正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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24:遠回りな恋作戦

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 中央市場は、市民の活力と喧騒の坩堝だった。
 色とりどりの屋台が並び、人々たちが押し合いへし合い、叫び声と笑い声が入り乱れていた。

 正直なところ、ギデオンはこの手の雑多な場所が好きではなかった。
 人混みにまぎれて、肩がぶつかるし、服が埃っぽくなる。それに何より自分には似合わない。

 だが、今はそうも言っていられない。リネアを落とすためには、多少の不快感など、我慢しなければならない。
 そう自分に言い聞かせていると、リネアがふと立ち止まった。
 気づけば、露店の一角にだけ、場違いなほど静かで物騒な空気が漂っていた。そこは武器を扱う店だった。

 剣や弓、短剣、斧、そして見たこともないような異国の刃物まで、整然と並べられている。男たちが真剣な目つきでそれらを見つめ、手に取っては重量を確かめていた。

 リネアが見つめていたのは、針のように尖った細見で両刃の短剣だ。 
 彼女は無言でそれを手に取り、刃の輪郭を指先でなぞる。宝石にも菓子にも服にも興味を示さなかったのに、その目は真剣だった。
 ギデオンは思わず眉をひそめる。

「何、それ」
「スティレットっていうの。刺突専用の短剣よ。刃に細工をして、毒を流し込めるように作られているものもあるの。扱う人次第でいくらでも使い方が変わるのよ」
「……ふぅん」

 ギデオンは曖昧な返事をする。
 彼にとって、武器というのは必要悪の象徴でしかない。見ていて楽しいものではないし、ましてや嗜む類のものでもない。それなのに、リネアの横顔は穏やかで、どこか楽しげですらあった。
 ギデオンは、つい口元に皮肉を含ませて言った。

「……欲しいのか、それ」

 リネアは、淡々とした声で「ちょっとだけ」と呟いた。
 理解しがたい価値観を持つ女性を妻にした男の運命というものに想いを馳せながら、ギデオンは溜息をついた。
 しかし今は、リネアを惚れさせるという大作戦の真っ最中だ。ここで引くわけにはいかない。

「じゃあ、買ってやるよ」
 そう言うと、リネアは少しだけ目を見開いた。次の瞬間、その唇に、花が綻ぶような心底嬉しそうな笑みが零れ落ちる。
 彼女らしからぬ、無垢ともいって良い程の笑顔に、ギデオンは息を呑んだ。

「いいの?」
「も、もちろん……」

 嬉しさを隠しきれずに、それでも控えめに問いかけるリネアに、頷いてみせる。頬に広がる熱は錯覚だと信じ込むようにして、ギデオンは店主に銀貨を手渡した。
 店主はスティレットを黒革のケースに収め、手際よく包み始めた。
 ギデオンは手渡されたそれを、まるで花束でも渡すかのようにリネアへ差し出す。

「ほら。……なんで、こんなものが欲しいのかよく分からないけど。まぁ、君が嬉しいなら、それでいい」

 それは決して格好のつくセリフではなかった。
 もっと気障な台詞はいくらでも思いついたはずなのに、口から出たのは、どこかぎこちない言葉だった。だが彼女は嬉しそうに笑ったまま、大事そうに受け取った。

「ありがとうっ! ギデオン」

 弾んだ声を上げたかと思うと、リネアはすっと背伸びし、ギデオンの頬に唇を寄せた。かすかに触れるだけの、掠めるようなキスだった。
 それだけで、ギデオンの背筋は見事に固まった。鼓動は騒がしく、肺は空気の吸い方を忘れる。
 彼女のことは別に好きではない。好きではない、はずだ。それなのに、どうして頬に触れた唇の感触が、ここまで鮮明に脳裏に焼くのだろうか。

 ギデオンはそっぽを向いて、わざとらしく咳払いを一つ。

「せいぜい、誤って自分の指でも刺さないように気をつけな」

 完璧な平静を装って言い放ったつもりだったが、耳の裏が熱を持っているのは自覚している。心の中で落ち着けと呟きながら、赤くなった耳を隠すように襟元を直した。

 これは、作戦だ。
 あくまで、惚れさせるための、冷静かつ戦略的な……。などと、自分に言い聞かせていたギデオンだったが、リネアの指が不意に自分の手に絡んできたとき、内なる会議は解散を余儀なくされた。

 しっかりと握ってくるその力加減に、呼吸のリズムが乱れる。

 異常な動悸は、体調が悪いせいだろう。
 朝からの強い日差しが、思いのほか堪えているのかもしれない。もしかすると、朝食に飲んだコーヒーの量が、いささか過ぎたのかもしれないと、あらゆる仮説を総動員してまで、動悸の原因から目を逸らそうとするあたり、すでに平常心とは言いがたかった。

「どうした? 手なんか握ってきて、僕に惚れ直したかい?」

 冗談めかしてそう口にしたとき、自分でも驚くほど声が震えていた。
 リネアは一拍だけ間を置いて、朗らかに、しかし容赦なく答えた。

「惚れてはいないわ」
 微笑んだまま、はっきりと否定する。だが彼女の笑顔はやわらかく揺れた。

「でも、愛してる」

 まるで、散歩中に見つけた可愛い小鳥を「連れて帰っていい?」と訊くような調子で、彼女は言った。いや、そんなことを言われた経験はないのだが、たぶん、そんな気配だった。
 だが、その言葉を聞いたとたん、胃のあたりが急激に温かくなった。
 彼女の「愛してる」との一言に、恋愛感情が一滴も含まれていないのは分かっている。けれども、身体のほうが先に反応する。

(……なんなんだ、これは)

 リネアの事は好きでもない。ましてや、惚れてなどいない筈なのに。
 それなのに、もし今、自分の顔を鏡で見たら、「初恋」などという滑稽な二文字が、額に浮かんで見えるのではなかろうかなどと、恐ろしい妄想が湧き上がる。

 否。これは恋ではない。決して。何がどうあっても。

 ギデオンはふらつく気分を、襟元を正すという名目で整え直したのだった。
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