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14:忙しい一日
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翌日、ギデオンは酒場の扉の前で立ち尽くしていた。昨日あれほど尊厳をもって飲み散らかした男が、下働きに来るという矛盾は、受け止めるにはひどく重かった。
「……やっぱり帰ろうかな」
誰にも聞こえない声でぽつりと呟く。その途端、内側から鍵の外れる音がした。
逃げ道というものは、決意が揺らいだ時に限って律義に塞がる。観念して扉を押し開けると、マスターが立っていた。
「おや。ギデオン様じゃないか」
マスターのギデオンを見る目は、昨日とはまるで違っていた。昨夜は金を落とす上客として丁重に扱われていたのに、今日はきっちり働かせる下働きとして値踏みされている。
「……来てやったぞ」
精一杯偉そうに言う。言ったところで立場が好転するわけでもないのだが、虚勢を張らずにはいられなかった。
マスターは、面白いものを見つけたというように、妙に楽しげな笑みをギデオンに向ける。
「そりゃどうも。昨日の豪遊代が、日当でどこまで埋まるか試してみようじゃないか」
「僕くらいの男なら、一日で取り返せるさ」
「そりゃ大した男だ。じゃあ一日で十人分は働いてもらおう」
会話のどこかに罠があった気がするが、もう遅い。ギデオンがじと目で睨み返していると、背後から柔らかい声が降ってきた。
「ギデオン、遅かったわね」
リネアだった。白いブラウスに、膝丈のスカート。そして腰には小さなエプロン。髪はいつもより高い位置でまとめられている。
誰が見ても似合っているし、少しもおかしいところはない。むしろ可愛いと言っていい。しかしギデオンの主観だけは、頑なにそれを認めなかった。
「何その格好」
「店員の格好よ。見て分からない?」
「なるほど。そういう庶民の制服、君には妙に似合うね」
「ギデオンも着替えるの」
皮肉としてはこれ以上ない角度で放ったつもりだったが、リネアは何も刺さっていない顔で、ギデオン用の制服を突きつけてきた。
ギデオンがその布切れを睨みつけていると、店の扉が、勢いよく開いた。差し込む光の中、二つ分の影が飛び込んでくる。
「リネアーー!」
セシルとルシルだった。双子の兄たちは、妹を見るなり一直線に突進し、そのまま左右から抱きついた。
「会えなくて寂しかった」
「元気だったか?」
「久しぶりね、二人とも」
ギデオンはその光景を横目でとらえ、眉をひそめた。
成人した男ふたりが、妹に頬をくっつけて甘えている様子など、どう贔屓目に見ても健全な兄妹愛とは言いがたい。
これを「仲が良い」で済ませるのは、さすがに無理があると、普段は常識の欠片も見せないギデオンが、珍しくまともな判断を下した。
リネアがようやく解放された所で、マスターは双子の肩をポンっと叩いた。
「今日は頼もしい助っ人が来てくれて助かるよ。厨房は双子に任せるとして、リネア嬢は接客。んで、ギデオンは雑用全部だ」
「雑用全部とは何だ。もう少し尊重のある言い方しろよ」
「そうか、じゃあ店内オールラウンダーで」
言い換えただけで、中身はひとつも変わっていない。むしろ仕事量が増えたように聞こえるから不思議だ。
ギデオンが口を開きかけたところで、リネアがさっと背後に回った。エプロンの紐を取り、彼の腰の後ろで手早く結び目を作る。
「ほら、動かないで」
「余計な事するなって。自分ででき……」
抗議の声は、きゅっと紐が締まる音で遮られた。
「はい。これで、逃げられないわね」
声こそ優しいが、その言葉は出口に鍵をかけるような響きを帯びていた。ギデオンは喉の奥で低くうめき、マスターと双子はそれを見て声を殺して笑った。
その後は店全体が開店準備に追われ、落ち着く暇もなかった。
セシルとルシルは、厨房で野菜を刻み、肉を捌き、鍋を火にかける。その手つきは驚くほど慣れていて、包丁とまな板の音が心地よいリズムを刻む。
ギデオンはというと、布巾を片手にひたすらテーブルを拭いていた。
領主であるという肩書きも、資産家だという事実も、この店では一切効力を持たず、ただの下働きとして扱われている。
「ギデオン、その角、まだ残っているわ」
リネアの声が飛ぶ。指先で示された先には、よく見なければ分からないほど僅かな水跡が光っていた。
「こんなもの、誰も気にしないだろう」
「私が気になるの」
「君の神経質さに合わせていたら、日が暮れるぞ」
「日が暮れるまで働いてもらうんだから、都合がいいわね」
会話の流れは常にリネアに有利で、ギデオンは薄めのため息を重ねることしかできない。
やがて、外の光がゆっくりと赤みを帯びはじめ、窓の外に人影がちらほらと見え始めた。
開店の時間だった。
最初は常連客が、次に仕事帰りの男たちが、さらにその後には妙に身なりの良い連中がぽつぽつと入ってくる。
椅子が引かれる音、笑い声、グラスのぶつかる音、油の跳ねる音、パンをちぎる音。全てが酒場らしい喧騒を作り上げていく。
「いらっしゃいませ。今夜は羊肉の煮込みと、相性の良いワインも取り揃えております」
リネアの声は、騒がしさの中でも程よく通った。
盆を片手に客席をすいすいと巡り、皿を置き、注文を取り、空いた器を回収し、さらりと会話を添える。その動きには無駄がなく、笑顔も程よい。
一方ギデオンは、メニューを抱えたまま、足を止めていた。
(……行きたくない)
心情としてはごくシンプルで、実に正直なものだった。ふと、リネアと目が合った。
エプロン姿の妻は、遠くのテーブルから微笑みを崩さず、しかし目だけで「早く行きなさい」と告げてくる。
マスターも、カウンター越しにちらりと鋭い目を向けた。ギデオンは重い足を引きずって、近くのテーブルへ向かう。
「はいはい、ご注文ね。……どうぞ」
「エール三つと、煮込みを二皿」
「パンも追加で頼む」
「はいはい」
ぞんざいな返事でメモを取り、ひらひらと手を振りながら裏手へ引っ込む。
ほどなくして、別の扉からリネアが入ってきた。
生ハムの塊と長いナイフを手にしている。まな板の前に立ち、滑らかに刃を走らせはじめた。薄く均一な切り口が並び、見惚れるほどの手つきだ。
「ギデオン。真面目にやって」
生ハムを押さえたまま、リネアが言う。ギデオンは大袈裟に溜息をついてみせた。
「真面目にやっているさ」
「はいはいって返事は、やめましょうね。お客様相手でしょう?」
「え? だってあの人たちさ、どう見ても安い客だったじゃないか。ああいうのに丁寧に応対したって、落とす金なんてたかが知れている。そんな連中に愛想ふりまくなんて、時間の無駄じゃ……」
「ギデオン」
リネアがくるりと振り返った。
その手に握られたナイフの切っ先が、偶然にしては妙に正確にギデオンの喉元にくる。
狙っているのか、そうでないのか判断がつかない。つかないが、判断できないこと自体が恐ろしい。ギデオンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
完璧な敬語が勝手に口をついて出た。
理性より先に、恐怖が口を動かした結果だった。リネアは何事もなかったように、にっこり笑って、また滑らかにナイフを動かしはじめた。
「……やっぱり帰ろうかな」
誰にも聞こえない声でぽつりと呟く。その途端、内側から鍵の外れる音がした。
逃げ道というものは、決意が揺らいだ時に限って律義に塞がる。観念して扉を押し開けると、マスターが立っていた。
「おや。ギデオン様じゃないか」
マスターのギデオンを見る目は、昨日とはまるで違っていた。昨夜は金を落とす上客として丁重に扱われていたのに、今日はきっちり働かせる下働きとして値踏みされている。
「……来てやったぞ」
精一杯偉そうに言う。言ったところで立場が好転するわけでもないのだが、虚勢を張らずにはいられなかった。
マスターは、面白いものを見つけたというように、妙に楽しげな笑みをギデオンに向ける。
「そりゃどうも。昨日の豪遊代が、日当でどこまで埋まるか試してみようじゃないか」
「僕くらいの男なら、一日で取り返せるさ」
「そりゃ大した男だ。じゃあ一日で十人分は働いてもらおう」
会話のどこかに罠があった気がするが、もう遅い。ギデオンがじと目で睨み返していると、背後から柔らかい声が降ってきた。
「ギデオン、遅かったわね」
リネアだった。白いブラウスに、膝丈のスカート。そして腰には小さなエプロン。髪はいつもより高い位置でまとめられている。
誰が見ても似合っているし、少しもおかしいところはない。むしろ可愛いと言っていい。しかしギデオンの主観だけは、頑なにそれを認めなかった。
「何その格好」
「店員の格好よ。見て分からない?」
「なるほど。そういう庶民の制服、君には妙に似合うね」
「ギデオンも着替えるの」
皮肉としてはこれ以上ない角度で放ったつもりだったが、リネアは何も刺さっていない顔で、ギデオン用の制服を突きつけてきた。
ギデオンがその布切れを睨みつけていると、店の扉が、勢いよく開いた。差し込む光の中、二つ分の影が飛び込んでくる。
「リネアーー!」
セシルとルシルだった。双子の兄たちは、妹を見るなり一直線に突進し、そのまま左右から抱きついた。
「会えなくて寂しかった」
「元気だったか?」
「久しぶりね、二人とも」
ギデオンはその光景を横目でとらえ、眉をひそめた。
成人した男ふたりが、妹に頬をくっつけて甘えている様子など、どう贔屓目に見ても健全な兄妹愛とは言いがたい。
これを「仲が良い」で済ませるのは、さすがに無理があると、普段は常識の欠片も見せないギデオンが、珍しくまともな判断を下した。
リネアがようやく解放された所で、マスターは双子の肩をポンっと叩いた。
「今日は頼もしい助っ人が来てくれて助かるよ。厨房は双子に任せるとして、リネア嬢は接客。んで、ギデオンは雑用全部だ」
「雑用全部とは何だ。もう少し尊重のある言い方しろよ」
「そうか、じゃあ店内オールラウンダーで」
言い換えただけで、中身はひとつも変わっていない。むしろ仕事量が増えたように聞こえるから不思議だ。
ギデオンが口を開きかけたところで、リネアがさっと背後に回った。エプロンの紐を取り、彼の腰の後ろで手早く結び目を作る。
「ほら、動かないで」
「余計な事するなって。自分ででき……」
抗議の声は、きゅっと紐が締まる音で遮られた。
「はい。これで、逃げられないわね」
声こそ優しいが、その言葉は出口に鍵をかけるような響きを帯びていた。ギデオンは喉の奥で低くうめき、マスターと双子はそれを見て声を殺して笑った。
その後は店全体が開店準備に追われ、落ち着く暇もなかった。
セシルとルシルは、厨房で野菜を刻み、肉を捌き、鍋を火にかける。その手つきは驚くほど慣れていて、包丁とまな板の音が心地よいリズムを刻む。
ギデオンはというと、布巾を片手にひたすらテーブルを拭いていた。
領主であるという肩書きも、資産家だという事実も、この店では一切効力を持たず、ただの下働きとして扱われている。
「ギデオン、その角、まだ残っているわ」
リネアの声が飛ぶ。指先で示された先には、よく見なければ分からないほど僅かな水跡が光っていた。
「こんなもの、誰も気にしないだろう」
「私が気になるの」
「君の神経質さに合わせていたら、日が暮れるぞ」
「日が暮れるまで働いてもらうんだから、都合がいいわね」
会話の流れは常にリネアに有利で、ギデオンは薄めのため息を重ねることしかできない。
やがて、外の光がゆっくりと赤みを帯びはじめ、窓の外に人影がちらほらと見え始めた。
開店の時間だった。
最初は常連客が、次に仕事帰りの男たちが、さらにその後には妙に身なりの良い連中がぽつぽつと入ってくる。
椅子が引かれる音、笑い声、グラスのぶつかる音、油の跳ねる音、パンをちぎる音。全てが酒場らしい喧騒を作り上げていく。
「いらっしゃいませ。今夜は羊肉の煮込みと、相性の良いワインも取り揃えております」
リネアの声は、騒がしさの中でも程よく通った。
盆を片手に客席をすいすいと巡り、皿を置き、注文を取り、空いた器を回収し、さらりと会話を添える。その動きには無駄がなく、笑顔も程よい。
一方ギデオンは、メニューを抱えたまま、足を止めていた。
(……行きたくない)
心情としてはごくシンプルで、実に正直なものだった。ふと、リネアと目が合った。
エプロン姿の妻は、遠くのテーブルから微笑みを崩さず、しかし目だけで「早く行きなさい」と告げてくる。
マスターも、カウンター越しにちらりと鋭い目を向けた。ギデオンは重い足を引きずって、近くのテーブルへ向かう。
「はいはい、ご注文ね。……どうぞ」
「エール三つと、煮込みを二皿」
「パンも追加で頼む」
「はいはい」
ぞんざいな返事でメモを取り、ひらひらと手を振りながら裏手へ引っ込む。
ほどなくして、別の扉からリネアが入ってきた。
生ハムの塊と長いナイフを手にしている。まな板の前に立ち、滑らかに刃を走らせはじめた。薄く均一な切り口が並び、見惚れるほどの手つきだ。
「ギデオン。真面目にやって」
生ハムを押さえたまま、リネアが言う。ギデオンは大袈裟に溜息をついてみせた。
「真面目にやっているさ」
「はいはいって返事は、やめましょうね。お客様相手でしょう?」
「え? だってあの人たちさ、どう見ても安い客だったじゃないか。ああいうのに丁寧に応対したって、落とす金なんてたかが知れている。そんな連中に愛想ふりまくなんて、時間の無駄じゃ……」
「ギデオン」
リネアがくるりと振り返った。
その手に握られたナイフの切っ先が、偶然にしては妙に正確にギデオンの喉元にくる。
狙っているのか、そうでないのか判断がつかない。つかないが、判断できないこと自体が恐ろしい。ギデオンは、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……承知いたしました。少々お待ちくださいませ」
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