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21:機能不全と妻
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厚手のカーテンで外界を切り離した部屋は、柔らかな灯りに満ちている。シーツは上等、香も控えめで上品だ。
女も当然、それなりの値段と腕前を誇る高級娼婦である。笑う仕草も、首を傾げる角度も、よく訓練された優雅さに包まれていた。
その女が今、ギデオンの腰に跨り、胸元をわざとらしく押しつけながら身を寄せている。
白い肌に豊かな胸、そして整えられた指先。視界のどこを見ても、男を煽る素材には事欠かない。
しかしギデオンはその豊かな谷間を前にしているのに、どうにも落ち着かない。……と言うよりも、彼自身は落ち着かないのだが、肝心なところが落ち着き払っていた。
娼婦は優しく笑い、太腿を絡めきた。
「ねえ、ギデオン様。今日はずいぶん静かね?」
「……たまたまだよっ」
たまたま、のはずだった。
いつものギデオンなら、この時点で景気よく主張を始めている。豊かな胸が視界に入った瞬間に、誇り高く存在を示してくるのが常だったのだ。
だが、今日はその気配がない。寂しさすら感じるほど無反応だった。
娼婦は慣れた手つきでギデオンの胸を撫で、首筋へ口づけを落とす。
柔らかく、上手い。娼館の中でも一流と言われる女で、ギデオンが指名した理由もこの技量にある。
それなのに、だ。どこにも火が点かない。
ギデオンは黙り込んだ。
内心で、小さな狼狽がじわじわと広がる。
(反応しない……)
この世で最もあってはならない文字列が、脳裏に浮かんだ。これは、まずいと、ギデオンは寝台の上で固まり、状況を理解しようと努めた。
理解した所でどうしようもないのだが、男にはプライドという名の虚勢がある。
自分でも気づかぬうちに真剣な顔をしていたのか、娼婦は心配そうに覗きこんだ。
「どうしたの? そんな顔、初めて見るわ」
「……つ、疲れているだけだ」
「無理しなくていいのよ。男の人はね、そういう日だって……」
「僕にはないんだよ!」
声が滑った。
落ち着きの無さが露呈したのがさらに恥ずかしい。
ギデオンには、そういう日など存在しない。
己の顔と、男の機能への過信は、長年ひたすら磨き上げてきた自負の塊だった。
しかしその自負が今まさに崩壊しそうになっている。
「落ち着いて。深呼吸してみましょう?」
「子ども扱いするな……」
娼婦はギデオンを見詰め、迷子の子犬を見るような目で見つめて微笑んだ。
肩を落としそうになるのを堪えながら、ギデオンは薄々悟っていた。反応しない原因に、心当たりがないわけではなかった。
リネア。
嫌いなはずの妻と名を思い浮かべた途端、心臓が跳ねる。……心臓がだ。問題の部位は跳ねるどころか、冬眠しているというのに。
もしや自分の身体はリネアでしか反応しなくなってしまったのではないか。ギデオンは悔しさを噛み殺した。
娼婦は彼の隣に座り込み、優しく背中を撫でた。
「ギデオン様、もしかして特別な人が出来たのかしら?」
「いや、違うんだ。違うが……違わない……いや、違うッ!」
何が違って何が違わないのか、本人すら分からない。しかし娼婦は慣れた様子で、微笑みを絶やさなかった。
「もし良ければ、話してみて? そうすれば、少し気持ちも落ち着くのではないかしら」
娼婦を抱きに来た筈が、いつの間にか診察室で心の具合を診られているような気がしてきた。
ギデオンは緩く息を吐き出してから、「結婚したんだ」と、端的に言う。
「あら、そうなの? おめでとう」
「祝われるような話じゃないんだよ。お決まりの政略結婚、親が勝手に決めた相手だ。好きか嫌いかなんて、最初から考えてない。僕は僕で、誰と結婚しようが関係ないし、妻がいようが、愛人を囲って楽しくやるつもりだった。……それなのに、リネアはどうしてこう、こう……」
「……こう?」
「なんで、こう……、なんていうか、なぜか僕だけが乱されてる気がして……それが、ひどく癪なんだ」
根拠のない自信と尊大さでできているようなギデオンが迷っている姿は、珍しい。娼婦は思わず、まばたきをした。そんな微かな反応に気づくこともなく、彼は言葉を続けた。
「彼女を抱いて屈服させるはずだったんだ。僕の魅力と、技巧で、どうしようもなくしてやるつもりだった。……なのに、あれは……なんというか……あれだ。あれは、こう、予定外というか……。まあ……つまり、妙に飲まれたというか。なぜか息が乱れたのは……僕だけだったというか……」
もはや何を伝えたいのか自分でも定かでなかったが、とにかく敗北してはいない雰囲気だけは保ちたい一心だった。
そんなギデオンに、娼婦は口を手で押さえて笑いを堪えながら、首を傾げる。
「それって、恋じゃないの?」
「……は? 君、僕の話聞いていた?」
「ええ、ちゃんと聞いていたわ。全部。その相手にだけ息が乱されて、胸のあたりがざわついて、そして娼館では何も起きなかったのよね?」
「何も起きないって、それは……。今日はそういう日だったというだけで。身体的な不調とか、星が変な位置にあったとか、たまたまとか、そういう……」
「なるほど。たまたま、奥さんにだけに反応してしまう日だったと?」
「その言い方やめてくれるかな!? それに、これは恋じゃない」
ギデオンは言い切った。断じて恋ではない。
問題は、ではこれは何なのか、という点だけだった。
「ねえ、ギデオン様」
娼婦は、妙に柔らかい声音で切り出した。
何か良くない質問の匂いがして、ギデオンは反射的に眉間を寄せる。
「もしも奥さんが男娼を囲って、頬なんか染めていたら……どう思う?」
「……え?」
「それか奥さんに、誰か好きな男ができて、その人にだけ頬が緩んでいたら?」
娼婦はくすりと笑い反応を楽しむように、ゆっくりと問いを重ねる。ギデオンは口を開きかけ、それから閉じ、それからもう一度開いた。
あり得ないことだと思いながら、想像してしまったのだ。リネアが、誰か知らない男に向けて頬を赤くしている姿を。
途端に、腹の底が熱くなり、むかむかと鋭く刺すような不快感が広がった。
「すごく嫌そうな顔ね」
「当たり前だろ。僕の妻だぞ?」
「さっき、ただの政略結婚の相手だって言っていたのに」
「……っ、そう言うの、揚げ足取りって言うんだぞ」
ギデオンは逃げるように視線をそらした。
恋だと認めたくない男と、認めさせたい女。その攻防は、どう見てもギデオンのほうが旗色が悪い。
娼婦は、からかうように肩をすくめた。
「ふふ。まあ、奥さんのこと、もう少し知ってあげたほうが良いんじゃないかしら。好きなこと、嫌いなこと、どういう言葉で心が揺れるか。全部知らずに従わせようなんて無理な話よ」
娼婦の言葉に反論したかった。
これまでの相手は、何も知らなくても自分の微笑み一つで落ちてくれた。……それが事実かどうかさておき、少なくともギデオンはそう思っていた。
相手のことなど知らないままで、どうにかなっていたのだ。
けれど今回は、どうにかなっていない。
だからこそ娼婦に反論できる言葉が見つからない。
「帰ったら、奥さんとお茶でもしてあげて、デートに誘ってあげるといいわ」
「なんで、そんな事、この僕がしなきゃならないんだよ」
「屈服させたいんでしょう? だったら、まずは愛情注いであげなきゃ」
その一言に、ギデオンの耳がぴくりと動いた。
愛情。なるほど、その手があったか。
恋人気取りで甘く接して、ときに贈り物でもして、思い出の場所にでも連れていく。まるで夢を見せるように、優しさを重ねていけば、リネアもきっと綻ぶはずだ。
頬を染めて、胸を焦がして、やがて自分なしではいられなくなる。その時こそ、すべてを掌に収めてやればいい。
我ながら妙案だと、ギデオンの口元にゆっくりとした笑みが浮かぶ。いつものように底意地の悪さを滲ませながら。
「そうか……。愛情を注いで、恋人のように振る舞えばいいのか……」
誰にともなく呟いたその声は、妙に楽しげで、どこか復讐劇を思わせる陰も含んでいた。
その様子を見ていた娼婦は、小さく苦笑をした。
ここまでの流れからすると、最終的に頬を染めるのは、ギデオンの方だろうと思ったからだ。
女も当然、それなりの値段と腕前を誇る高級娼婦である。笑う仕草も、首を傾げる角度も、よく訓練された優雅さに包まれていた。
その女が今、ギデオンの腰に跨り、胸元をわざとらしく押しつけながら身を寄せている。
白い肌に豊かな胸、そして整えられた指先。視界のどこを見ても、男を煽る素材には事欠かない。
しかしギデオンはその豊かな谷間を前にしているのに、どうにも落ち着かない。……と言うよりも、彼自身は落ち着かないのだが、肝心なところが落ち着き払っていた。
娼婦は優しく笑い、太腿を絡めきた。
「ねえ、ギデオン様。今日はずいぶん静かね?」
「……たまたまだよっ」
たまたま、のはずだった。
いつものギデオンなら、この時点で景気よく主張を始めている。豊かな胸が視界に入った瞬間に、誇り高く存在を示してくるのが常だったのだ。
だが、今日はその気配がない。寂しさすら感じるほど無反応だった。
娼婦は慣れた手つきでギデオンの胸を撫で、首筋へ口づけを落とす。
柔らかく、上手い。娼館の中でも一流と言われる女で、ギデオンが指名した理由もこの技量にある。
それなのに、だ。どこにも火が点かない。
ギデオンは黙り込んだ。
内心で、小さな狼狽がじわじわと広がる。
(反応しない……)
この世で最もあってはならない文字列が、脳裏に浮かんだ。これは、まずいと、ギデオンは寝台の上で固まり、状況を理解しようと努めた。
理解した所でどうしようもないのだが、男にはプライドという名の虚勢がある。
自分でも気づかぬうちに真剣な顔をしていたのか、娼婦は心配そうに覗きこんだ。
「どうしたの? そんな顔、初めて見るわ」
「……つ、疲れているだけだ」
「無理しなくていいのよ。男の人はね、そういう日だって……」
「僕にはないんだよ!」
声が滑った。
落ち着きの無さが露呈したのがさらに恥ずかしい。
ギデオンには、そういう日など存在しない。
己の顔と、男の機能への過信は、長年ひたすら磨き上げてきた自負の塊だった。
しかしその自負が今まさに崩壊しそうになっている。
「落ち着いて。深呼吸してみましょう?」
「子ども扱いするな……」
娼婦はギデオンを見詰め、迷子の子犬を見るような目で見つめて微笑んだ。
肩を落としそうになるのを堪えながら、ギデオンは薄々悟っていた。反応しない原因に、心当たりがないわけではなかった。
リネア。
嫌いなはずの妻と名を思い浮かべた途端、心臓が跳ねる。……心臓がだ。問題の部位は跳ねるどころか、冬眠しているというのに。
もしや自分の身体はリネアでしか反応しなくなってしまったのではないか。ギデオンは悔しさを噛み殺した。
娼婦は彼の隣に座り込み、優しく背中を撫でた。
「ギデオン様、もしかして特別な人が出来たのかしら?」
「いや、違うんだ。違うが……違わない……いや、違うッ!」
何が違って何が違わないのか、本人すら分からない。しかし娼婦は慣れた様子で、微笑みを絶やさなかった。
「もし良ければ、話してみて? そうすれば、少し気持ちも落ち着くのではないかしら」
娼婦を抱きに来た筈が、いつの間にか診察室で心の具合を診られているような気がしてきた。
ギデオンは緩く息を吐き出してから、「結婚したんだ」と、端的に言う。
「あら、そうなの? おめでとう」
「祝われるような話じゃないんだよ。お決まりの政略結婚、親が勝手に決めた相手だ。好きか嫌いかなんて、最初から考えてない。僕は僕で、誰と結婚しようが関係ないし、妻がいようが、愛人を囲って楽しくやるつもりだった。……それなのに、リネアはどうしてこう、こう……」
「……こう?」
「なんで、こう……、なんていうか、なぜか僕だけが乱されてる気がして……それが、ひどく癪なんだ」
根拠のない自信と尊大さでできているようなギデオンが迷っている姿は、珍しい。娼婦は思わず、まばたきをした。そんな微かな反応に気づくこともなく、彼は言葉を続けた。
「彼女を抱いて屈服させるはずだったんだ。僕の魅力と、技巧で、どうしようもなくしてやるつもりだった。……なのに、あれは……なんというか……あれだ。あれは、こう、予定外というか……。まあ……つまり、妙に飲まれたというか。なぜか息が乱れたのは……僕だけだったというか……」
もはや何を伝えたいのか自分でも定かでなかったが、とにかく敗北してはいない雰囲気だけは保ちたい一心だった。
そんなギデオンに、娼婦は口を手で押さえて笑いを堪えながら、首を傾げる。
「それって、恋じゃないの?」
「……は? 君、僕の話聞いていた?」
「ええ、ちゃんと聞いていたわ。全部。その相手にだけ息が乱されて、胸のあたりがざわついて、そして娼館では何も起きなかったのよね?」
「何も起きないって、それは……。今日はそういう日だったというだけで。身体的な不調とか、星が変な位置にあったとか、たまたまとか、そういう……」
「なるほど。たまたま、奥さんにだけに反応してしまう日だったと?」
「その言い方やめてくれるかな!? それに、これは恋じゃない」
ギデオンは言い切った。断じて恋ではない。
問題は、ではこれは何なのか、という点だけだった。
「ねえ、ギデオン様」
娼婦は、妙に柔らかい声音で切り出した。
何か良くない質問の匂いがして、ギデオンは反射的に眉間を寄せる。
「もしも奥さんが男娼を囲って、頬なんか染めていたら……どう思う?」
「……え?」
「それか奥さんに、誰か好きな男ができて、その人にだけ頬が緩んでいたら?」
娼婦はくすりと笑い反応を楽しむように、ゆっくりと問いを重ねる。ギデオンは口を開きかけ、それから閉じ、それからもう一度開いた。
あり得ないことだと思いながら、想像してしまったのだ。リネアが、誰か知らない男に向けて頬を赤くしている姿を。
途端に、腹の底が熱くなり、むかむかと鋭く刺すような不快感が広がった。
「すごく嫌そうな顔ね」
「当たり前だろ。僕の妻だぞ?」
「さっき、ただの政略結婚の相手だって言っていたのに」
「……っ、そう言うの、揚げ足取りって言うんだぞ」
ギデオンは逃げるように視線をそらした。
恋だと認めたくない男と、認めさせたい女。その攻防は、どう見てもギデオンのほうが旗色が悪い。
娼婦は、からかうように肩をすくめた。
「ふふ。まあ、奥さんのこと、もう少し知ってあげたほうが良いんじゃないかしら。好きなこと、嫌いなこと、どういう言葉で心が揺れるか。全部知らずに従わせようなんて無理な話よ」
娼婦の言葉に反論したかった。
これまでの相手は、何も知らなくても自分の微笑み一つで落ちてくれた。……それが事実かどうかさておき、少なくともギデオンはそう思っていた。
相手のことなど知らないままで、どうにかなっていたのだ。
けれど今回は、どうにかなっていない。
だからこそ娼婦に反論できる言葉が見つからない。
「帰ったら、奥さんとお茶でもしてあげて、デートに誘ってあげるといいわ」
「なんで、そんな事、この僕がしなきゃならないんだよ」
「屈服させたいんでしょう? だったら、まずは愛情注いであげなきゃ」
その一言に、ギデオンの耳がぴくりと動いた。
愛情。なるほど、その手があったか。
恋人気取りで甘く接して、ときに贈り物でもして、思い出の場所にでも連れていく。まるで夢を見せるように、優しさを重ねていけば、リネアもきっと綻ぶはずだ。
頬を染めて、胸を焦がして、やがて自分なしではいられなくなる。その時こそ、すべてを掌に収めてやればいい。
我ながら妙案だと、ギデオンの口元にゆっくりとした笑みが浮かぶ。いつものように底意地の悪さを滲ませながら。
「そうか……。愛情を注いで、恋人のように振る舞えばいいのか……」
誰にともなく呟いたその声は、妙に楽しげで、どこか復讐劇を思わせる陰も含んでいた。
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