悪役令嬢、婚約破棄された本日より暴走を開始します 

八雲

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「……ニーア。君が来てから、我が公爵邸の光熱費が昨対比で三十パーセント削減された。驚異的な数字だ」


ヴァレンシュタイン公爵邸の広大な執務室。


ジークハルトは、デスクに並べられた最新の収支報告書を指先でなぞりながら、感嘆の吐息をついた。


「当然ですわ。二十四時間点灯していた廊下の魔石灯を、人の気配に反応する感応式に切り替えましたから。……無人の廊下を照らすのは、ドブに金を捨てるのと同じですもの」


ニーアは、彼と向かい合うように配置された自分専用のデスクで、猛烈な勢いで算盤を弾いている。


彼女のデスクの周りには、すでに五つ以上の計算済み書類の山が築かれていた。


「それにしても、君の仕事は速すぎる。……休憩はどうした? 君が倒れては、我が領のGDP成長率が二パーセントは下落する」


「休憩なら、先ほど瞬きを三回ほど多めにして済ませましたわ。……それよりジークハルト様、例の『広域魔導物流網』のプロットが完成しました」


ニーアは、一枚の巨大な地図をデスクに広げた。


そこには、領地を縦横無尽に走る「見えないライン」が幾重にも描き込まれている。


「……これは?」


「転送陣を各中継地点に配置し、物流を完全に自動化する計画です。初期投資には莫大な魔石が必要ですが、十年スパンでの物流コスト削減額は、なんと百二十億ゴルドに達しますわ」


ジークハルトの瞳に、鋭い光が宿った。


「百二十億……。それは我が国の国家予算の数年分に相当するな。……だが、転送陣の維持には膨大な魔力が必要だ。専門の魔導師を雇う人件費で、利益が相殺されるのではないか?」


「ふふ……。そこが私の腕の見せ所ですわ。魔導師は雇いません。……領民から『歩行エネルギー』を徴収するのです」


「歩行エネルギー?」


ジークハルトが、珍しく困惑したように眉を寄せた。


ニーアは不敵な笑みを浮かべ、カツカツとヒールを鳴らしてジークハルトに歩み寄る。


「領内の主要道路に、踏むだけで微量の魔力を抽出する『魔力吸収プレート』を敷き詰めます。領民はただ歩くだけで、知らず知らずのうちに物流インフラを支える動力源となる。……名付けて、『健康増進型・魔力徴収システム』ですわ!」


「……君は、天才か? それとも悪魔か?」


「最高の褒め言葉として受け取っておきますわ。……これで、燃料費は実質ゼロ。領民は運動不足が解消され、医療費も削減できる。……まさに、三方良しの完璧なスキームです」


ジークハルトは、ニーアの熱を帯びた瞳をじっと見つめた。


効率、利益、合理性。


それだけを追求する彼女の姿は、この冷徹な「氷の公爵」にとって、どんな着飾った令嬢よりも美しく、魅力的に映っていた。


「ニーア。……一つ、確認したい」


「なんですの? 金利の計算なら、今すぐやり直しますが」


「いや。……君は、なぜこれほどまでに『利益』に執着する? 君ほどの美貌と家柄があれば、どこかの国の王妃として、贅沢三昧の生活を送ることもできたはずだ」


ニーアは、一瞬だけ算盤を止めた。


窓の外を流れる雲を眺め、彼女は静かに、しかし力強く答える。


「贅沢など、誰かに与えられる『変動要素』に過ぎませんわ。……私は、自分の価値を自分で証明したいのです。一ゴルドの狂いもなく、積み上げた数字だけが、私を裏切らない唯一の味方ですから」


ジークハルトは、思わず椅子から立ち上がり、ニーアの前に立った。


「……ならば、その味方に私も加えてくれないか」


「……はい?」


「ビジネスパートナーとしてだけではない。……私の人生という名の帳簿を、君に一生管理してほしいのだ。……これは、私の全財産と全人生を懸けた、史上最大の投資案件だ」


ジークハルトが、ニーアの細い手を取る。


その手のひらは、氷の公爵という異名に反して、驚くほど熱かった。


ニーアは、真っ赤な顔で固まった。


「……ジ、ジークハルト様。そのプロポーズ……いえ、提案。期待利益率はどの程度を見込んでおられますの?」


「……無限大だ。私が保証する」


「む、無限大……! それは……計算不能なリスクですが……」


ニーアの脳内算盤が、かつてないスピードで火花を散らし始めた。


愛という、数値化できない不確定要素。


しかし、目の前の男の真剣な眼差しは、どんな確実な投資案件よりも、彼女の心を激しく揺さぶっていた。


「……分かりましたわ。……その案件、私が『精査』して差し上げます。……ただし、私のコンサル料は高くつきますわよ?」


「望むところだ。……私の心臓の鼓動一つまで、君の管理下に置こう」


二人の距離が、効率性を完全に無視して、一気に縮まった。


それは、悪役令嬢ニーアにとって、人生で初めての「計算外の恋」の始まりであった。
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