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Echo64:幼い衝動
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夕陽が沈む頃、塔に戻るとルネが嬉しそうな顔をして出迎えてきた。
「ルネ様、戻りました」
「おかえりなさい」
「これ、昆虫の図鑑もってきました」
屈託のない笑みを見せるルネに、アリセルは籠から昆虫の図鑑を取り出して差し出した。
ルネは目を輝かせ、大事な贈り物を受け取るように両手で受け取り、頁を繰りはじめる。
色鮮やかな蝶や甲虫の挿絵が現れるたびに、息を弾ませるような小さな声がもれた。
「アリセルが言っていたパープルエンペラーって……どれ?」
「この蝶です。翅が紫に光って見えるの」
挿絵の上にそっと指先を添えて答えると、ルネは紫の蝶をじっと見つめた。
「綺麗だね……。白や黄色の小さな蝶なら見たことがあるけれど、こんなに大きな蝶もいるんだね。いつか本当に飛んでいるところを見てみたいな」
「はい、私もルネ様に見て欲しいです」
そう応えるアリセルだが、言葉を口にした直後、胸の奥で何かが、ぎゅっと縮むように痛んだ。
気づかれまいと微笑みを整えるが、息が浅くなり、喉が乾いて声が途切れそうになる。
ルネの瞳が、不思議そうに揺れる。
「……どうしたの?」
「いえ…、なんでも……」
平静を装いながら答えたものの、アリセルには分かっていた。
ユーグの死を告げられたことが、身体を静かに蝕み続けているのだ、と。
落ち着かなければと思うのに、胸は脈打ちを早め、呼吸は浅く乱れていく。
心と身体がかみ合わず、ずれていく感覚がどうしようもなく心細く、そして悔しかった。
ルネは図鑑をそっと机に置き、アリセルの手をとる。彼女を椅子に座らせてから、眉をひそめた。
「何があったの?」
青い瞳は、嘘や誤魔化しなど見抜いてしまうのではないかと思わせる程、深く澄んでいた。
アリセルは俯き、ためらいながら口を開く。
「ユーグが……亡くなったと聞きました」
言葉を口にした途端、ルネの表情に揺らぎが走る。
眉は沈むように寄せられるのに、瞳の奥にはかすかな明るさが差したようにも見える。
悲しみと喜び、そのどちらともつかぬ影と光が、同じ顔の上に同居しているかのようだった。
アリセルは思わず息を詰めた。
悲嘆に沈んでいるのか、それとも安らぎを覚えているのか、彼が何を感じているのかは分からない。
ただその矛盾するような表情を前に、胸の奥が不安にかき乱されるのを抑えられなかった。
「ルネ様……?」
思わず呼びかけると、ルネははっとしたように瞬きをし、やがて表情の翳りはゆっくりと悲嘆に変わっていった。
「……そうなんだ」
沈黙が長く続いた。
言葉を探そうとしたが、胸を締めつける苦しさに押し黙るしかなく、浅い息を繰り返すことしかできなかった。
奥歯を強く噛み締めるアリセルに、ルネは立ち上がり、その身を抱き寄せた。
「君とユーグは初めて僕に優しくしてくれた人達だった。ユーグが亡くなったことは、僕も悲しく思う……」
ルネはそこで一旦言葉をとぎる。
言おうか言うまいか逡巡するように、眉根を寄せてから意を決したように続けた。
「ねぇ、アリセル、怒らないできいてくれる?」
「え?」
「僕はユーグの事も本当に大好きなんだ。彼は僕に色んなものを与えてくれて、教えてくれた。感謝しているし、どんなにお礼をしても返せない程だと思っている。……だけど、ユーグが亡くなったと聞いて、僕は……ほんの少しだけ、安心してしまったんだ」
アリセルは黙ったまま耳を傾ける。
ルネはまるで叱られることを恐れているように、しかしそれでも懸命に続ける。
「それがどうしてなのか、自分でも分からない。ただ、彼がいなくなったら、アリセルはもう僕のそばから離れてしまわないんじゃないか、そんなふうに考えてしまったんだ。こんなことを言うのは卑怯だし、ひどいって分かっている。彼にしてもらったことを思えば、こんな気持ちを抱いてはいけないのに……。それでも、消せないんだ。どうしても」
「ルネ様……。私もまた、心に矛盾を抱えております。大切に思いながらも、いなくなれば安堵してしまう。人の心にはそうした二面があるのだと思います。ですから、私にはルネ様を責めることなどできません。ただ、どうかご自分を否定なさらないでください」
「アリセルは、僕のこと嫌いにならないでいてくれる?」
「はい。正直に打ち明けてくださったこと、嬉しく思います」
ルネのユーグに対する複雑な想いに、ショックを受けなかったといえば嘘になる。
だが、彼が飾らずに心を見せてくれた事の重みのほうが勝っていた。
頷くアリセルに、ルネは心底ほっとしたような表情で、抱いた腕に力をこめる。
「……昔は生きていても意味がなくて、終わってしまえばいいと思っていた。そうすれば苦しまなくて済むから。でも、生きたいと思ったら、辛い事がたくさんある事に気が付いた。……アリセルのことを想うと温かいのに、同時に不安で、胸がかき乱される。自分でも理解できない気持ちに振り回されて、途方に暮れているんだ」
ルネの顔が歪むと同時に、強い力で腕を掴まれた。
息を呑む間もなく、椅子から引き起こされる。
背が支えを失い、気が付いた時には硬い床へ押し伏せられていた。
両脇を塞ぐように腕が突き出され、退く場所を奪われる。
唇が触れあうほどの距離で、荒い呼吸が頬を撫でた。
ルネの目に宿ったのは焦燥と迷いが入り混じる色だ。乱暴な仕草の奥に、どうしようもなく縋るような必死さが透けて見え、アリセルは声を失う。
衣服の合わせ目が強く引かれ、留めが弾ける。
緩んだ隙間から冷たい空気が忍び込み、肌に粟立つ感覚が走った。
「アリセル。お願いだよ……僕のものになって……」
吐息混じりの声が鼓膜に届く。
覆いかぶさるルネは震えを帯び、制御をなくした衝動と痛々しい苦悩をその身に滲ませていた。
「ルネ様、戻りました」
「おかえりなさい」
「これ、昆虫の図鑑もってきました」
屈託のない笑みを見せるルネに、アリセルは籠から昆虫の図鑑を取り出して差し出した。
ルネは目を輝かせ、大事な贈り物を受け取るように両手で受け取り、頁を繰りはじめる。
色鮮やかな蝶や甲虫の挿絵が現れるたびに、息を弾ませるような小さな声がもれた。
「アリセルが言っていたパープルエンペラーって……どれ?」
「この蝶です。翅が紫に光って見えるの」
挿絵の上にそっと指先を添えて答えると、ルネは紫の蝶をじっと見つめた。
「綺麗だね……。白や黄色の小さな蝶なら見たことがあるけれど、こんなに大きな蝶もいるんだね。いつか本当に飛んでいるところを見てみたいな」
「はい、私もルネ様に見て欲しいです」
そう応えるアリセルだが、言葉を口にした直後、胸の奥で何かが、ぎゅっと縮むように痛んだ。
気づかれまいと微笑みを整えるが、息が浅くなり、喉が乾いて声が途切れそうになる。
ルネの瞳が、不思議そうに揺れる。
「……どうしたの?」
「いえ…、なんでも……」
平静を装いながら答えたものの、アリセルには分かっていた。
ユーグの死を告げられたことが、身体を静かに蝕み続けているのだ、と。
落ち着かなければと思うのに、胸は脈打ちを早め、呼吸は浅く乱れていく。
心と身体がかみ合わず、ずれていく感覚がどうしようもなく心細く、そして悔しかった。
ルネは図鑑をそっと机に置き、アリセルの手をとる。彼女を椅子に座らせてから、眉をひそめた。
「何があったの?」
青い瞳は、嘘や誤魔化しなど見抜いてしまうのではないかと思わせる程、深く澄んでいた。
アリセルは俯き、ためらいながら口を開く。
「ユーグが……亡くなったと聞きました」
言葉を口にした途端、ルネの表情に揺らぎが走る。
眉は沈むように寄せられるのに、瞳の奥にはかすかな明るさが差したようにも見える。
悲しみと喜び、そのどちらともつかぬ影と光が、同じ顔の上に同居しているかのようだった。
アリセルは思わず息を詰めた。
悲嘆に沈んでいるのか、それとも安らぎを覚えているのか、彼が何を感じているのかは分からない。
ただその矛盾するような表情を前に、胸の奥が不安にかき乱されるのを抑えられなかった。
「ルネ様……?」
思わず呼びかけると、ルネははっとしたように瞬きをし、やがて表情の翳りはゆっくりと悲嘆に変わっていった。
「……そうなんだ」
沈黙が長く続いた。
言葉を探そうとしたが、胸を締めつける苦しさに押し黙るしかなく、浅い息を繰り返すことしかできなかった。
奥歯を強く噛み締めるアリセルに、ルネは立ち上がり、その身を抱き寄せた。
「君とユーグは初めて僕に優しくしてくれた人達だった。ユーグが亡くなったことは、僕も悲しく思う……」
ルネはそこで一旦言葉をとぎる。
言おうか言うまいか逡巡するように、眉根を寄せてから意を決したように続けた。
「ねぇ、アリセル、怒らないできいてくれる?」
「え?」
「僕はユーグの事も本当に大好きなんだ。彼は僕に色んなものを与えてくれて、教えてくれた。感謝しているし、どんなにお礼をしても返せない程だと思っている。……だけど、ユーグが亡くなったと聞いて、僕は……ほんの少しだけ、安心してしまったんだ」
アリセルは黙ったまま耳を傾ける。
ルネはまるで叱られることを恐れているように、しかしそれでも懸命に続ける。
「それがどうしてなのか、自分でも分からない。ただ、彼がいなくなったら、アリセルはもう僕のそばから離れてしまわないんじゃないか、そんなふうに考えてしまったんだ。こんなことを言うのは卑怯だし、ひどいって分かっている。彼にしてもらったことを思えば、こんな気持ちを抱いてはいけないのに……。それでも、消せないんだ。どうしても」
「ルネ様……。私もまた、心に矛盾を抱えております。大切に思いながらも、いなくなれば安堵してしまう。人の心にはそうした二面があるのだと思います。ですから、私にはルネ様を責めることなどできません。ただ、どうかご自分を否定なさらないでください」
「アリセルは、僕のこと嫌いにならないでいてくれる?」
「はい。正直に打ち明けてくださったこと、嬉しく思います」
ルネのユーグに対する複雑な想いに、ショックを受けなかったといえば嘘になる。
だが、彼が飾らずに心を見せてくれた事の重みのほうが勝っていた。
頷くアリセルに、ルネは心底ほっとしたような表情で、抱いた腕に力をこめる。
「……昔は生きていても意味がなくて、終わってしまえばいいと思っていた。そうすれば苦しまなくて済むから。でも、生きたいと思ったら、辛い事がたくさんある事に気が付いた。……アリセルのことを想うと温かいのに、同時に不安で、胸がかき乱される。自分でも理解できない気持ちに振り回されて、途方に暮れているんだ」
ルネの顔が歪むと同時に、強い力で腕を掴まれた。
息を呑む間もなく、椅子から引き起こされる。
背が支えを失い、気が付いた時には硬い床へ押し伏せられていた。
両脇を塞ぐように腕が突き出され、退く場所を奪われる。
唇が触れあうほどの距離で、荒い呼吸が頬を撫でた。
ルネの目に宿ったのは焦燥と迷いが入り混じる色だ。乱暴な仕草の奥に、どうしようもなく縋るような必死さが透けて見え、アリセルは声を失う。
衣服の合わせ目が強く引かれ、留めが弾ける。
緩んだ隙間から冷たい空気が忍び込み、肌に粟立つ感覚が走った。
「アリセル。お願いだよ……僕のものになって……」
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