正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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20:喉元過ぎても熱さは忘れない

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 天地がひっくり返るほど珍しく、ギデオンは自発的に机に向かっていた。椅子に深く腰を落として、羽根ペンを持つ指に力を込める。

 仕事は段階を追えばいい。

 たったそれだけの事を、この前、リネアが淡々と教えてきた。
 見下ろすでもなく、持ち上げるでもなく、ただ手順として提示されたその方法は、腹立たしいほど合理的だった。
 台帳を開き、徴税の記録を確かめ、不足があれば理由を追い、どこで数字が歪んだのかを潰していく。書類とは要するに、言い訳の余地を奪う紙の集まりだ。そこに欲望も感情も差し込む隙はない。

 普段ならば、眠気と頭痛を誘う無機質さは、今日のギデオンには救いだった。

 集中している間だけは、昨夜のことが頭に入ってこない。入り込めない、はずだ。だから仕事をしているのだと、胸の内で言い切った。

 数字を追い、印をつけ、署名を整える。
 ひとつ片づけば、またひとつ。意外なことに、これが嫌いではないと気づきかけて、眉を寄せた。
 自分の中にいるもう一人の自分が、腕を組んで眺めているような気配がするのだ。「お前が仕事?」とでも言いたげな顔で。

 それでも、仕事をしていれば自分は崩されない。昨夜みたいに、息の仕方まで奪われることもない。そう思って、またペンを走らせた。

 書類の数枚をまとめて横に置き、深く息を吐く。
 ひと段落ついた所で、ようやく、紅茶の存在を思い出した。

 机の端に置かれたカップは、すっかり冷めている。
 それでも香りは残っていて、口に含むとちゃんと美味しかった。温度のせいで誤魔化されない分、葉の質が分かってしまう。
 紅茶はリネアが淹れてくれたものだった。
 その事実が、味の奥に混ざってくる。甘さでも、温かさでもない。もっと鬱陶しい何かだ。

 ギデオンはカップを置き、指先で額をおさえる。深い吐息と共に、ついリネアのことを考え始めていた。

 親が勝手に決めてきた結婚相手。顔合わせもないまま、嫁いできた女。

 リネアの事は最初から気に食わなかった。
 理由なら、いくらでも並べられる。自分の顔を見た女は、みんな何らかの反応を見せる……少なくとも、ギデオンにはそう見えてきた。
 目が泳ぐとか、声が甘くなるとか、褒め言葉が増えるとか。世界は基本的にギデオンに優しいと、そういう前提で生きてきた。

 ところがリネアは、顔色一つ変えなかったのだ。そこがもう、最初から腹立たしい。

 愛人と抱き合っている所を見せつけても、平然としている。
 娼婦で遊んだと分かっても、眉一つ動かさない。
 酒場で豪遊して金を溶かした時も、怒鳴るのではなく、金銭感覚を養うために、働こうと言った。

 思えば、彼女が怒った所を、ギデオンはまだ一度も見ていなかった。

 仕事から逃げ出そうとしたとき、机に鞭を打ちつけ、片手を縛り付けられた。だが、あの時ですらリネアは怒ってはいなかった。
 むしろ穏やかで、声音も柔らかく、それでいて反抗心を育てる余地がないような甘い威圧で迫ってきた。

 カップの縁を指でなぞりながら、ふと、リネアも泣くことはあるのだろうかと、そんな事が気になった。

 彼女も泣くことはあるのだろうか。拗ねたり、嫉妬したり、取り乱したり。そういう当たり前の感情を、リネアは持っているのか。
 ギデオンは、まだそれを一度も見たことがない。見せないだけなのか、そもそも形が違うのか。もしくは彼女が言った「歪み」は、そこにもあるのだろうか。

 そこまで思いを馳せた所で、自分が他人の事をこんなふうに考えるなんて、と舌打ちをする。

 ギデオンが他人の内側を気にするなど、本来あり得ない。彼にとって他者は、自分を引き立てるための背景でしかなく、相手の感情を読む必要など一度もなかった。それなのに、今はリネアの心を探ろうとしている。

「……くだらない」
 吐き捨てる声は低いのに、胸の奥は落ち着かない。

 まるで去勢された犬じゃないか。

 そう思うと、腹の底から怒りが湧いた。怒りの矛先が自分なのか、リネアなのか区別がつかないが、とにかく不快で、落ち着かない。
 このままでは駄目だ。何とかして、いつもの自分を取り戻さないと。

「……娼館に行くか」
 口に出してしまうと妙に現実味が増す。いつもの自分を確認するには、いつもの場所が一番だ。甘い声に、従順な手つき、こちらの顔色を窺う視線。世の女が自分に優しいという証明を、もう一度取り戻す。

 娼館へ行ったとしても、リネアは怒らないだろう。告げた所で、眉ひとつ動かさず、「そう」と言って終わる。もしくは「戻る時間は?」と聞くだけかもしれない。あの女は、そういう種類の平然を持っている。

 ギデオンは、その想像にわずかな引っかかりを覚えた。

 怒られないことが気楽なはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さる。
 寂しいと言い切れるほど可愛い感情でもなく、惨めというほど傷ついている訳でもない。ただ言葉にできない、扱いにくい気分だけが残り、その曖昧さが余計に不快だった。
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