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13:駆け引き
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「リネア!」
呼び声は無駄に堂々としていた。自信と虚勢が半々でできた声量である。
だが、返ってきたのは慌てふためく気配ではなく、もぐ、と乾いた咀嚼音だった。
振り返ったリネアはベルと肩を並べ、クッキーの皿を前にしていた。頬にまだ欠片を入れたまま、にこやかに言う。
「おかえり、ギデオン。家出はもう終わり?」
「……帰ってこなくても良かったのに」
その横で、ベルが不満そうに眉を寄せる。クッキーをもぐもぐしながら呟くあたり、本気なのか冗談なのか判別が難しい。
「君ら、何してるんだ?」
ふと、素の声が漏れた。帰宅したというのに、場の空気はまるで揺れもしない。その無風ぶりに、自分だけ取り残されているような感覚が声に滲んだ。
「お喋りしてたのよ。ベルが面白い話いっぱいしてくれるの」
リネアはにっこりと笑った。正妻、愛人、夫という三角形が、その笑顔ひとつで平和的に解決されている。
「それで、家出はどうなったの?」
リネアが首を傾げながら、問いかける。
「家出じゃない。僕くらいの男なら、夜の外出は生活の一部だ」
「はいはい、好きに言ってて」
軽くいなされた。爽やかすぎて逆に腹が立つタイプのいなし方である。
「ともかく! リネアと話があるんだ。ベルは席を外してくれ」
声にだけは威厳を乗せる。ベルは軽く唇を尖らせたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……分かったわ。リネア様を困らせないでね」
そう言って、ベルはクッキーの皿をリネア側へ押し戻し、立ち上がる。未練がましく一度だけ振り返ってから、扉の向こうへ消えていった。
その背には、恋する者特有の、帰りたくないけど帰らなきゃいけない雰囲気が漂っていた。
ギデオンは、なぜかほんの少しだけ勝った気分になり、同時に胸の奥がチクリとした。勝利と敗北がひとまとめになったような、非常に扱いにくい感覚だ。
静かになった部屋の中央に、ギデオンとリネアだけが残る。
「大事な話ってなに?」
尋ねるリネアに、ギデオンは胸を張り、ニヤッと笑ってみせた。
「リネア。君に妻としての務めを果たしてもらおう。僕は君を抱く」
言い放たれた言葉は、じつに雄々しかった。
しかし、言い終わるより早く、マントの内側から、ひらりと一枚の紙が落ちた。
リネアは無駄のない動作で紙を拾い上げた。すっと視線を落とし、金額を確認し、そして眉ひとつ動かさずに言った。
「これは?」
ただの質問だった。だが、その優美さのせいで、怒っている気配がないという事実が逆に恐ろしい。途端に萎えそうになる心を叱咤して、ギデオンは唇の端を吊り上げる。
「豪遊費だよ! 僕くらいの男なら、このくらい当然なんだ。健全と言っていい」
「ふぅん……。じゃあ、これは?」
リネアは、マントからもう一枚の領収書を取りだした。
くっきりと印字された「エロス・ルージュ」という店名。その下には「初めての娘から熟れた女まで。お望みのままに抱けます!」と書いてある。言い逃れ不能の下品さだった。
「娼館も健全な豪遊の範囲?」
「い……一環さ!」
「で、大事な話ってこれ?」
リネアは、領収書を揃えてテーブルに置きながら言った。
「違う。これは余興であって……その……本題じゃない!」
「じゃあ、本題は?」
「さっき言っただろ? 君を抱いてやろうって言ってるんだ」
「抱いてやろう、じゃないでしょ。ギデオン」
その一言で、威勢よく組み上げていたギデオンの自信がぐらりと揺れる。
「だ、だき……いや、だから……その……」
「抱かせて、のほうが正しいんじゃない?」
「…………抱かせて、ほしい……?」
言ったあとで気づいた。主導権を握るはずの自分の言葉が、いつの間にか、お願いしているような響きに変わっている。
「抱かれるのは、いいけど」
リネアは何でもないことのように言った。耳が拾ったその一言に、ギデオンは条件反射のように前のめりになる。性欲云々というより、今すぐ屈服させたいと言う気持ちのほうが濃かった。
「よし、じゃあ今すぐ……」
伸ばした手より速く、リネアの指先が軽く制する。
「いいけど、まずは今日の仕事を片付けてからね」
また「仕事」だ。ギデオンの眉間にしわが寄り、口元はへの字に曲がり、目が死んでいく。
「今日の分、丸々空けて遊んでいたでしょう? それと、この豪遊代。あなた、金銭感覚が少しおかしいわ。この数字で、まだ健全だって言えるなら、感覚を直した方がいいと思うの。だから、別の所で働いてきて?」
すとんと落とされたその一言に、ギデオンは耳を疑った。
「……はた、らく?」
「例えば、昼の間だけ誰かの店を手伝うとか。荷物を運んだり、お皿を下げたり。半日働いて、その日のうちにお金をもらうような、そういう稼ぎ方もあるでしょう?」
「なんでそんなこと、僕がしなきゃいけないんだよ!? 僕は領主なんだ。それが皿を下げる側に回るなんて、世の秩序がひっくり返る」
「いいじゃない、たまにはひっくり返してみても。お金の重みを知るのは大事よ」
「君は僕の母親か!?」
「残念だけど、あなたのお母様ほど優しくないわよ?」
リネアの言い回しは柔らかいのに、内容だけは容赦がない。舌打ちしたい衝動を、辛うじて堪える。
「そうね。この領収書の酒場で一日だけ雇ってもらったら?」
「はあ!?」
ギデオンは思わず声を裏返らせた。上客として扱われた翌日に、皿洗いとして立つ。そんな屈辱的な構図は悪夢以外の何物でもない。
「言っておくけどね。この額は僕だけじゃない。君の兄たちが呑んだ分も入っているんだ」
「それなら、ちょうど良いわ。兄様たちにも、一緒に働いて返してもらいましょう」
「嫌だ! 絶対嫌だ!!」
拒絶の仕方は、飾り気の欠片もないほど本気だった。
大の男の駄々ほど見苦しいものもないが、もともと羞恥心の薄い彼には、それすら自覚する気配がない。
「じゃあ、働かないなら……私は抱かれないままね?」
リネアは、たいしたことでもないように告げた。その静けさが妙に胸に刺さり、ギデオンは奥歯を噛み締めた。
抱けないとなれば、自慢の「テクニック」を見せつける機会が消える。
リネアをベッドの上で屈服させ、二度と生意気な口をきけないようにするという完璧なプランが、水の泡になってしまう。
悩んだ末に、彼はどうしようもなく、ろくでもない案に飛びついた。
「……だったら、力づくで抱いてやろうか?」
かなり悪趣味な脅しだったが、本人は本気だ。
しかしリネアは動じない。それどころか、どこか愉しげに瞳を煌めかせて、唇に笑みをのせる。
「やってみる? できるものならね」
「…………」
甘やかな声に、小さく浮かんだ微笑。その美しさが逆に冷たかった。男としての威厳だの、征服欲だのが一気にしぼんでいく。
「やっぱり、やめておく」
言葉は、情けないほど素直に口から出た。
怖いものは怖い。ここで妙な意地を張っても、いいことはひとつもない。ギデオンには、その程度の現実感覚はある。
リネアは、ふっと目元を和らげた。先ほどまで氷だった瞳が、またいつもの柔らかい光を取り戻す。
「決まりね。明日はこの酒場で働かせてもらいましょう。大丈夫、私も一緒にいるから」
「……分かったよ。一日だけだ。明日だけ、だぞ」
最大限しぶしぶといった顔で頷いた。
大きな溜息を吐き出してから、ふと、酒場でのことが、唐突に頭をよぎった。
双子が、酔った勢いで語っていた天使のような妹の話。誰よりも聞き分けがよく、愚痴ひとつこぼさず、家族のために笑ってくれた娘。
「君の兄たちがね」
部屋を出ようとする直前、扉の前で足を止めて、ギデオンは少しだけ声の調子を変えた。
「リネアは天使だって、言っていたよ。いつも笑ってて、文句も言わなくて、とてもいい子だって。……けど」
ギデオンは、短く息を吐き、笑いも皮肉も削ぎ落とした声で言った。
「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」
一瞬、リネアの瞳が見開かれた。だが、それは本当に一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「そう? 兄たちは、私の事、ずっと可愛がってくれてたわ」
「それが、問題なんだよ」
ギデオンは、それ以上何も言わなかった。扉の取っ手に手をかけ、そのまま外へ出る。
扉が閉まる音を背に、リネアはしばし動かなかった。やがて、小さく息を吐いた。
「……驚いた。勘はいいのね」
誰に向けたでもない言葉を、ふわりと空気に浮かべる。
その口元が、ゆっくりと吊り上がった。先ほどまでの柔らかな微笑みではない。冷たくも美しく形の整った、不敵な笑みだった。
呼び声は無駄に堂々としていた。自信と虚勢が半々でできた声量である。
だが、返ってきたのは慌てふためく気配ではなく、もぐ、と乾いた咀嚼音だった。
振り返ったリネアはベルと肩を並べ、クッキーの皿を前にしていた。頬にまだ欠片を入れたまま、にこやかに言う。
「おかえり、ギデオン。家出はもう終わり?」
「……帰ってこなくても良かったのに」
その横で、ベルが不満そうに眉を寄せる。クッキーをもぐもぐしながら呟くあたり、本気なのか冗談なのか判別が難しい。
「君ら、何してるんだ?」
ふと、素の声が漏れた。帰宅したというのに、場の空気はまるで揺れもしない。その無風ぶりに、自分だけ取り残されているような感覚が声に滲んだ。
「お喋りしてたのよ。ベルが面白い話いっぱいしてくれるの」
リネアはにっこりと笑った。正妻、愛人、夫という三角形が、その笑顔ひとつで平和的に解決されている。
「それで、家出はどうなったの?」
リネアが首を傾げながら、問いかける。
「家出じゃない。僕くらいの男なら、夜の外出は生活の一部だ」
「はいはい、好きに言ってて」
軽くいなされた。爽やかすぎて逆に腹が立つタイプのいなし方である。
「ともかく! リネアと話があるんだ。ベルは席を外してくれ」
声にだけは威厳を乗せる。ベルは軽く唇を尖らせたが、すぐに小さく息を吐いた。
「……分かったわ。リネア様を困らせないでね」
そう言って、ベルはクッキーの皿をリネア側へ押し戻し、立ち上がる。未練がましく一度だけ振り返ってから、扉の向こうへ消えていった。
その背には、恋する者特有の、帰りたくないけど帰らなきゃいけない雰囲気が漂っていた。
ギデオンは、なぜかほんの少しだけ勝った気分になり、同時に胸の奥がチクリとした。勝利と敗北がひとまとめになったような、非常に扱いにくい感覚だ。
静かになった部屋の中央に、ギデオンとリネアだけが残る。
「大事な話ってなに?」
尋ねるリネアに、ギデオンは胸を張り、ニヤッと笑ってみせた。
「リネア。君に妻としての務めを果たしてもらおう。僕は君を抱く」
言い放たれた言葉は、じつに雄々しかった。
しかし、言い終わるより早く、マントの内側から、ひらりと一枚の紙が落ちた。
リネアは無駄のない動作で紙を拾い上げた。すっと視線を落とし、金額を確認し、そして眉ひとつ動かさずに言った。
「これは?」
ただの質問だった。だが、その優美さのせいで、怒っている気配がないという事実が逆に恐ろしい。途端に萎えそうになる心を叱咤して、ギデオンは唇の端を吊り上げる。
「豪遊費だよ! 僕くらいの男なら、このくらい当然なんだ。健全と言っていい」
「ふぅん……。じゃあ、これは?」
リネアは、マントからもう一枚の領収書を取りだした。
くっきりと印字された「エロス・ルージュ」という店名。その下には「初めての娘から熟れた女まで。お望みのままに抱けます!」と書いてある。言い逃れ不能の下品さだった。
「娼館も健全な豪遊の範囲?」
「い……一環さ!」
「で、大事な話ってこれ?」
リネアは、領収書を揃えてテーブルに置きながら言った。
「違う。これは余興であって……その……本題じゃない!」
「じゃあ、本題は?」
「さっき言っただろ? 君を抱いてやろうって言ってるんだ」
「抱いてやろう、じゃないでしょ。ギデオン」
その一言で、威勢よく組み上げていたギデオンの自信がぐらりと揺れる。
「だ、だき……いや、だから……その……」
「抱かせて、のほうが正しいんじゃない?」
「…………抱かせて、ほしい……?」
言ったあとで気づいた。主導権を握るはずの自分の言葉が、いつの間にか、お願いしているような響きに変わっている。
「抱かれるのは、いいけど」
リネアは何でもないことのように言った。耳が拾ったその一言に、ギデオンは条件反射のように前のめりになる。性欲云々というより、今すぐ屈服させたいと言う気持ちのほうが濃かった。
「よし、じゃあ今すぐ……」
伸ばした手より速く、リネアの指先が軽く制する。
「いいけど、まずは今日の仕事を片付けてからね」
また「仕事」だ。ギデオンの眉間にしわが寄り、口元はへの字に曲がり、目が死んでいく。
「今日の分、丸々空けて遊んでいたでしょう? それと、この豪遊代。あなた、金銭感覚が少しおかしいわ。この数字で、まだ健全だって言えるなら、感覚を直した方がいいと思うの。だから、別の所で働いてきて?」
すとんと落とされたその一言に、ギデオンは耳を疑った。
「……はた、らく?」
「例えば、昼の間だけ誰かの店を手伝うとか。荷物を運んだり、お皿を下げたり。半日働いて、その日のうちにお金をもらうような、そういう稼ぎ方もあるでしょう?」
「なんでそんなこと、僕がしなきゃいけないんだよ!? 僕は領主なんだ。それが皿を下げる側に回るなんて、世の秩序がひっくり返る」
「いいじゃない、たまにはひっくり返してみても。お金の重みを知るのは大事よ」
「君は僕の母親か!?」
「残念だけど、あなたのお母様ほど優しくないわよ?」
リネアの言い回しは柔らかいのに、内容だけは容赦がない。舌打ちしたい衝動を、辛うじて堪える。
「そうね。この領収書の酒場で一日だけ雇ってもらったら?」
「はあ!?」
ギデオンは思わず声を裏返らせた。上客として扱われた翌日に、皿洗いとして立つ。そんな屈辱的な構図は悪夢以外の何物でもない。
「言っておくけどね。この額は僕だけじゃない。君の兄たちが呑んだ分も入っているんだ」
「それなら、ちょうど良いわ。兄様たちにも、一緒に働いて返してもらいましょう」
「嫌だ! 絶対嫌だ!!」
拒絶の仕方は、飾り気の欠片もないほど本気だった。
大の男の駄々ほど見苦しいものもないが、もともと羞恥心の薄い彼には、それすら自覚する気配がない。
「じゃあ、働かないなら……私は抱かれないままね?」
リネアは、たいしたことでもないように告げた。その静けさが妙に胸に刺さり、ギデオンは奥歯を噛み締めた。
抱けないとなれば、自慢の「テクニック」を見せつける機会が消える。
リネアをベッドの上で屈服させ、二度と生意気な口をきけないようにするという完璧なプランが、水の泡になってしまう。
悩んだ末に、彼はどうしようもなく、ろくでもない案に飛びついた。
「……だったら、力づくで抱いてやろうか?」
かなり悪趣味な脅しだったが、本人は本気だ。
しかしリネアは動じない。それどころか、どこか愉しげに瞳を煌めかせて、唇に笑みをのせる。
「やってみる? できるものならね」
「…………」
甘やかな声に、小さく浮かんだ微笑。その美しさが逆に冷たかった。男としての威厳だの、征服欲だのが一気にしぼんでいく。
「やっぱり、やめておく」
言葉は、情けないほど素直に口から出た。
怖いものは怖い。ここで妙な意地を張っても、いいことはひとつもない。ギデオンには、その程度の現実感覚はある。
リネアは、ふっと目元を和らげた。先ほどまで氷だった瞳が、またいつもの柔らかい光を取り戻す。
「決まりね。明日はこの酒場で働かせてもらいましょう。大丈夫、私も一緒にいるから」
「……分かったよ。一日だけだ。明日だけ、だぞ」
最大限しぶしぶといった顔で頷いた。
大きな溜息を吐き出してから、ふと、酒場でのことが、唐突に頭をよぎった。
双子が、酔った勢いで語っていた天使のような妹の話。誰よりも聞き分けがよく、愚痴ひとつこぼさず、家族のために笑ってくれた娘。
「君の兄たちがね」
部屋を出ようとする直前、扉の前で足を止めて、ギデオンは少しだけ声の調子を変えた。
「リネアは天使だって、言っていたよ。いつも笑ってて、文句も言わなくて、とてもいい子だって。……けど」
ギデオンは、短く息を吐き、笑いも皮肉も削ぎ落とした声で言った。
「君の兄たちは、リネアの本当の顔を知らないだけだ」
一瞬、リネアの瞳が見開かれた。だが、それは本当に一瞬で、すぐにいつもの穏やかな表情に戻る。
「そう? 兄たちは、私の事、ずっと可愛がってくれてたわ」
「それが、問題なんだよ」
ギデオンは、それ以上何も言わなかった。扉の取っ手に手をかけ、そのまま外へ出る。
扉が閉まる音を背に、リネアはしばし動かなかった。やがて、小さく息を吐いた。
「……驚いた。勘はいいのね」
誰に向けたでもない言葉を、ふわりと空気に浮かべる。
その口元が、ゆっくりと吊り上がった。先ほどまでの柔らかな微笑みではない。冷たくも美しく形の整った、不敵な笑みだった。
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