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08:勤勉努力
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ギデオンの手首に巻かれた鞭は、そのまま強く引かれた。
「うわっ!」
情けない声を上げた時には、もう遅かった。
足が床を滑り、体は机の前まで引き戻されている。勢いのまま椅子へ腰を落とし、背もたれに、どさりとぶつかった。
鞭はきっちり巻きついたままだ。逃げ出したい腕は、見事なまでに座右の位置へ固定されている。
リネアはその様子を見おろし、小首を傾げた。
「座ってね」
声だけ聞けば優しいが、手元の鞭だけが別の言語で威圧してくる。萎縮しそうな内心を叱咤しながら、ギデオンはキッとリネアを睨みつけた。
「仕事……!? 僕が? なんでだよ。今、仕事するような気分じゃ……」
ギデオンが立ち上がりかけた、その刹那。鞭が真横に滑った。
パァンッ!
空気ごと割れたような鋭い音が、室内を打ち抜く。
机の上の書類がばさっと跳ね、重ねた紙の角が微妙にずれた。もっと跳ねたのはギデオンだった。腰を抜かさなかったのは奇跡と言っていい。
ギデオンの喉が、ひゅっと鳴った。
リネアは、鞭を引き寄せる。艶のある黒が、彼女の指先で静かに巻かれていく。
その動きのひとつひとつが、妙に滑らかで、身のこなし全体から人を追いつめるための経験が滲んでいた。
「……これ、今日の分ね」
リネアが片手で書類の山を示す。そして、さらりと髪を撫で、そのまま踵を返した。
「それじゃあ、また後で来るわ。その時までに、これくらいは片づけておいてね」
「待て、僕はまだやるなんて……」
リネアは振り返らない。
スカートの裾が静かに揺れ、足音も立てずに扉へ向かう。その背中には、話し合いの余地というものがまるで見当たらない。
「リネア!」
返事の代わりに、ぱたん、と扉が閉まる音が響いた。
室内には、ギデオンと、山のような書類と、まだ皮膚に残る鞭の感触だけが取り残される。
ギデオンは、自分の手首を見下ろした。自由になったはずの腕が、妙に重たい。
(こわかった……)
認めたくない一言が、心の中で雫のように、ぽとりと落ちた。
だが恐怖の裏側から、じわじわと苛立ちが顔を出す。
(というか、そもそもなんで僕が、あの女に命令されなきゃいけないんだ?)
もともと、仕事など真面目にやったことはない。領主という肩書きは、家と血筋が勝手に用意したものだ。
(仕事、書類……。そんなものは、真面目な人間に任せればいいだろう)
そこまで考えたところで、ギデオンは勢いよく椅子から立ち上がった。
「やってられるか。こんなもの知るかよっ……」
呟きながら、扉の取っ手をつかむ。力任せに回し、外へ押した。
だが、次の瞬間。
バタン。
扉は、何事もなかったかのような速度で閉め直された。
というのも、扉の前にキャンディが、石像のように座っていたからだ。
開けてから閉めるまでの所要時間、ほぼ一秒。反射神経の高さだけなら、優秀な兵士になれたかもしれない。壁に背中を預け、ギデオンは乱れた呼吸を整える。
鞭で背中を押され、犬で出口を塞がれる。見事な包囲網である。逃げ道など、どこにもない。
「……くそっ」
吐き捨てる声には、情けなさとわずかな諦めと、どうにか保とうとするプライドが混ざっていた。
「……やればいいんだろ。やれば」
誰にともなく呟き、椅子に戻る。どっかりと腰を下ろし、山の頂から紙を一枚つまみ上げた。
文字がぎっしり並んでいる。細かい数字と、人名と、土地の名前。
ギデオンは三行目あたりで、読むのをやめた。
「徴税……の報告……ふん。大変だったね、村の皆。承認」
内容に対する感想としては雑だが、ペン先は滑らかだった。
慣れた手つきで自分の署名を書き込むと、ひらりと紙を脇へ送る。
次の一枚を取る。
裏返す。文字の多さにうんざりする。読むのをやめる。
「陳情書……。ここまで丁寧にお願いされているってことは、何か困っているんだろう。承認」
半分以上を読み飛ばし、そのままサインを書き込む。
本文の中に切迫、困窮、といった単語がかすめた気がしたが、見なかったことにする。
三枚目。
「組合からの……確認。ご査収ください……。査収って、たぶん受け取ってね、って意味だろ。……受け取った。承認」
自分に都合良く解釈しつつ、ペン先だけは軽快に滑る。書類の内容を無視したサインの速度は、常軌を逸していた。
やがて腕にだるさを覚え、ギデオンは一度ペンを置いた。気づけば机の左側に承認済みの山が出来ている。椅子の背にもたれ、深く息を吐く。
「……ふう。終わった」
内容を理解している書類は、一枚もない。だが仕事をしたという事実だけはそこに存在する。
机の上にはひたすら承認印が押された紙束が積み上がり、ギデオンの胸には奇妙な達成感だけが残った。
そこへ、静かに扉がノックされた。
「失礼するわ」
湯気の立つココアを載せた盆を持ち、リネアが部屋に入ってきた。
「ちょっと休憩しましょう。どう? 少しは進んだ?」
ギデオンは待ってましたとばかりに上体を起こし、誇らしげに紙の山を指さした。
「見ろよ、これ。ほら、圧倒的成果。僕はこれで自由の身だ」
リネアが差し出したカップを、ほぼ奪うようにして受け取ると、そのまま喉へ流し込んだ。甘さが勝利の証のように思えて、妙にうまい。
「ちょっと確認させてね」
「どうぞ、どうぞ。さて、僕はこれで……」
襟首に冷たい指がかかった。
「……っ!」
気づけば、ギデオンの体は強制的に後方へ引かれていた。立ち上がったばかりの椅子に、勢いよく腰が落ちる。椅子の脚が抗議するように、ぎしっと鳴った。
リネアはまだ紙を見ている。
だが逃がす気がないという意志だけは、襟首をつまむ指先からじわりと伝わってくる。
「な、なんだよ。僕はもう行っていいだろ……?」
「ねぇ、この徴税報告。盗難で金貨が消えたって書いてあるのに、承認してるわ」
「現場の事情に理解を示しただけだよ!」
「次。陳情書。視察に来てほしい、と書いてあるのにこれも承認ね。いつ行くの?」
「行かないけど、気持ちだけは行った。ほぼ行ったと言っても過言じゃないね」
リネアが書類を机に置く音が、妙に静かで、いやに重く響いた。
「……読んでないわね?」
「いや、読んだ。……なんとなく」
ここでようやくリネアが顔を上げた。
穏やかに笑っているのに、笑っている事実そのものが脅威になるような表情だ。
「やり直すわよ」
「無理! 絶対いや! 僕はもう働いた!」
「働いていないわ」
「働いた! 働いたんだってば! 印押したし、サインしたし!」
「……まあ、それは事実だけど」
リネアは歩み寄り、椅子のすぐ脇まで来た。その距離の近さが、ギデオンの心拍を強制的に上げる。
「いやだ、やらない! やらされる筋合いなんて……」
反発の言葉は最後まで出なかった。リネアの指が、顎先へ触れたからだ。
「……っ」
彼女の指先にかすかな圧が加わり、顎がくいと持ち上げられた。
そのわずかな動きだけで、視界の高さが変わる。逃げ場のない角度へ固定されていくような感覚が、首筋から背中へじんわりと伝った。
影が落ちた。
まつ毛の一本一本まで数えられそうな距離で、彼女の顔立ちが輪郭の細部まで鮮明になる。
香りも息づかいも、全てがすぐそこで重なる。
ギデオンは喉の奥がぎゅっと縮むのを意識しながら、しかし目を逸らせなかった。
彼の唇に、リネアは人差し指をそっとあてがった。
「しーっ」
囁く声が危ういほど近い。指先の温度が唇に残り、思考が全部止まる。ギデオンは瞬きを忘れたまま固まった。リネアの仕草は滑らかで、艶があり、そして、あまりに命令そのものだったからだ。
「いい子。……一緒にやりましょう。私も隣で読むから」
拒否権など、どこにも存在しなかった。
「…………や、やる。やります」
ギデオンは完全に戦意を喪失し、しゅんと肩を落とす。
リネアは満足そうに椅子を引き寄せ、隣に腰を下ろした。紙を一枚持ち、指で行をなぞり始める。
ギデオンは観念したようにペンを握り直す。
まだ胃の当たりが、きゅうっとしているのは、さっきの「しーっ」が余韻になって残っているからだ。
(……こわい)
逆らえない。理屈ではなく、本能が無理だと告げている。
こうしてギデオンは、リネアの圧に負け、生まれて初めてまともな仕事をすることになった。
「うわっ!」
情けない声を上げた時には、もう遅かった。
足が床を滑り、体は机の前まで引き戻されている。勢いのまま椅子へ腰を落とし、背もたれに、どさりとぶつかった。
鞭はきっちり巻きついたままだ。逃げ出したい腕は、見事なまでに座右の位置へ固定されている。
リネアはその様子を見おろし、小首を傾げた。
「座ってね」
声だけ聞けば優しいが、手元の鞭だけが別の言語で威圧してくる。萎縮しそうな内心を叱咤しながら、ギデオンはキッとリネアを睨みつけた。
「仕事……!? 僕が? なんでだよ。今、仕事するような気分じゃ……」
ギデオンが立ち上がりかけた、その刹那。鞭が真横に滑った。
パァンッ!
空気ごと割れたような鋭い音が、室内を打ち抜く。
机の上の書類がばさっと跳ね、重ねた紙の角が微妙にずれた。もっと跳ねたのはギデオンだった。腰を抜かさなかったのは奇跡と言っていい。
ギデオンの喉が、ひゅっと鳴った。
リネアは、鞭を引き寄せる。艶のある黒が、彼女の指先で静かに巻かれていく。
その動きのひとつひとつが、妙に滑らかで、身のこなし全体から人を追いつめるための経験が滲んでいた。
「……これ、今日の分ね」
リネアが片手で書類の山を示す。そして、さらりと髪を撫で、そのまま踵を返した。
「それじゃあ、また後で来るわ。その時までに、これくらいは片づけておいてね」
「待て、僕はまだやるなんて……」
リネアは振り返らない。
スカートの裾が静かに揺れ、足音も立てずに扉へ向かう。その背中には、話し合いの余地というものがまるで見当たらない。
「リネア!」
返事の代わりに、ぱたん、と扉が閉まる音が響いた。
室内には、ギデオンと、山のような書類と、まだ皮膚に残る鞭の感触だけが取り残される。
ギデオンは、自分の手首を見下ろした。自由になったはずの腕が、妙に重たい。
(こわかった……)
認めたくない一言が、心の中で雫のように、ぽとりと落ちた。
だが恐怖の裏側から、じわじわと苛立ちが顔を出す。
(というか、そもそもなんで僕が、あの女に命令されなきゃいけないんだ?)
もともと、仕事など真面目にやったことはない。領主という肩書きは、家と血筋が勝手に用意したものだ。
(仕事、書類……。そんなものは、真面目な人間に任せればいいだろう)
そこまで考えたところで、ギデオンは勢いよく椅子から立ち上がった。
「やってられるか。こんなもの知るかよっ……」
呟きながら、扉の取っ手をつかむ。力任せに回し、外へ押した。
だが、次の瞬間。
バタン。
扉は、何事もなかったかのような速度で閉め直された。
というのも、扉の前にキャンディが、石像のように座っていたからだ。
開けてから閉めるまでの所要時間、ほぼ一秒。反射神経の高さだけなら、優秀な兵士になれたかもしれない。壁に背中を預け、ギデオンは乱れた呼吸を整える。
鞭で背中を押され、犬で出口を塞がれる。見事な包囲網である。逃げ道など、どこにもない。
「……くそっ」
吐き捨てる声には、情けなさとわずかな諦めと、どうにか保とうとするプライドが混ざっていた。
「……やればいいんだろ。やれば」
誰にともなく呟き、椅子に戻る。どっかりと腰を下ろし、山の頂から紙を一枚つまみ上げた。
文字がぎっしり並んでいる。細かい数字と、人名と、土地の名前。
ギデオンは三行目あたりで、読むのをやめた。
「徴税……の報告……ふん。大変だったね、村の皆。承認」
内容に対する感想としては雑だが、ペン先は滑らかだった。
慣れた手つきで自分の署名を書き込むと、ひらりと紙を脇へ送る。
次の一枚を取る。
裏返す。文字の多さにうんざりする。読むのをやめる。
「陳情書……。ここまで丁寧にお願いされているってことは、何か困っているんだろう。承認」
半分以上を読み飛ばし、そのままサインを書き込む。
本文の中に切迫、困窮、といった単語がかすめた気がしたが、見なかったことにする。
三枚目。
「組合からの……確認。ご査収ください……。査収って、たぶん受け取ってね、って意味だろ。……受け取った。承認」
自分に都合良く解釈しつつ、ペン先だけは軽快に滑る。書類の内容を無視したサインの速度は、常軌を逸していた。
やがて腕にだるさを覚え、ギデオンは一度ペンを置いた。気づけば机の左側に承認済みの山が出来ている。椅子の背にもたれ、深く息を吐く。
「……ふう。終わった」
内容を理解している書類は、一枚もない。だが仕事をしたという事実だけはそこに存在する。
机の上にはひたすら承認印が押された紙束が積み上がり、ギデオンの胸には奇妙な達成感だけが残った。
そこへ、静かに扉がノックされた。
「失礼するわ」
湯気の立つココアを載せた盆を持ち、リネアが部屋に入ってきた。
「ちょっと休憩しましょう。どう? 少しは進んだ?」
ギデオンは待ってましたとばかりに上体を起こし、誇らしげに紙の山を指さした。
「見ろよ、これ。ほら、圧倒的成果。僕はこれで自由の身だ」
リネアが差し出したカップを、ほぼ奪うようにして受け取ると、そのまま喉へ流し込んだ。甘さが勝利の証のように思えて、妙にうまい。
「ちょっと確認させてね」
「どうぞ、どうぞ。さて、僕はこれで……」
襟首に冷たい指がかかった。
「……っ!」
気づけば、ギデオンの体は強制的に後方へ引かれていた。立ち上がったばかりの椅子に、勢いよく腰が落ちる。椅子の脚が抗議するように、ぎしっと鳴った。
リネアはまだ紙を見ている。
だが逃がす気がないという意志だけは、襟首をつまむ指先からじわりと伝わってくる。
「な、なんだよ。僕はもう行っていいだろ……?」
「ねぇ、この徴税報告。盗難で金貨が消えたって書いてあるのに、承認してるわ」
「現場の事情に理解を示しただけだよ!」
「次。陳情書。視察に来てほしい、と書いてあるのにこれも承認ね。いつ行くの?」
「行かないけど、気持ちだけは行った。ほぼ行ったと言っても過言じゃないね」
リネアが書類を机に置く音が、妙に静かで、いやに重く響いた。
「……読んでないわね?」
「いや、読んだ。……なんとなく」
ここでようやくリネアが顔を上げた。
穏やかに笑っているのに、笑っている事実そのものが脅威になるような表情だ。
「やり直すわよ」
「無理! 絶対いや! 僕はもう働いた!」
「働いていないわ」
「働いた! 働いたんだってば! 印押したし、サインしたし!」
「……まあ、それは事実だけど」
リネアは歩み寄り、椅子のすぐ脇まで来た。その距離の近さが、ギデオンの心拍を強制的に上げる。
「いやだ、やらない! やらされる筋合いなんて……」
反発の言葉は最後まで出なかった。リネアの指が、顎先へ触れたからだ。
「……っ」
彼女の指先にかすかな圧が加わり、顎がくいと持ち上げられた。
そのわずかな動きだけで、視界の高さが変わる。逃げ場のない角度へ固定されていくような感覚が、首筋から背中へじんわりと伝った。
影が落ちた。
まつ毛の一本一本まで数えられそうな距離で、彼女の顔立ちが輪郭の細部まで鮮明になる。
香りも息づかいも、全てがすぐそこで重なる。
ギデオンは喉の奥がぎゅっと縮むのを意識しながら、しかし目を逸らせなかった。
彼の唇に、リネアは人差し指をそっとあてがった。
「しーっ」
囁く声が危ういほど近い。指先の温度が唇に残り、思考が全部止まる。ギデオンは瞬きを忘れたまま固まった。リネアの仕草は滑らかで、艶があり、そして、あまりに命令そのものだったからだ。
「いい子。……一緒にやりましょう。私も隣で読むから」
拒否権など、どこにも存在しなかった。
「…………や、やる。やります」
ギデオンは完全に戦意を喪失し、しゅんと肩を落とす。
リネアは満足そうに椅子を引き寄せ、隣に腰を下ろした。紙を一枚持ち、指で行をなぞり始める。
ギデオンは観念したようにペンを握り直す。
まだ胃の当たりが、きゅうっとしているのは、さっきの「しーっ」が余韻になって残っているからだ。
(……こわい)
逆らえない。理屈ではなく、本能が無理だと告げている。
こうしてギデオンは、リネアの圧に負け、生まれて初めてまともな仕事をすることになった。
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