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22:恋を知らない者同士
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翌朝の食堂には、きちんと整えられた朝食が並んでいた。
ギデオンはパンを千切りながら、表情だけはいつも通りの尊大さを崩さないよう努めている。だが中身は、多少違った。
(愛情を注いで、恋人のように振る舞えばいいのか)
娼婦の助言は、今もなお頭の隅で燻っていた。問題は、その愛情とやらを、どうやって実践に落とし込むかである。
(まあいい。僕ほどの男なら、やろうと思えば何だってできる)
自分にそう言い聞かせ、隣に腰かけるリネアを、横目でちらりとを見る。
「昨晩、僕は娼館に行った」
まずは様子を見るつもりで、軽く揺さぶってみる。
あくまで何気ないふうを装っていたが、その顔には、「言ってやった」と言わんばかりの小さな得意が、しっかり居座っていた。
だがリネアは表情一つかえない。まるでジャムが甘かった程度の情報を聞かされたように、頷いた。
「知ってるわ」
「……え?」
「帰ってきた時、香が残っていたもの。……それよりギデオン、昨日は仕事きちんと片付けたのね。いい子」
不意に伸びてきた手に、よしよしと頭を撫でられた。咄嗟に払いのけようとしたが遅かった。脳が褒められたと認識してしまったらしく、なぜか悪い気がしない。だが気のせいだ。気のせいでなければ問題だ。
「ち、違う。そういう話をしたいんじゃない。……妻として、何か言うことはないのか?」
「何かって?」
「ほら、前にも言ったけど、嫉妬とか、怒りとか……。女がよく見せる感情の一種!」
「うーん、別にないわ」
あっさりと言われて、ギデオンは、パンを千切る指先に強めに力を込めた。
分かっていた。どうせそう言うだろうと、どこかで予想していた。それでも、やっぱり何も思われていないのかと思うと、なぜか妙に腹が立ってくる。
ギデオンは苛立ちを飲み込んで、娼婦の助言を思い出せと自分に言い聞かせる。
自分には、なかなかに手の込んだ計画があるのだ。
優しさと甘さでリネアに首輪をかけ、気づいた頃には彼女の方が離れられなくなるという、ほとんど復讐めいた愛の策略だ。……であれば、まずは敵を知らなければならない。
(……仕方ない。まずは情報収集だ)
ギデオンは苛立ちを飲み込んで、新しい役割を自分に課す。愛情を注ぐための事前調査と考えれば、多少は耐えられる。
「……なあ、リネア。君の趣味は何だい? ……ああ、犬の調教は知っている。あれは趣味と言えるのかは微妙だけど……」
「急にどうしたの? なんだか、お見合いの席みたいね」
「妻の趣味くらいは知っておかないとと思ってね」
「……野鳥の鳴きまね」
「…………」
唐突に告げられた言葉に、脳が理解を阻んでいた。「……は?」と問い返すギデオンに、リネアは涼しい顔を崩さず、再度「野鳥の鳴きまね」と告げる。
「何、その趣味」
「けっこう楽しいのよ。達成感があるわ」
「……あのさ。達成感って、何に対して……?」
「自分の耳と、肺活量」
「…………」
恋人のように甘やかし、贈り物をし、夢を見せるという計画に、「野鳥の鳴きまね」は不要だ。
どこにどう組み込めというのかと、ギデオンは本気で悩む。自分の立てた戦略が、開始早々、想定外の情報によってぐらついている。
「……で、なんで私の趣味を聞いたの?」
リネアはフォークを静かに置き、改めてギデオンを見る。まるで嘘をついた子どもに、「本当にそれだけ?」と問い返す母親のような目だった。
「昨夜は娼館に行きました、今朝は趣味を聞きます。……随分と落差のある夫ね」
「落差とは失礼だな」
「事実でしょう? 何かきっかけがあったのかしら」
ギデオンは言葉に詰まった。
娼婦に恋だと言われて逆上した挙げ句、妻を屈服させるために愛情作戦を思いついたなどと素直に話せるはずもない。
「……別に、大した理由じゃない。ただ、そうした方が、夫婦円満のためになるかなと思って」
「ギデオンは円満なんて望んでいるの?」
リネアは唐突に問いかけてきた。質問の意図が分からずに、ギデオンは思わず眉をひそめる。
「それは、望むだろう。夫婦なんだから」
口から出た言葉が、どうにも凡庸で、自分らしくない。反射的な言い訳のようでもあり、説得力も威厳もどこかへ落としてきた風だった。
リネアは特に驚いた様子もなく、「ふうん」と呟いてから、続ける。
「でも、円満でなくても困ることってないと思うわよ。別に普通に暮らせていれば」
「だけど、そのほうが……いいに決まってるじゃないか」
普通とは何か、という定義に立ち戻って議論したくなる気持ちをぐっと抑えながら言葉を返すと、リネアは小さく肩を竦めた。
「それはそうね。でも、私はどっちでもいいの」
無造作な言いぶりだったが、ギデオンの耳にはなぜか妙に引っかかった。
「どっちでもいい」と言える関係性は、親密さの表れなのか、それとも無関心の延長なのか判断がつかない。できれば前者であってほしいが、リネアは、そういう期待を裏切るのが得意な女だ。
「ギデオン、私に娼館に行っても何も思わなかったのかって聞いたでしょ? ベルと抱き合っていたときもそう」
「あ? ああ……」
「期待されている所、悪いのだけど、本当に何も思わないのよ。だって、あなたに恋してるわけじゃないから。そういう関係で、夫婦円満とか、あまり意味がないでしょう?」
あっさりと言われて、心拍がすっと落ちた。
まるで、自分という存在が、相手の感情を揺らす材料にすらなっていないと宣告されたようだった。
ギデオンは思わず、過去の場面を反芻する。
貴族の令嬢から、台所の娘に至るまで、彼が視線を向ければ、何かしらの反応があった。甘ったるい笑み。わざとらしく落ちる沈黙。喉を押さえて咳ばらいをする芝居がかった仕草。それらはすべて、恋の兆しとして処理されるものだった。
だが、リネアだけは違う。
なぜだ、という思いと、どこかで矢張りそうか、という感覚が同時に浮かぶ。恋していないのだとすれば、彼女の一貫した無反応にも、妙に筋が通ってしまうのだ。
それが理屈として理解できてしまうこと自体が、彼にとっては不本意だった。
苦虫を十匹くらい纏めて嚙み潰したような顔で黙り込むギデオンに、リネアは唐突に、ふわりとした微笑みを見せた。
「でもね。ギデオンに恋していないけど、愛してはいるの」
「……ちょっと待って。恋と、愛と何が違うんだ?」
ふと口にした言葉が、妙に深遠な問いになってしまったことに気づく。自分の言葉の重みに、思わず押し黙るギデオンに対して、リネアは告げる。
「私は恋をしたことがないの。胸が痛くなるとか、相手を求めすぎて苦しくなるとか、そういうのは分からない。でも、愛は知ってる。たとえば、キャンディ。あの子が病気になったとき、もし命が要ると言われたら、私は迷わず差し出すわ。傷つくのが怖いとか、失うのが怖いとか、そういう気持ちを飛び越えて、ただ、あの子を守りたいって思う」
自信たっぷりに語られるその愛の対象が、まさか犬とは。いや、犬を愛するなとは言わない。むしろ尊い。だが、それを例に出されて比較された人間側の立場はどうすれば良いのかと、ギデオンは内心頭を抱える。
「ギデオンは? あなたは誰かに、恋をしたことがある?」
不意に問いかけられて、言葉を探した。何か言おうと口を開こうとして、しかし何も出てこなかった。
恋をしたことがあるかと問われて、考えれば考えるほど、浮かぶ顔は自分自身しかない。
自信に満ちた笑顔、鏡に映る美しい横顔、他者の称賛を集める時の姿勢。そのすべてが、自分に向かっていた。だが、これは恋じゃない。ただの自己評価だ。
(だとしたら、僕は今まで、誰にも恋をしたことがない?)
答えを見失って沈黙するギデオンに、リネアは少しだけ口角を上げた。それは嘲笑ではなく、どこか遠いところにある共犯関係への微笑みに見えた。
「似た者夫婦ね、私たち」
そう言って、カップを持ち上げるリネアの横顔は、妙に満足げだった。
ギデオンは視線を落とし、空になったパン皿を見つめた。
リネアを甘やかして、夢を見せて、支配するつもりだったのに、話は思わぬ方向に行ってしまった。けれど、今は彼女の内面を垣間見れただけでも良しとしようと思った。
ギデオンはパンを千切りながら、表情だけはいつも通りの尊大さを崩さないよう努めている。だが中身は、多少違った。
(愛情を注いで、恋人のように振る舞えばいいのか)
娼婦の助言は、今もなお頭の隅で燻っていた。問題は、その愛情とやらを、どうやって実践に落とし込むかである。
(まあいい。僕ほどの男なら、やろうと思えば何だってできる)
自分にそう言い聞かせ、隣に腰かけるリネアを、横目でちらりとを見る。
「昨晩、僕は娼館に行った」
まずは様子を見るつもりで、軽く揺さぶってみる。
あくまで何気ないふうを装っていたが、その顔には、「言ってやった」と言わんばかりの小さな得意が、しっかり居座っていた。
だがリネアは表情一つかえない。まるでジャムが甘かった程度の情報を聞かされたように、頷いた。
「知ってるわ」
「……え?」
「帰ってきた時、香が残っていたもの。……それよりギデオン、昨日は仕事きちんと片付けたのね。いい子」
不意に伸びてきた手に、よしよしと頭を撫でられた。咄嗟に払いのけようとしたが遅かった。脳が褒められたと認識してしまったらしく、なぜか悪い気がしない。だが気のせいだ。気のせいでなければ問題だ。
「ち、違う。そういう話をしたいんじゃない。……妻として、何か言うことはないのか?」
「何かって?」
「ほら、前にも言ったけど、嫉妬とか、怒りとか……。女がよく見せる感情の一種!」
「うーん、別にないわ」
あっさりと言われて、ギデオンは、パンを千切る指先に強めに力を込めた。
分かっていた。どうせそう言うだろうと、どこかで予想していた。それでも、やっぱり何も思われていないのかと思うと、なぜか妙に腹が立ってくる。
ギデオンは苛立ちを飲み込んで、娼婦の助言を思い出せと自分に言い聞かせる。
自分には、なかなかに手の込んだ計画があるのだ。
優しさと甘さでリネアに首輪をかけ、気づいた頃には彼女の方が離れられなくなるという、ほとんど復讐めいた愛の策略だ。……であれば、まずは敵を知らなければならない。
(……仕方ない。まずは情報収集だ)
ギデオンは苛立ちを飲み込んで、新しい役割を自分に課す。愛情を注ぐための事前調査と考えれば、多少は耐えられる。
「……なあ、リネア。君の趣味は何だい? ……ああ、犬の調教は知っている。あれは趣味と言えるのかは微妙だけど……」
「急にどうしたの? なんだか、お見合いの席みたいね」
「妻の趣味くらいは知っておかないとと思ってね」
「……野鳥の鳴きまね」
「…………」
唐突に告げられた言葉に、脳が理解を阻んでいた。「……は?」と問い返すギデオンに、リネアは涼しい顔を崩さず、再度「野鳥の鳴きまね」と告げる。
「何、その趣味」
「けっこう楽しいのよ。達成感があるわ」
「……あのさ。達成感って、何に対して……?」
「自分の耳と、肺活量」
「…………」
恋人のように甘やかし、贈り物をし、夢を見せるという計画に、「野鳥の鳴きまね」は不要だ。
どこにどう組み込めというのかと、ギデオンは本気で悩む。自分の立てた戦略が、開始早々、想定外の情報によってぐらついている。
「……で、なんで私の趣味を聞いたの?」
リネアはフォークを静かに置き、改めてギデオンを見る。まるで嘘をついた子どもに、「本当にそれだけ?」と問い返す母親のような目だった。
「昨夜は娼館に行きました、今朝は趣味を聞きます。……随分と落差のある夫ね」
「落差とは失礼だな」
「事実でしょう? 何かきっかけがあったのかしら」
ギデオンは言葉に詰まった。
娼婦に恋だと言われて逆上した挙げ句、妻を屈服させるために愛情作戦を思いついたなどと素直に話せるはずもない。
「……別に、大した理由じゃない。ただ、そうした方が、夫婦円満のためになるかなと思って」
「ギデオンは円満なんて望んでいるの?」
リネアは唐突に問いかけてきた。質問の意図が分からずに、ギデオンは思わず眉をひそめる。
「それは、望むだろう。夫婦なんだから」
口から出た言葉が、どうにも凡庸で、自分らしくない。反射的な言い訳のようでもあり、説得力も威厳もどこかへ落としてきた風だった。
リネアは特に驚いた様子もなく、「ふうん」と呟いてから、続ける。
「でも、円満でなくても困ることってないと思うわよ。別に普通に暮らせていれば」
「だけど、そのほうが……いいに決まってるじゃないか」
普通とは何か、という定義に立ち戻って議論したくなる気持ちをぐっと抑えながら言葉を返すと、リネアは小さく肩を竦めた。
「それはそうね。でも、私はどっちでもいいの」
無造作な言いぶりだったが、ギデオンの耳にはなぜか妙に引っかかった。
「どっちでもいい」と言える関係性は、親密さの表れなのか、それとも無関心の延長なのか判断がつかない。できれば前者であってほしいが、リネアは、そういう期待を裏切るのが得意な女だ。
「ギデオン、私に娼館に行っても何も思わなかったのかって聞いたでしょ? ベルと抱き合っていたときもそう」
「あ? ああ……」
「期待されている所、悪いのだけど、本当に何も思わないのよ。だって、あなたに恋してるわけじゃないから。そういう関係で、夫婦円満とか、あまり意味がないでしょう?」
あっさりと言われて、心拍がすっと落ちた。
まるで、自分という存在が、相手の感情を揺らす材料にすらなっていないと宣告されたようだった。
ギデオンは思わず、過去の場面を反芻する。
貴族の令嬢から、台所の娘に至るまで、彼が視線を向ければ、何かしらの反応があった。甘ったるい笑み。わざとらしく落ちる沈黙。喉を押さえて咳ばらいをする芝居がかった仕草。それらはすべて、恋の兆しとして処理されるものだった。
だが、リネアだけは違う。
なぜだ、という思いと、どこかで矢張りそうか、という感覚が同時に浮かぶ。恋していないのだとすれば、彼女の一貫した無反応にも、妙に筋が通ってしまうのだ。
それが理屈として理解できてしまうこと自体が、彼にとっては不本意だった。
苦虫を十匹くらい纏めて嚙み潰したような顔で黙り込むギデオンに、リネアは唐突に、ふわりとした微笑みを見せた。
「でもね。ギデオンに恋していないけど、愛してはいるの」
「……ちょっと待って。恋と、愛と何が違うんだ?」
ふと口にした言葉が、妙に深遠な問いになってしまったことに気づく。自分の言葉の重みに、思わず押し黙るギデオンに対して、リネアは告げる。
「私は恋をしたことがないの。胸が痛くなるとか、相手を求めすぎて苦しくなるとか、そういうのは分からない。でも、愛は知ってる。たとえば、キャンディ。あの子が病気になったとき、もし命が要ると言われたら、私は迷わず差し出すわ。傷つくのが怖いとか、失うのが怖いとか、そういう気持ちを飛び越えて、ただ、あの子を守りたいって思う」
自信たっぷりに語られるその愛の対象が、まさか犬とは。いや、犬を愛するなとは言わない。むしろ尊い。だが、それを例に出されて比較された人間側の立場はどうすれば良いのかと、ギデオンは内心頭を抱える。
「ギデオンは? あなたは誰かに、恋をしたことがある?」
不意に問いかけられて、言葉を探した。何か言おうと口を開こうとして、しかし何も出てこなかった。
恋をしたことがあるかと問われて、考えれば考えるほど、浮かぶ顔は自分自身しかない。
自信に満ちた笑顔、鏡に映る美しい横顔、他者の称賛を集める時の姿勢。そのすべてが、自分に向かっていた。だが、これは恋じゃない。ただの自己評価だ。
(だとしたら、僕は今まで、誰にも恋をしたことがない?)
答えを見失って沈黙するギデオンに、リネアは少しだけ口角を上げた。それは嘲笑ではなく、どこか遠いところにある共犯関係への微笑みに見えた。
「似た者夫婦ね、私たち」
そう言って、カップを持ち上げるリネアの横顔は、妙に満足げだった。
ギデオンは視線を落とし、空になったパン皿を見つめた。
リネアを甘やかして、夢を見せて、支配するつもりだったのに、話は思わぬ方向に行ってしまった。けれど、今は彼女の内面を垣間見れただけでも良しとしようと思った。
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