正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

文字の大きさ
13 / 39

13:駆け引き

しおりを挟む
「リネア!」

 呼び声は無駄に堂々としていた。自信と虚勢が半々でできた声量である。
 だが、返ってきたのは慌てふためく気配ではなく、もぐ、と乾いた咀嚼音だった。
 振り返ったリネアはベルと肩を並べ、クッキーの皿を前にしていた。頬にまだ欠片を入れたまま、にこやかに言う。

「おかえり、ギデオン。家出はもう終わり?」
「……帰ってこなくても良かったのに」

 その横で、ベルが不満そうに眉を寄せる。クッキーをもぐもぐしながら呟くあたり、本気なのか冗談なのか判別が難しい。

「君ら、何してるんだ?」

 ふと、素の声が漏れた。帰宅したというのに、場の空気はまるで揺れもしない。その無風ぶりに、自分だけ取り残されているような感覚が声に滲んだ。

「お喋りしてたのよ。ベルが面白い話いっぱいしてくれるの」

 リネアはにっこりと笑った。正妻、愛人、夫という三角形が、その笑顔ひとつで平和的に解決されている。

「それで、家出はどうなったの?」
 リネアが首を傾げながら、問いかける。

「家出じゃない。僕くらいの男なら、夜の外出は生活の一部だ」
「はいはい、好きに言ってて」
 軽くいなされた。爽やかすぎて逆に腹が立つタイプのいなし方である。

「ともかく! リネアと話があるんだ。ベルは席を外してくれ」
 声にだけは威厳を乗せる。ベルは軽く唇を尖らせたが、すぐに小さく息を吐いた。

「……分かったわ。リネア様を困らせないでね」

 そう言って、ベルはクッキーの皿をリネア側へ押し戻し、立ち上がる。未練がましく一度だけ振り返ってから、扉の向こうへ消えていった。
 その背には、恋する者特有の、帰りたくないけど帰らなきゃいけない雰囲気が漂っていた。
 ギデオンは、なぜかほんの少しだけ勝った気分になり、同時に胸の奥がチクリとした。勝利と敗北がひとまとめになったような、非常に扱いにくい感覚だ。

 静かになった部屋の中央に、ギデオンとリネアだけが残る。

「大事な話ってなに?」
 尋ねるリネアに、ギデオンは胸を張り、ニヤッと笑ってみせた。

「リネア。君に妻としての務めを果たしてもらおう。僕は君を抱く」

 言い放たれた言葉は、じつに雄々しかった。
 しかし、言い終わるより早く、マントの内側から、ひらりと一枚の紙が落ちた。
 リネアは無駄のない動作で紙を拾い上げた。すっと視線を落とし、金額を確認し、そして眉ひとつ動かさずに言った。

「これは?」

 ただの質問だった。だが、その優美さのせいで、怒っている気配がないという事実が逆に恐ろしい。途端に萎えそうになる心を叱咤して、ギデオンは唇の端を吊り上げる。

「豪遊費だよ! 僕くらいの男なら、このくらい当然なんだ。健全と言っていい」
「ふぅん……。じゃあ、これは?」

 リネアは、マントからもう一枚の領収書を取りだした。
 くっきりと印字された「エロス・ルージュ」という店名。その下には「初めての娘から熟れた女まで。お望みのままに抱けます!」と書いてある。言い逃れ不能の下品さだった。 

「娼館も健全な豪遊の範囲?」
「い……一環さ!」
「で、大事な話ってこれ?」
 リネアは、領収書を揃えてテーブルに置きながら言った。
 
「違う。これは余興であって……その……本題じゃない!」
「じゃあ、本題は?」
「さっき言っただろ? 君を抱いてやろうって言ってるんだ」
「抱いてやろう、じゃないでしょ。ギデオン」

 その一言で、威勢よく組み上げていたギデオンの自信がぐらりと揺れる。

「だ、だき……いや、だから……その……」
「抱かせて、のほうが正しいんじゃない?」
「…………抱かせて、ほしい……?」

 言ったあとで気づいた。主導権を握るはずの自分の言葉が、いつの間にか、お願いしているような響きに変わっている。

「抱かれるのは、いいけど」

 リネアは何でもないことのように言った。耳が拾ったその一言に、ギデオンは条件反射のように前のめりになる。性欲云々というより、今すぐ屈服させたいと言う気持ちのほうが濃かった。

「よし、じゃあ今すぐ……」
 伸ばした手より速く、リネアの指先が軽く制する。

「いいけど、まずは今日の仕事を片付けてからね」
 また「仕事」だ。ギデオンの眉間にしわが寄り、口元はへの字に曲がり、目が死んでいく。

「今日の分、丸々空けて遊んでいたでしょう? それと、この豪遊代。あなた、金銭感覚が少しおかしいわ。この数字で、まだ健全だって言えるなら、感覚を直した方がいいと思うの。だから、別の所で働いてきて?」

 すとんと落とされたその一言に、ギデオンは耳を疑った。

「……はた、らく?」
「例えば、昼の間だけ誰かの店を手伝うとか。荷物を運んだり、お皿を下げたり。半日働いて、その日のうちにお金をもらうような、そういう稼ぎ方もあるでしょう?」
「なんでそんなこと、僕がしなきゃいけないんだよ!? 僕は領主なんだ。それが皿を下げる側に回るなんて、世の秩序がひっくり返る」
「いいじゃない、たまにはひっくり返してみても。お金の重みを知るのは大事よ」
「君は僕の母親か!?」
「残念だけど、あなたのお母様ほど優しくないわよ?」

 リネアの言い回しは柔らかいのに、内容だけは容赦がない。舌打ちしたい衝動を、辛うじて堪える。

「そうね。この領収書の酒場で一日だけ雇ってもらったら?」
「はあ!?」

 ギデオンは思わず声を裏返らせた。上客として扱われた翌日に、皿洗いとして立つ。そんな屈辱的な構図は悪夢以外の何物でもない。

「言っておくけどね。この額は僕だけじゃない。君の兄たちが呑んだ分も入っているんだ」
「それなら、ちょうど良いわ。兄様たちにも、一緒に働いて返してもらいましょう」
「嫌だ! 絶対嫌だ!!」

 拒絶の仕方は、飾り気の欠片もないほど本気だった。
 大の男の駄々ほど見苦しいものもないが、もともと羞恥心の薄い彼には、それすら自覚する気配がない。

「じゃあ、働かないなら……私は抱かれないままね?」

 リネアは、たいしたことでもないように告げた。その静けさが妙に胸に刺さり、ギデオンは奥歯を噛み締めた。
 抱けないとなれば、自慢の「テクニック」を見せつける機会が消える。
 リネアをベッドの上で屈服させ、二度と生意気な口をきけないようにするという完璧なプランが、水の泡になってしまう。
 悩んだ末に、彼はどうしようもなく、ろくでもない案に飛びついた。

「……だったら、力づくで抱いてやろうか?」

 かなり悪趣味な脅しだったが、本人は本気だ。
 しかしリネアは動じない。それどころか、どこか愉しげに瞳を煌めかせて、唇に笑みをのせる。

「やってみる? できるものならね」
「…………」

 甘やかな声に、小さく浮かんだ微笑。その美しさが逆に冷たかった。男としての威厳だの、征服欲だのが一気にしぼんでいく。

「やっぱり、やめておく」

 言葉は、情けないほど素直に口から出た。
 怖いものは怖い。ここで妙な意地を張っても、いいことはひとつもない。ギデオンには、その程度の現実感覚はある。
 リネアは、ふっと目元を和らげた。先ほどまで氷だった瞳が、またいつもの柔らかい光を取り戻す。

「決まりね。明日はこの酒場で働かせてもらいましょう。大丈夫、私も一緒にいるから」
「……分かったよ。一日だけだ。明日だけ、だぞ」

 最大限しぶしぶといった顔で頷いた。
 大きな溜息を吐き出してから、ふと、酒場でのことが、唐突に頭をよぎった。
 双子が、酔った勢いで語っていた天使のような妹の話。誰よりも聞き分けがよく、愚痴ひとつこぼさず、家族のために笑ってくれた娘。

「君の兄たちがね」
 部屋を出ようとする直前、扉の前で足を止めて、ギデオンは少しだけ声の調子を変えた。

「リネアは天使だって、言っていたよ。いつも笑ってて、文句も言わなくて、とてもいい子だって。……けど」
 ギデオンは、短く息を吐き、笑いも皮肉も削ぎ落とした声で言った。

「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」

 一瞬、リネアの瞳が見開かれた。だが、それは本当に一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。

「そう? 兄たちは、私の事、ずっと可愛がってくれてたわ」
「それが、問題なんだよ」

 ギデオンは、それ以上何も言わなかった。扉の取っ手に手をかけ、そのまま外へ出る。
 扉が閉まる音を背に、リネアはしばし動かなかった。やがて、小さく息を吐いた。

「……驚いた。勘はいいのね」

 誰に向けたでもない言葉を、ふわりと空気に浮かべる。
 その口元が、ゆっくりと吊り上がった。先ほどまでの柔らかな微笑みではない。冷たくも美しく形の整った、不敵な笑みだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

旦那様の愛が重い

おきょう
恋愛
マリーナの旦那様は愛情表現がはげしい。 毎朝毎晩「愛してる」と耳元でささやき、隣にいれば腰を抱き寄せてくる。 他人は大切にされていて羨ましいと言うけれど、マリーナには怖いばかり。 甘いばかりの言葉も、優しい視線も、どうにも嘘くさいと思ってしまう。 本心の分からない人の心を、一体どうやって信じればいいのだろう。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ロザリーの新婚生活

緑谷めい
恋愛
 主人公はアンペール伯爵家長女ロザリー。17歳。   アンペール伯爵家は領地で自然災害が続き、多額の復興費用を必要としていた。ロザリーはその費用を得る為、財力に富むベルクール伯爵家の跡取り息子セストと結婚する。  このお話は、そんな政略結婚をしたロザリーとセストの新婚生活の物語。

世間知らずな山ごもり薬師は、××な騎士団長の性癖淫愛から逃げ出せない

二位関りをん
恋愛
平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。 ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。 当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。 だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。 ――君の××××、触らせてもらえないだろうか?

あなたの愛が正しいわ

来須みかん
恋愛
旧題:あなたの愛が正しいわ~夫が私の悪口を言っていたので理想の妻になってあげたのに、どうしてそんな顔をするの?~  夫と一緒に訪れた夜会で、夫が男友達に私の悪口を言っているのを聞いてしまった。そのことをきっかけに、私は夫の理想の妻になることを決める。それまで夫を心の底から愛して尽くしていたけど、それがうっとうしかったそうだ。夫に付きまとうのをやめた私は、生まれ変わったように清々しい気分になっていた。  一方、夫は妻の変化に戸惑い、誤解があったことに気がつき、自分の今までの酷い態度を謝ったが、妻は美しい笑みを浮かべてこういった。 「いいえ、間違っていたのは私のほう。あなたの愛が正しいわ」

優しい雨が降る夜は

葉月 まい
恋愛
浮世離れした地味子 × 外資系ITコンサルのエリートイケメン 無自覚にモテる地味子に 余裕もなく翻弄されるイケメン 二人の恋は一筋縄ではいかなくて…… 雨降る夜に心に届いた 優しい恋の物語 ⟡☾·̩͙⋆☔┈┈┈ 登場人物 ┈┈┈ ☔⋆·̩͙☽⟡ 風間 美月(24歳)……コミュニティセンター勤務・地味でお堅い性格 雨宮 優吾(28歳)……外資系ITコンサルティング会社勤務のエリートイケメン

15年目のホンネ ~今も愛していると言えますか?~

深冬 芽以
恋愛
 交際2年、結婚15年の柚葉《ゆずは》と和輝《かずき》。  2人の子供に恵まれて、どこにでもある普通の家族の普通の毎日を過ごしていた。  愚痴は言い切れないほどあるけれど、それなりに幸せ……のはずだった。 「その時計、気に入ってるのね」 「ああ、初ボーナスで買ったから思い出深くて」 『お揃いで』ね?  夫は知らない。  私が知っていることを。  結婚指輪はしないのに、その時計はつけるのね?  私の名前は呼ばないのに、あの女の名前は呼ぶのね?  今も私を好きですか?  後悔していませんか?  私は今もあなたが好きです。  だから、ずっと、後悔しているの……。  妻になり、強くなった。  母になり、逞しくなった。  だけど、傷つかないわけじゃない。

偽装夫婦

詩織
恋愛
付き合って5年になる彼は後輩に横取りされた。 会社も一緒だし行く気がない。 けど、横取りされたからって会社辞めるってアホすぎません?

処理中です...