正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

文字の大きさ
7 / 15

07:手綱をとる者

しおりを挟む
 ベルがサロンへ行き、朝食を終えたギデオンは部屋でひとり、落ち着かない時間を過ごしていた。

(さて……。どんな顔で戻ってくるかな)

 リネアが怒り狂ってベルを泣かせて帰すに違いない、と彼は自信満々だった。
 なにしろ、新婚の夫が朝っぱらから愛人と絡み合っていたのだ。まともな女なら、八つ裂きにしたって足りない案件である。
 ギデオンはクッションをふっくら整え、ついでに自分の髪も整え、帰ってきたベルを慰める準備まで完璧に済ませていた。
 
 廊下から、足音が聞こえてきた。
 だが部屋のドアが開いた途端、ギデオンは思わず目を瞬いた。

 ベルが、ふらふらしながら部屋に入ってきたのだ。
 肉体疲労かと思ったが、雰囲気が違う。足どりは弱々しいのに、顔だけは陶酔のそれだった。
 言葉を失うギデオンに、ベルはぼんやりと天井の方を見て、心底うっとりした声を出した。

「リネア様……素敵……」
「…………え?」

 聞き間違えたと思った。
 しかしベルの顔は、どう見ても怒られた人の反応ではなかった。

「ちょっと待て。ベル、何があったんだ?」

 問い詰めるギデオンに、ベルは夢見るような表情で振り返った。

「ギデオン様。ベル、気づいたの」
「何をだよ」
「ベルはリネア様のことが好きだって」
「……はァ!?」

 ギデオンは思わず立ち上がった。床が鳴った。心臓も鳴った。

「だから、これからは敵同士ね。ギデオン様は、リネア様の旦那様だけど、リネア様の心は渡さない。ベル負けないんだから!」
「そもそも戦ってないッ!!」

 まっすぐな瞳で言われて、ギデオンは即座に突っ込んだ

「ベル、本気で言ってるのか。お前、媚薬か何か飲まされたんじゃないのか?」
「失礼なこと言わないで。……リネア様は本当に優しくて、カッコ良くて、そして素敵な人なの」

 ベルは胸のあたりを押さえ、うっとりと目を細める。
 彼女があまりに陶酔しすぎて、ギデオンの思考は動きを止めた。
 もっとも、彼の脳はもともと深い思索とは無縁で、止まった所で誰も気づかない程度の働きしかしていないのだが。

 回らない頭で、懸命に考える。

(いや、あの女は嫌な奴だ。僕を見て息ひとつ乱さないし、澄ましていて腹が立つ)

 ギデオンの中で、リネアは究極に性格の悪いタイプとして分類されている。
 つまり、彼女に恋するなど、理解の範囲外だ。
 何と言えばいいのか分からず、沈黙を抱えたまま時間だけが過ぎていく。

「怒られなかったのか? 本当に?」

 その果てにようやくこぼれたのは、そんなひと言だった。ベルはこくんと大きく頷いた。

「うん。それどころかベルのこと、大事にするって言ってくれたの」
「だいじ……」
「あとね、リネア様、額にキスをしてくれたのよ……」
「きす……」
「それで分かったの。ベルはリネア様のこと愛してるって」
「あい……」

 驚き過ぎてギデオンの返事は、すっかりひらがなに退化していた。
 思考が止まると語彙まで簡略化されるあたり、彼の脳は実に正直だった。

「……ああ、愛しいリネア様」

 ベルの魂はもう完全にリネアへ飛んでいて、目の前のギデオンは空気扱いだった。
 夫の仕返し計画が、なぜか愛人の妻への恋で幕を閉じる。この世にこんな誤算があっただろうか。
 ギデオンの顔から、ゆっくりと血の気が引いていった。





(……あの女、いったい何をした!)

 ベルがうっとりと呟いた「リネア様」という響きが、耳の奥でいつまでも消えない。
 気がつけば、ギデオンはもう部屋を飛び出していた。
 自尊心に火がつくと、彼の行動はいつも直線だ。廊下をずかずか進み、ノックもそこそこにリネアの部屋の扉を勢いよく開ける。

「リネア!」

 中では、当の本人が机に向かい、書類の束を静かにめくっていた。
 顔を上げたリネアは、やってきたのが夫であろうと、召使いであろうと、大差ないような落ち着きで視線だけを向ける。

「……なあに?」

 その涼しい声が、ギデオンの神経を逆撫でする。

「ベルに、何をしたんだ!」

 前置きもなく詰め寄ると、リネアは瞬きを一度だけした。

「何を、とは?」
「とぼけるな。媚薬でも盛ったんだろう! あんな顔で戻ってきたんだ、普通じゃない」

 ギデオンは思わず机に手をついた。書類の角が少しくしゃりと鳴る。
 リネアは、溜息もつかず、眉も動かさない。

「私はあなたじゃないんだから、そんな事しないわ」

 その言い方がまた癇に障った。あなたならやるでしょうけれどと、暗にしれっと告げている。

「じゃあ、なんでベルが……」
「ギデオン。そんなことより、今日の分の仕事は、もう終わったの?」
「……え?」

 唐突に話題を変えられ、ギデオンの思考は一瞬空白になる。

「領主としての書類よ。先週分から溜まっているじゃない。徴税の報告書に、陳情書、組合からの確認書……」

 淡々と並べられる書類名の数々。
 そのたびに、ギデオンの想像の中で紙の山がひとつ、またひとつと積み上がり、気付けば山脈になっていく。耐えきれず、頭をぶんぶん振り回し、憤ったように目をつり上げた。

「そんなものより、ベルの方が先だろ! それに、お前、本当に何も感じなかったのか? さっきの、見ただろ。僕とベルが抱き合ってたのを」
「ギデオン……」
「なっ、なんだよっ」
「お前、じゃないでしょ?」

 リネアは首を少しだけ傾げた。
 たったそれだけだが、ギデオンの声が途切れた。反論より先に、喉がひっかかる。そんな彼にリネアは言葉を続ける。

「それと、私に何を感じて欲しかったの?」
「何って……」

 ギデオンは息を呑み込んでから、きゅっと奥歯を噛み締めた。

「怒りとか! 嫉妬とか! 夫と愛人が抱き合ってるの見て、普通、何かあるだろ!」
「なるほど」
「説明しないと伝わらないあたりが、もう気持ち悪いんだよ、お前……いや、君は…!!」

 リネアを傷つけてやろうと、吐き捨てたつもりだった。
 だが「お前」を慌てて「君」に言い直したせいで、どうにも締まらない。
 するとリネアは胸の前で両手を組み、肩を落としてみせた。

「妻を差し置いて愛人と抱き合うなんて、ひどいわ。それに夫に気持ち悪いと言われるなんて……。きっと一生の傷だわ……。どうしましょう……」

 抑揚の抜けた声は、誰が聞いても分かる、見事なまでの「やってます」という芝居だった。
 ギデオンのこめかみが、ぴくりと跳ねる。

「バカにしてるだろ」
「いいえ? これくらいで良いかなと思って」

 リネアはあっさりと手をほどき、にっこりと笑った。

「これで少しは気が済んだ? じゃあ、そろそろ仕事しましょうね」
「仕事なんか、やってられるか!」

 ギデオンは叫び、踵を返した。
 この状況で書類など眺めていられるほど、彼の精神は鍛えられてはいなかった。
 だが、一歩、踏み出そうとした所、しゅっという鋭い音が空気を引き裂いた。

「……あ?」

 思考より先に足が止まる。
 気づいた時には、黒い鞭がギデオンの手首にくるりと巻きつき、ぴたりと締まっていた。鞭の根元は、リネアの手に収まっている。踏み出した体が不自然に引き戻され、よろめいた。

「どこへ行くつもり?」

 リネアは微笑んでいた。
 いつもの柔らかさのままなのに、鞭の黒が、その微笑を艶やかに縁取っていた。
 光の下で、彼女の瞳だけがわずかに深く沈み、獲物を捕らえた肉食獣のような煌めきを宿す。
 ギデオンの喉が、ひとりでに鳴った。
 逃げたいのに、脚が動かない。怒っているはずなのに、言葉が出ない。
 鞭を見下ろし、悔しさとも恐怖ともつかない感情を噛みしめた。

 ベルが言った「素敵」。
 自分が感じた「恐怖」。

 その相反が一人の人間に収まるのが、彼にはどうしても腑に落ちなかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

大好きな旦那様はどうやら聖女様のことがお好きなようです

古堂すいう
恋愛
祖父から溺愛され我儘に育った公爵令嬢セレーネは、婚約者である皇子から衆目の中、突如婚約破棄を言い渡される。 皇子の横にはセレーネが嫌う男爵令嬢の姿があった。 他人から冷たい視線を浴びたことなどないセレーネに戸惑うばかり、そんな彼女に所有財産没収の命が下されようとしたその時。 救いの手を差し伸べたのは神官長──エルゲンだった。 セレーネは、エルゲンと婚姻を結んだ当初「穏やかで誰にでも微笑むつまらない人」だという印象をもっていたけれど、共に生活する内に徐々に彼の人柄に惹かれていく。 だけれど彼には想い人が出来てしまったようで──…。 「今度はわたくしが恩を返すべきなんですわ!」 今まで自分のことばかりだったセレーネは、初めて人のために何かしたいと思い立ち、大好きな旦那様のために奮闘するのだが──…。

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

地獄の業火に焚べるのは……

緑谷めい
恋愛
 伯爵家令嬢アネットは、17歳の時に2つ年上のボルテール侯爵家の長男ジェルマンに嫁いだ。親の決めた政略結婚ではあったが、小さい頃から婚約者だった二人は仲の良い幼馴染だった。表面上は何の問題もなく穏やかな結婚生活が始まる――けれど、ジェルマンには秘密の愛人がいた。学生時代からの平民の恋人サラとの関係が続いていたのである。  やがてアネットは男女の双子を出産した。「ディオン」と名付けられた男児はジェルマンそっくりで、「マドレーヌ」と名付けられた女児はアネットによく似ていた。  ※ 全5話完結予定  

あなたの愛が正しいわ

来須みかん
恋愛
旧題:あなたの愛が正しいわ~夫が私の悪口を言っていたので理想の妻になってあげたのに、どうしてそんな顔をするの?~  夫と一緒に訪れた夜会で、夫が男友達に私の悪口を言っているのを聞いてしまった。そのことをきっかけに、私は夫の理想の妻になることを決める。それまで夫を心の底から愛して尽くしていたけど、それがうっとうしかったそうだ。夫に付きまとうのをやめた私は、生まれ変わったように清々しい気分になっていた。  一方、夫は妻の変化に戸惑い、誤解があったことに気がつき、自分の今までの酷い態度を謝ったが、妻は美しい笑みを浮かべてこういった。 「いいえ、間違っていたのは私のほう。あなたの愛が正しいわ」

愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。

星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。 グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。 それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。 しかし。ある日。 シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。 聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。 ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。 ──……私は、ただの邪魔者だったの? 衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。

ふしあわせに、殿下

古酒らずり
恋愛
帝国に祖国を滅ぼされた王女アウローラには、恋人以上で夫未満の不埒な相手がいる。 最強騎士にして魔性の美丈夫である、帝国皇子ヴァルフリード。 どう考えても女泣かせの男は、なぜかアウローラを強く正妻に迎えたがっている。だが、将来の皇太子妃なんて迷惑である。 そんな折、帝国から奇妙な挑戦状が届く。 ──推理ゲームに勝てば、滅ぼされた祖国が返還される。 ついでに、ヴァルフリード皇子を皇太子の座から引きずり下ろせるらしい。皇太子妃をやめるなら、まず皇太子からやめさせる、ということだろうか? ならば話は簡単。 くたばれ皇子。ゲームに勝利いたしましょう。 ※カクヨムにも掲載しています。

さよなら私の愛しい人

ペン子
恋愛
由緒正しき大店の一人娘ミラは、結婚して3年となる夫エドモンに毛嫌いされている。二人は親によって決められた政略結婚だったが、ミラは彼を愛してしまったのだ。邪険に扱われる事に慣れてしまったある日、エドモンの口にした一言によって、崩壊寸前の心はいとも簡単に砕け散った。「お前のような役立たずは、死んでしまえ」そしてミラは、自らの最期に向けて動き出していく。 ※5月30日無事完結しました。応援ありがとうございます! ※小説家になろう様にも別名義で掲載してます。

処理中です...