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8話
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数日後、イースター男爵夫人から、私宛に静謐で上品な封書が届いた。
中身は、彼女の邸の近況を伝える挨拶文だったが、その最後の行に、細やかな筆跡で追伸が添えられていた。
『あの方にはお会いし、わたくしの懸念を伝えました。風向きが変わりつつあることを、どうかお忘れなきよう』
私はその追伸を読み、満足げに微笑んだ。カンナはすぐさまその意味を理解してくれた。
「レティシア公爵夫人は、やはり賢明な方でしたね。脅しではなく、《忠告》として受け止めたのでしょう」
「ええ。高位貴族のご夫人が、自分の立場を危うくするような火遊びを続けるはずがないわ。彼女の夫は公爵よ。私たちの旦那様とは、背負っているものが違うの」
その日の午後、私はカンナから
「執事のジョンソンさんが、旦那様にレティシア公爵夫人からのお手紙を渡したそうです」
(屋敷の者は、執事のジョンソンも含め、皆、旦那様の火遊びを警戒しているので全てはこちらを通してくれる)
「さあ、それを読んだ旦那様の反応が楽しみね」
(旦那様)
何なのだ、レティシア夫人が急に手紙を寄越した思えばその内容は
『周囲に誤解を与えたくないので、もうお会いすることはないでしょう。社交界でお会いしても声は掛けないで下さい』
どうしたんだ、誤解? 誤解ではないだろう。まあ、この手紙が誰かの目に留まったとしてもこの文面ならどうとでも言えるということか。それにしても何かあったのだろうか? もしや周囲にバレている? 気にはなるが、万一を考えたら、確かめるわけにもいかんな。
それならと、今度はイースター男爵夫人を誘ってみたが、体よく断られてばかりだ。
お陰で最近では暇を持て余している。さて、また社交界に顔を出して新しい相手でも見つけるか。
(アリーシャの覚悟)
ウィンチェスター侯爵の件でも肝を冷やしたはずなのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが旦那様の性分のようね。
『やはり、全く反省も後悔もしてないみたいね、このやり方は旦那様には無意味のようね、だったら‥‥』
「カンナ、新しいご婦人が邸に招かれる前に、私の方から動くわ」
「奥様、よろしいのですか? やはり旦那様にお話しして、もう少し落ち着いていただくべきでは‥‥」
カンナは心配そうに眉をひそめた。
「旦那様は言っても聞かないわ。それに、今回の件で学んだの。私が『影の薄い妻』のままでは、あの人は私を利用する隠れ蓑としてしか見ない。
そして、旦那様が危険を冒すたびに、屋敷の皆の仕事と、私の平穏な生活まで脅かされる。
これでは、いつまでも安心できないわ。だから私は決めたの」
と、私の覚悟をカンナに告げた。
ーーーー
数日後、侯爵は机の引き出しから、新しい舞踏会の招待状を取り出した。
(いくらなんでも、あんな恐ろしい経験はもう御免だ。次は子爵以下の、既婚者ではない未亡人にしよう。しかし、舞踏会に出るために、誰かのエスコートをしなければ……)
彼はふと、先日窮地を救ってくれた妻アリーシャの、あの完璧な美貌を思い出した。
(そうだ。アリーシャには、私の好きなタイプの年上の淑女の雰囲気を完璧に再現する『変装』をしてもらえばいい。そうすれば、誰の目も欺けるし、私自身も満足できる。あの時の変身の技術を使わない手はない)
そんな身勝手な考えを巡らせていると、図書室へ向かう途中の妻(地味な姿)が、廊下を歩きながら、彼に声をかけた。
「旦那様、また舞踏会の招待状をご覧になっているようですが」
「ああ、そうだ。次の相手を探しているところだ」
アリーシャは呆れた様子を隠しながら、静かに懐から、一枚の招待状を取り出した。
(この招待状は、旦那様が興味なく省かれた物だったが、私にはこの招待状こそがこれからの私には必要な物だと確信していた。
何故なら、ロビンソン伯爵はイースター男爵の葬儀の際、多くの人達から敬愛され、頼もしい存在として見られていたことを私は知っているのだから)
「それでしたら今週末、ロビンソン伯爵主催の慈善舞踏会がございます。旦那様の爵位とは釣り合わない規模の会ですが、そこへ、私の夫として、私の隣に立ってもらえませんか?」
「君が、あの舞踏会に? まさか、あの地味な姿でか?」
旦那様は思わず口にした。それでもアリーシャは顔色一つ変えず、静かに微笑んだ。
「もちろん、そのご心配には及びません。私は、旦那様の最高の隠れ蓑となる、完璧な淑女として参ります。
それにロビンソン伯爵とお近づきになられた方が、旦那様のお仕事にもきっと役立つはずです。あの方は随分とお顔が広いと聞いています」
「私はあまり慈善事業には興味がないが、まあ、彼の人脈は確かに凄いとは聞いている。」
「それでしたら是非、参加なさってください」
「わかった。その舞踏会、私がエスコートしよう。だが、君にはあくまで私の要望通りの淑女を演じてもらうぞ」
「承知しました。私は、旦那様にとって最も安全な『年上の淑女』を、完璧に演じさせていただきます」
(この時アリーシャは、ロビンソン伯爵とお近づきになり、彼の皆から慕われる人格と幅広い人脈を活かし、この社交界を自分が活躍する舞台にすることこそが、旦那様の行動を制御する唯一の手段だと考えていた)
私はこれからのためにも、旦那様にお願いをして一通りのドレスやアクセサリーを揃えた。
流石に自分が連れ歩く女性だからだろう、いつもの様に無駄使いをするなとは言わなかった。
【これで私の戦闘服が揃った】
ーーーー
そして、その週末。離れから本宅の居間へと向かう、完璧に仕上げられた妻の姿を見た夫は、息を飲んだ。
黒縁眼鏡を外した彼女は、息をのむほど美しい。その上、カンナの魔法のような手によって、その美しさはさらに磨き上げられ、ただ美しいだけでなく、人を寄せ付けない圧倒的な気品を纏っていた。それは、彼が今まで求めてきた、どんな[年上の淑女]をも凌駕する、理想的な女性像だった。
(まさか、私が求めていた最高の淑女が、こんなにも身近にいたとは……いや、違う。これは変装だ。これは、私の趣味に合わせた道具なのだ)
彼はそう自分に言い聞かせたが、舞踏会場に向かう馬車の中で、ついアリーシャの手を取ってしまった。
「‥‥アリーシャ。今日の君は、まるで別の世界の人間のようだ」
アリーシャは、その手の動きに動揺することなく、冷ややかな笑顔を向けた。
「ええ、旦那様。今夜の私は、『旦那様の最高の隠れ蓑であり、屋敷の財産を守るための道具』。そして、『自身の未来を切り開く淑女』ですわ。あなたとの関係は、それ以上でも、それ以下でもありません」
アリーシャの静かな拒絶に、旦那様の胸は、初めて知る苛立ちにざわついた。
(なぜだ? 私はこの美貌を独占しているはずなのに!)
舞踏会場の扉が開く。スポットライトを浴びたアリーシャは、その瞬間、社交界の話題を独占する主役となった。
そして、彼女の姿を目にした人々の群れの中に、穏やかな笑みを浮かべたアムール商会会長リチャードの姿があった。
アリーシャが覚悟を決めた[新しい戦い]が、今、始まる。
中身は、彼女の邸の近況を伝える挨拶文だったが、その最後の行に、細やかな筆跡で追伸が添えられていた。
『あの方にはお会いし、わたくしの懸念を伝えました。風向きが変わりつつあることを、どうかお忘れなきよう』
私はその追伸を読み、満足げに微笑んだ。カンナはすぐさまその意味を理解してくれた。
「レティシア公爵夫人は、やはり賢明な方でしたね。脅しではなく、《忠告》として受け止めたのでしょう」
「ええ。高位貴族のご夫人が、自分の立場を危うくするような火遊びを続けるはずがないわ。彼女の夫は公爵よ。私たちの旦那様とは、背負っているものが違うの」
その日の午後、私はカンナから
「執事のジョンソンさんが、旦那様にレティシア公爵夫人からのお手紙を渡したそうです」
(屋敷の者は、執事のジョンソンも含め、皆、旦那様の火遊びを警戒しているので全てはこちらを通してくれる)
「さあ、それを読んだ旦那様の反応が楽しみね」
(旦那様)
何なのだ、レティシア夫人が急に手紙を寄越した思えばその内容は
『周囲に誤解を与えたくないので、もうお会いすることはないでしょう。社交界でお会いしても声は掛けないで下さい』
どうしたんだ、誤解? 誤解ではないだろう。まあ、この手紙が誰かの目に留まったとしてもこの文面ならどうとでも言えるということか。それにしても何かあったのだろうか? もしや周囲にバレている? 気にはなるが、万一を考えたら、確かめるわけにもいかんな。
それならと、今度はイースター男爵夫人を誘ってみたが、体よく断られてばかりだ。
お陰で最近では暇を持て余している。さて、また社交界に顔を出して新しい相手でも見つけるか。
(アリーシャの覚悟)
ウィンチェスター侯爵の件でも肝を冷やしたはずなのに、喉元過ぎれば熱さを忘れるのが旦那様の性分のようね。
『やはり、全く反省も後悔もしてないみたいね、このやり方は旦那様には無意味のようね、だったら‥‥』
「カンナ、新しいご婦人が邸に招かれる前に、私の方から動くわ」
「奥様、よろしいのですか? やはり旦那様にお話しして、もう少し落ち着いていただくべきでは‥‥」
カンナは心配そうに眉をひそめた。
「旦那様は言っても聞かないわ。それに、今回の件で学んだの。私が『影の薄い妻』のままでは、あの人は私を利用する隠れ蓑としてしか見ない。
そして、旦那様が危険を冒すたびに、屋敷の皆の仕事と、私の平穏な生活まで脅かされる。
これでは、いつまでも安心できないわ。だから私は決めたの」
と、私の覚悟をカンナに告げた。
ーーーー
数日後、侯爵は机の引き出しから、新しい舞踏会の招待状を取り出した。
(いくらなんでも、あんな恐ろしい経験はもう御免だ。次は子爵以下の、既婚者ではない未亡人にしよう。しかし、舞踏会に出るために、誰かのエスコートをしなければ……)
彼はふと、先日窮地を救ってくれた妻アリーシャの、あの完璧な美貌を思い出した。
(そうだ。アリーシャには、私の好きなタイプの年上の淑女の雰囲気を完璧に再現する『変装』をしてもらえばいい。そうすれば、誰の目も欺けるし、私自身も満足できる。あの時の変身の技術を使わない手はない)
そんな身勝手な考えを巡らせていると、図書室へ向かう途中の妻(地味な姿)が、廊下を歩きながら、彼に声をかけた。
「旦那様、また舞踏会の招待状をご覧になっているようですが」
「ああ、そうだ。次の相手を探しているところだ」
アリーシャは呆れた様子を隠しながら、静かに懐から、一枚の招待状を取り出した。
(この招待状は、旦那様が興味なく省かれた物だったが、私にはこの招待状こそがこれからの私には必要な物だと確信していた。
何故なら、ロビンソン伯爵はイースター男爵の葬儀の際、多くの人達から敬愛され、頼もしい存在として見られていたことを私は知っているのだから)
「それでしたら今週末、ロビンソン伯爵主催の慈善舞踏会がございます。旦那様の爵位とは釣り合わない規模の会ですが、そこへ、私の夫として、私の隣に立ってもらえませんか?」
「君が、あの舞踏会に? まさか、あの地味な姿でか?」
旦那様は思わず口にした。それでもアリーシャは顔色一つ変えず、静かに微笑んだ。
「もちろん、そのご心配には及びません。私は、旦那様の最高の隠れ蓑となる、完璧な淑女として参ります。
それにロビンソン伯爵とお近づきになられた方が、旦那様のお仕事にもきっと役立つはずです。あの方は随分とお顔が広いと聞いています」
「私はあまり慈善事業には興味がないが、まあ、彼の人脈は確かに凄いとは聞いている。」
「それでしたら是非、参加なさってください」
「わかった。その舞踏会、私がエスコートしよう。だが、君にはあくまで私の要望通りの淑女を演じてもらうぞ」
「承知しました。私は、旦那様にとって最も安全な『年上の淑女』を、完璧に演じさせていただきます」
(この時アリーシャは、ロビンソン伯爵とお近づきになり、彼の皆から慕われる人格と幅広い人脈を活かし、この社交界を自分が活躍する舞台にすることこそが、旦那様の行動を制御する唯一の手段だと考えていた)
私はこれからのためにも、旦那様にお願いをして一通りのドレスやアクセサリーを揃えた。
流石に自分が連れ歩く女性だからだろう、いつもの様に無駄使いをするなとは言わなかった。
【これで私の戦闘服が揃った】
ーーーー
そして、その週末。離れから本宅の居間へと向かう、完璧に仕上げられた妻の姿を見た夫は、息を飲んだ。
黒縁眼鏡を外した彼女は、息をのむほど美しい。その上、カンナの魔法のような手によって、その美しさはさらに磨き上げられ、ただ美しいだけでなく、人を寄せ付けない圧倒的な気品を纏っていた。それは、彼が今まで求めてきた、どんな[年上の淑女]をも凌駕する、理想的な女性像だった。
(まさか、私が求めていた最高の淑女が、こんなにも身近にいたとは……いや、違う。これは変装だ。これは、私の趣味に合わせた道具なのだ)
彼はそう自分に言い聞かせたが、舞踏会場に向かう馬車の中で、ついアリーシャの手を取ってしまった。
「‥‥アリーシャ。今日の君は、まるで別の世界の人間のようだ」
アリーシャは、その手の動きに動揺することなく、冷ややかな笑顔を向けた。
「ええ、旦那様。今夜の私は、『旦那様の最高の隠れ蓑であり、屋敷の財産を守るための道具』。そして、『自身の未来を切り開く淑女』ですわ。あなたとの関係は、それ以上でも、それ以下でもありません」
アリーシャの静かな拒絶に、旦那様の胸は、初めて知る苛立ちにざわついた。
(なぜだ? 私はこの美貌を独占しているはずなのに!)
舞踏会場の扉が開く。スポットライトを浴びたアリーシャは、その瞬間、社交界の話題を独占する主役となった。
そして、彼女の姿を目にした人々の群れの中に、穏やかな笑みを浮かべたアムール商会会長リチャードの姿があった。
アリーシャが覚悟を決めた[新しい戦い]が、今、始まる。
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