無明を断つ 〜寛永の遊魔〜

MIROKU

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寛永の遊魔

兵は詭道なり

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 女は妖艶な笑みのまま消失した。
 唐突な展開に七郎は茫然とする。
(ここは江戸城だぞ?)
 早くも全身を冷汗に濡らした七郎。まさか魔性が江戸城の敷地内に現れるとは。
 江戸城には夜の見回り組もいる。曲者の侵入を許せば、見回り組の忍びも斬首されかねない。
 将軍家光の武断政治の凄まじさは、忍び衆にも影響を与えている。見回り組も手を抜くことはない。万が一にも侵入者があれば、彼らの首が飛ぶ。
「……ふ、ならば俺を殺しに来い」
 七郎の目つきが変わった。
 普段のお人好しの顔ではない。
 己の得意技一つで、万の敵に挑む修羅の顔だ。
 七郎は己の内にある修羅を嫌悪するが、家光や國松には好ましい。
 かつて沢庵禅師は七郎に言った。
 闘争を好む悪鬼である修羅も、時に仏敵を滅ぼすゆえに、仏法の守護者であるのだと。
 修羅が悪鬼羅刹を討ち滅ぼせば、それは人々の笑顔と喜びに還元されることもあるのだ。
 互いに争い、傷つけ合う修羅たちも、その行いが人々の役に立つことがある――
 その教えが七郎の心に光となって差しこんでいる。さながら無明を断つように。
 そして七郎が命をかけて守りたいのは、茶屋のおりんとおまつだ。たとえ力及ばずとも。


 数日後の夜、七郎は江戸城の庭で練武に及んでいた。
 道着を巻きつけた庭木を相手に、ただひたすら技をしかける。
 しかも右手には愛刀の三池典太を逆手に握っている。七郎は右手が使えない状態から、庭木へと打ちこみを繰り返していた。
 それは後世における柔道の一人稽古に似ていた。
 円の動き、回転の力、球の原理。
 柔よく剛を制す、その理を魂に刻みつけ、宿すために、ただひたすらに打ちこみを繰り返す。
 七郎の全身は汗に濡れ、左の隻眼はギラギラと輝いて――
 七郎にあるのは必殺の気迫だ。
 繰り返すのは無心の一手だ。
 技の入りの研鑽は、やがては入神の一手へと昇華されるのだ。
 七郎が左手一本でしかけているのも一つの技ではない。
 手技、腰技、足技。
 立技の基本を愚直に繰り返しているように見える。
(己を捨てよ)
 七郎は心中に繰り返す。
 おまつ、おりんを守るために己を捨てる。
 激しい練武の中で、七郎は自身の真実の思いに気づいた。
 ――すぅ……
 空気が揺れ、微かな風が吹いたことに七郎は気づいた。
 だが、それに気づかぬ風を装いながら七郎は打ちこみを繰り返す。
 隙を作って油断させ、必殺の機を狙う。
 兵は詭道なり、それは孫子の言葉だ。
 詭道とは敵をあざむくことだ。
「……ハッ!」
 七郎は突然振り返って、夜の闇に右手の三池典太を投げつけた。
 闇の中で何かが蠢いた気配がした。
(未熟、声が出たか)
 内心で自分を叱咤しつつ、右手に提灯を手にして庭を歩き回る。
 果たして、七郎は地に落ちた自身の愛刀、三池典太を発見した。
 そして、点々と地に残った血痕をも……
「逃したか」
 七郎は夜空を見上げた。まだ踏みこみが足りなかった。
 生と死の境への踏みこみが浅かった、それが失敗につながったと七郎は舌打ちした。


 翌日、七郎は馴染みの茶屋に向かった。
(なんだか、しばらくぶりだな)
 七郎の心は弾む。表情も和んでいる。
 江戸城の庭に現れた魔性を討ち取るために数日、練武に励んでいた。
 七郎はいつもこうだ。一つのことに夢中になると、周りが見えなくなる。
 その集中力が七郎を生き延びさせてきたが、時に弊害をもたらすことがある。
「いつもの」
 七郎は茶屋の店先で、看板娘おりんの背に呼びかけた。
「ああん?」
 振り返ったおりんの顔は恐かった。他の客へ向ける明るい笑顔ではなかった。
「き、急用を思い出した!」
 七郎は回れ右して、茶屋から去ろうとする。それを制したのは店主おまつだった。
「ちょいと、何やってんだい?」
「え、あ、いや、いろいろと」
「あんたが何日も来ないから、おりんもヘソ曲げてんだよ」
 おまつは上目遣いで七郎をにらんだ。普段は慈母観音と噂されるおまつも、七郎には鬼女の顔で接することがある。
「そ、そうなのか?」
「そうだよ、まったく…… ほら、ご機嫌取って」
 おまつに背を押されて、七郎はおりんの前に立った。
 そして、おりんのご機嫌取りに必死になる。
 やがて、おりんのご機嫌も直り、ようやく七郎は茶と団子を味わうことができた。
(幸せだ、これが平和なんだな)
 七郎は江戸の空を見上げた。青く澄んだ日本晴れの空を見つめながら、江戸城に現れた魔性のことを思う。
 あの儚げで妖艶な魔性こそ、世間を騒がす「サトリ」と確信していた。
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