と囁く方が、より効率的だと思うが」
「……っ! そ、それは、ええと、その……」
ニーアは算盤をぎゅっと抱きしめ、視線を泳がせた。
「そ、それは例外処理として、別途検討いたしますわ! 今はとにかく、この契約にサインを!」
「承知した。……シュトラウス、印を。私の人生は、今日から彼女の管理下に入る」
ジークハルトが迷いなく署名し、重厚な印が押される。
その瞬間、ニーアは契約書を大切そうに胸に抱え、誰にも見せたことのないような満面の笑みを浮かべた。
「契約完了ですわ、ジークハルト様! ふふ……これで、心置きなく貴方の領地を札束の山にして差し上げられます!」
その笑顔は、どんな美しい宝石よりも眩しく、そして同時に、どんな悪役よりも欲深い輝きを放っていた。
法務官たちは悟った。
この二人が手を組んだ今、大陸の経済は、この「強欲令嬢」の指先一つで書き換えられることになるのだと。
そこは、領内のあらゆる契約と法律を司る、厳格で保守的な場所だ。
しかし今、その中心にある大円卓では、一人の令嬢が放つ圧倒的な「圧」によって、歴戦の法務官たちが冷や汗を流していた。
「……お言葉ですが、ニーア様。公爵家における婚約とは、歴史と伝統に基づいた神聖なる儀式でございまして……」
法務局長のシュトラウス男爵が、震える手で眼鏡を拭きながら訴える。
「シュトラウス様。私は『神聖さ』の定義を聞きに来たのではありません。婚約に伴うリスクヘッジと、資産の流動性確保について議論したいのです」
ニーアは、自ら書き上げた全五十ページに及ぶ『婚約及び共同経営契約案』を、円卓にドンと置いた。
パチ、パチ、パチン!
「まず第一項。不貞行為があった場合の違約金について。ジークハルト様が私以外の女性と、業務外で一時間以上の密会、あるいは身体的接触を行った場合。公爵領の年間税収の五パーセントを、損害賠償として私の個人口座へ振り込んでいただきます」
「ご、五パーセント!? それは国家予算に匹敵する額では……!」
「当然ですわ。私の時間を独占するということは、それだけの機会損失を強いているということですもの。安売りはいたしません」
ニーアは冷徹に言い放ち、ページをめくる。
「次に第十二項。私の事業における独占禁止法の免除、および公爵家名義での無利子融資枠の確保。これは、将来的な領地拡大のコストを削減するために不可欠ですわ」
「……ニーア、その項目については私も一点、修正案がある」
円卓の隅で、興味深そうに一部始終を眺めていたジークハルトが口を開いた。
「あら、ジークハルト様。どの部分の利率がお気に召しませんか?」
「いや、融資枠の『上限』についてだ。なぜこれほど低い? 君の商才なら、私の全財産の半分を担保にしても、十分なリターンが見込めるはずだが」
法務官たちが一斉に「公爵様!?」と叫んで椅子から転げ落ちそうになった。
しかし、ニーアは不満げに頬を膨らませた。
「ジークハルト様。あまりに過剰なレバレッジは、経営の安定性を損なうリスクがあります。私は『着実に、かつ強欲に』資産を増やしたいのです。いきなり全額なんて、甘やかしは不要ですわ」
「……フッ、やはり君は面白いな。審査は厳しければ厳しいほど燃えるというわけか」
ジークハルトが、楽しげに口角を上げる。
その様子を見ていたシュトラウス局長が、恐る恐る口を挟んだ。
「あ、あの……殿下、ニーア様。先ほどからお話を伺っておりますと、これは婚約の交渉というより、国家間の通商条約の締結に近い気がするのですが……」
「何か問題でも? 結婚とは、二つの個体が資源を統合し、人生という名のプロジェクトを最大化するための合併(M&A)でしょう?」
ニーアは不思議そうに首を傾げた。
「愛とか恋とかいうふわふわした言葉で誤魔化すより、こうして数字で愛の深さ(違約金)を証明する方が、よほど誠実だと思いませんか?」
「……仰る通りでございます」
シュトラウスは、もはや反論する気力を失い、震える手で承認印を構えた。
「では、最後にもう一点。……第百二十八項。ジークハルト様は一日に一回、必ず私を『有能なパートナーだ』と褒めること。……これは、私のメンタル維持コストの削減と、モチベーション向上に寄与します」
「……それだけでいいのか? 『愛している』と囁く方が、より効率的だと思うが」
「……っ! そ、それは、ええと、その……」
ニーアは算盤をぎゅっと抱きしめ、視線を泳がせた。
「そ、それは例外処理として、別途検討いたしますわ! 今はとにかく、この契約にサインを!」
「承知した。……シュトラウス、印を。私の人生は、今日から彼女の管理下に入る」
ジークハルトが迷いなく署名し、重厚な印が押される。
その瞬間、ニーアは契約書を大切そうに胸に抱え、誰にも見せたことのないような満面の笑みを浮かべた。
「契約完了ですわ、ジークハルト様! ふふ……これで、心置きなく貴方の領地を札束の山にして差し上げられます!」
その笑顔は、どんな美しい宝石よりも眩しく、そして同時に、どんな悪役よりも欲深い輝きを放っていた。
法務官たちは悟った。
この二人が手を組んだ今、大陸の経済は、この「強欲令嬢」の指先一つで書き換えられることになるのだと。
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