悪役令嬢、婚約破棄された本日より暴走を開始します 

八雲

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「……む、無限大……? ジークハルト様、今、無限大とおっしゃいましたの?」


ニーアの声が、上ずった。


彼女の脳内にある超高性能な算盤が、かつてない負荷に悲鳴を上げている。


「そうだ。君という存在が私の隣にいることで得られる価値は、金銭や領土といった有限の数字では到底、表しきれない」


ジークハルトは、ニーアの手を握ったまま、一歩も引かない。


その瞳には、一〇〇パーセントの純度を誇る「情熱」と、一二〇パーセントの「計算された本気」が宿っていた。


「……っ。そ、そのような不確実な、定性的な評価を下されるなんて、ジークハルト様らしくありませんわ!」


ニーアは、林檎のように赤くなった顔を背けながら、空いた方の手で素早く手帳を開いた。


「いいですか? 『無限』という数字は、会計学においては実質的に『エラー』と同じです。もっと具体的、かつ定量的なメリットを提示していただかないと、私の脳内稟議が通りません!」


「……なるほど。ならば、具体的な条件を提示しよう」


ジークハルトは、ニーアの手を離すと、机の引き出しからあらかじめ用意されていたと思しき羊皮紙を取り出した。


「第一に、公爵家が所有する全資産の閲覧権および運用権を君に委託する。第二に、君が行うあらゆる事業に対して、公爵家は一切の口出しをせず、全面的な資金援助を行う。そして第三に……」


ジークハルトは、一度言葉を切り、ニーアの目を真っ直ぐに見据えた。


「私の夜の、もとい、プライベートな時間の独占権を君に付与する。……これでも、投資価値はないか?」


ニーアは、はくはくと口を動かした。


「全資産の運用権……資金援助……独占権……。これ、結婚という名の『終身最高経営責任者(CEO)就任要請』ではありませんの?」


「君がそう受け取るなら、それでも構わない。私は、君という『才能』を、他の誰にも渡したくないのだ」


ニーアは、深く、深呼吸をした。


ようやく、彼女の脳内が「恋愛」という未知の領域から、「ビジネス」という慣れ親しんだ戦場へとスライドした。


「……分かりましたわ。そこまでおっしゃるなら、こちらからも『逆提案』をさせていただきます」


ニーアは、キリッと表情を引き締め、手帳に猛烈な勢いでペンを走らせる。


「まず、私の基本給……いえ、生活費は公爵家の営業利益の三パーセント。業績連動型のボーナスも設定させていただきます。さらに、週に一度の『完全オフ』を保証すること。その日は算盤を持たず、お茶を飲むだけの日といたします」


「……お茶を飲むだけ? それは、デートと解釈していいのか?」


「ええ、まあ、リフレッシュのための福利厚生ですわ!」


「承知した。……他には?」


「あとは……。私を『愛』という不確かな言葉で縛らないこと。……愛ではなく、信頼という名の『契約』で結ばれたいのです」


ニーアの言葉に、ジークハルトは一瞬、寂しげな笑みを浮かべた。


だが、彼はすぐに頷いた。


「いいだろう。今はそれで構わない。……だが、ニーア。一つだけ覚悟しておいてくれ」


ジークハルトは、再びニーアに歩み寄り、その耳元で低く囁いた。


「信頼という名の契約は、一度結べば解除不能だ。……私は、一生かけて君に『無限の利益』……愛を注ぎ続けるつもりだからな」


「……っ。そ、そういう不合理な発言は、コストの無駄ですわよ!」


ニーアは、真っ赤な顔でジークハルトを突き飛ばした。


しかし、その胸の鼓動は、最高収益を叩き出した時よりも激しく打ち鳴らされていた。


「……分かりましたわ! その契約、謹んでお受けいたします!」


「……決まりだな。では、さっそく明日の朝食会で、婚約の発表を……」


「いいえ! まずは法務部門と、婚約に伴う税制上のメリットを精査するのが先決ですわ! ジークハルト様、一分一秒を惜しんで働きましょう!」


ニーアは、算盤を抱えて執務室を飛び出していった。


残されたジークハルトは、一人、満足げに口角を上げた。


「……やれやれ。私の婚約者は、世界一可愛くて、世界一欲張りな仕事中毒者(ワークアホリック)だな」


こうして、二人の「史上最もロマンチックでない、しかし最も堅実な婚約」が成立したのである。
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