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25:家族公認・問題児
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ここ数日、自分の身に起きている異変に、ギデオンは静かに困っていた。
何がというわけでもない。強いて言えば、すべてが少しずつおかしいのだ。
まず、妙に心臓がうるさい。
たとえばリネアの髪がほどけかけていたり、襟ぐりの開いた服から鎖骨が見えたり、食後の紅茶を飲むときに、ふと見せる微笑に気づいたりしただけで、どくんと鼓動が跳ねる。
これはもしかすると病気かもしれないと仮説を立ててみたが、リネアの気配が離れるとすっと治まるあたり、診断はどうにも腑に落ちない。
そして厄介なことに、その異変は仕事の場にまで染み出していた。
以前のギデオンなら、仕事とはやらずに済ませる工夫を凝らす対象だったはずだ。
それが今では、指示を待つどころか、先回りして終わらせてしまう始末である。どう考えても、正常とは言いがたい。
これも矢張り、原因はリネアにあった。
ギデオンが仕事を終わらせると、彼女は必ず「いい子」と笑って、頭を撫でてくるのだ。子ども扱いされているようで、癪に障る筈なのに、さらりと手が抜けていく感触がどうにも心地良くて、撫でられたい、褒められたいという思考が生まれてしまう。
その時点で、すでに何かが狂っている。
ついでに言えば、最近は妙に品行方正となった。
夜更かしも減り、酒も控えがちとなった。
以前は毎晩のように通っていた娼館に、ふと顔を出してみたことがある。だが、ふかふかのソファに座った途端、眠気が襲ってきたのだ。迎えに出てきた豊満な女性の谷間にも、たいして心が躍らなかった。
ギデオンの自尊心は山よりも高く、恋愛においても主導権を握るべき立場にあると信じて疑わない。
リネアの事も、どうにかして惚れさせてやろうと決意していたのだ。
それが今や、逆転している。
(……ばかな)
ギデオンは鏡を見た。
冷静な顔をしているつもりだったが、心なしか目元が柔らかい。口元も緩い。
かつて女性に対して、「恋をすると目元が甘くなるんだよ」などと言っていた自分の発言が、今になってブーメランのように直撃してくる。
しかし、ここまで来てもギデオンは、自分がリネアに恋をしているとは、決して認めようとはしなかった。
長年育て上げてきた意地と自尊心は、その認識を阻むには十分すぎたのだ。
その日は、結婚後初めて、リネアと実家の家族との顔合わせだった。
館に訪問馬車が到着したと使用人に告げられて、ギデオンは大きく溜息を吐いた。
面倒だという想いが、前日から膨れ上がってはいたが、さすがに逃げ出す訳にはいかなかった。
妻を自分の家族に引き合わせる。
そんなものは、古今東西、王侯貴族であれ誰しもが内心では気が進まなかったのではないか。そんなふうに考えてみるのは、少しでも気を紛らわせたかったからだ。
迎えに出た広間に、最初に姿を現したのは父だった。
リネアが静かに頭を下げると、ギデオンの父も頷いた。いつも通り背筋は伸びていたが、目元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
その隣に立つ母は、これまた反対に、あらゆる笑顔の象徴だった。年齢によるものか、それとも天性か、すべてを受け入れるような柔らかい瞳でリネアを見つめ、「お目にかかれて嬉しいわ」と、明るい声を掛けた。
「こちらこそ、お越しくださってありがとうございます」
リネアは優雅に一礼して微笑んだ。
その返答は一分の隙もなく、口調にも表情にも、あたたかさと距離の取り方が絶妙に共存していた。本人にそのつもりはないのだろうが、誰が見ても非の打ち所のない「妻」として仕上がっている。
かつてのギデオンならば、その様子に、いちいち隙がないのが癪に障るとでも思っただろう。
だが今は、つい彼女に見惚れてしまっていた。
そしてそんな自分に気が付いて、少しだけ悔しさが湧き上がる。
そこへ、ゆったりと階段をのぼる足音が響き、長兄のクロードがやって来た。
顔立ちには無駄がなく、切れ長の目は一瞥だけで相手の器量を見抜くような鋭さがある。
それでいて声は驚くほど穏やかで、柔らかい笑みを崩さず「リネアさん、はじめまして」と差し出された手の動作すら、洗練されていた。
その後ろから、次兄のノエルが現れる。
ノエルは兄弟の中で最も長身で、鍛え上げられた体躯をしていた。黙って立っているだけで十分すぎるほど圧があるのに、本人は至って無頓着らしく、リネアにも軽く挨拶をしただけで、それ以上の飾り気を見せなかった。
ギデオンは、並び立った兄たちを横目に憂鬱な気持ちを押し殺す。
美貌を自負するギデオンでさえ、兄たちの並びには妙な完成度を感じざるを得ない。
比べられるのが厄介で少し引いてみれば、それはそれで「控えめな三男坊」などという不名誉を着せられるのだから、実に面倒な話だった。
昼食の席は、きらびやかで隙のない空間だった。
磨き上げられた長テーブルには銀細工の食器が整然と並び、季節の花を挿した水晶の花瓶が等間隔に配置されている。
クリーム色のスープからは香草の香りがほのかに立ちのぼり、視覚も嗅覚も満たされるはずのその場だったが、どこか緊張の色が差していた。
沈黙が広がる食卓は、言葉よりも遥かに多くを語る。
銀食器の触れ合う微かな音に、ナプキンを畳む手のしなやかさ。ワインの注がれる静かな音。そのすべてが上品な会食を演出する中で、ギデオンは胃のあたりを小さく押さえた。
隣に座るリネアは、相変わらず涼しい顔でスープを口にしていた。銀器の扱いも、表情の整え方も、初対面の家族に囲まれている場だとは思えない落ち着きぶりだ。
「リネアさん。……このたびは、我が家の三男の許へ来てくださり、感謝します」
「こちらこそ、こうして迎えていただけて光栄です」
不意に父の声が上がり、そのまま深く頭を下げた。その言葉に込められていたのは、感謝というより謝意に近かった。
対してリネアは落ち着いた声で答える。彼女には卑屈も気負いもなく、ただ、絶妙な温度と間合いを保った、気持ちのよい敬意だけがあった。
「ギデオンは……」
父が言い淀む。
ギデオンは、内心で「来たか」と思った。そう、ここからが本番だ。
「幼い頃は病弱でしてな。兄たちとも年が離れておりますし、つい、甘やかしてしまった所があります。そのせいで、いささか、性格に柔らかさと、自由さを持ち合わせた男に育ちまして」
柔らかさ、自由さ。だいぶ角が取れている言い回しだ。
とはいえ、文脈の味付けを読み取る力くらいギデオンにもある。要するに、「息子は躾が行き届いておりません、ご容赦ください」という、最上級に丁寧な謝罪だ。
「本当に、至らぬところの多い息子で……」
母までがやんわりと添えるように言う。
声色は穏やかだが、内容は厳しい現実に満ちていた。続いて長兄クロードが、さらりと笑った。
「放っておくと、すぐふらりとどこかに行くしね。……まあ、子どもの頃から読書だけは好きだったけど、あれもなぜか官能小説ばかりだった気が」
「……おい」
「けれど、こんな奴に嫁がされてリネアさんも、さぞ驚かれただろう。選べもしないのに、こいつと結婚させられるなんて、とんだ災難だ」
思わず遮るギデオンに、今度は次兄のノエルが、ぼそりと低い声で言った。災難との言葉に、家族の全員が、なんとなく頷いていた。
とはいえ、結婚を決めたのは両親同士だ。
せめて誰か一人くらいはフォローして、ギデオンの良い所を挙げてくれても良さそうなものだが、それも期待できそうになかった。
何がというわけでもない。強いて言えば、すべてが少しずつおかしいのだ。
まず、妙に心臓がうるさい。
たとえばリネアの髪がほどけかけていたり、襟ぐりの開いた服から鎖骨が見えたり、食後の紅茶を飲むときに、ふと見せる微笑に気づいたりしただけで、どくんと鼓動が跳ねる。
これはもしかすると病気かもしれないと仮説を立ててみたが、リネアの気配が離れるとすっと治まるあたり、診断はどうにも腑に落ちない。
そして厄介なことに、その異変は仕事の場にまで染み出していた。
以前のギデオンなら、仕事とはやらずに済ませる工夫を凝らす対象だったはずだ。
それが今では、指示を待つどころか、先回りして終わらせてしまう始末である。どう考えても、正常とは言いがたい。
これも矢張り、原因はリネアにあった。
ギデオンが仕事を終わらせると、彼女は必ず「いい子」と笑って、頭を撫でてくるのだ。子ども扱いされているようで、癪に障る筈なのに、さらりと手が抜けていく感触がどうにも心地良くて、撫でられたい、褒められたいという思考が生まれてしまう。
その時点で、すでに何かが狂っている。
ついでに言えば、最近は妙に品行方正となった。
夜更かしも減り、酒も控えがちとなった。
以前は毎晩のように通っていた娼館に、ふと顔を出してみたことがある。だが、ふかふかのソファに座った途端、眠気が襲ってきたのだ。迎えに出てきた豊満な女性の谷間にも、たいして心が躍らなかった。
ギデオンの自尊心は山よりも高く、恋愛においても主導権を握るべき立場にあると信じて疑わない。
リネアの事も、どうにかして惚れさせてやろうと決意していたのだ。
それが今や、逆転している。
(……ばかな)
ギデオンは鏡を見た。
冷静な顔をしているつもりだったが、心なしか目元が柔らかい。口元も緩い。
かつて女性に対して、「恋をすると目元が甘くなるんだよ」などと言っていた自分の発言が、今になってブーメランのように直撃してくる。
しかし、ここまで来てもギデオンは、自分がリネアに恋をしているとは、決して認めようとはしなかった。
長年育て上げてきた意地と自尊心は、その認識を阻むには十分すぎたのだ。
その日は、結婚後初めて、リネアと実家の家族との顔合わせだった。
館に訪問馬車が到着したと使用人に告げられて、ギデオンは大きく溜息を吐いた。
面倒だという想いが、前日から膨れ上がってはいたが、さすがに逃げ出す訳にはいかなかった。
妻を自分の家族に引き合わせる。
そんなものは、古今東西、王侯貴族であれ誰しもが内心では気が進まなかったのではないか。そんなふうに考えてみるのは、少しでも気を紛らわせたかったからだ。
迎えに出た広間に、最初に姿を現したのは父だった。
リネアが静かに頭を下げると、ギデオンの父も頷いた。いつも通り背筋は伸びていたが、目元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
その隣に立つ母は、これまた反対に、あらゆる笑顔の象徴だった。年齢によるものか、それとも天性か、すべてを受け入れるような柔らかい瞳でリネアを見つめ、「お目にかかれて嬉しいわ」と、明るい声を掛けた。
「こちらこそ、お越しくださってありがとうございます」
リネアは優雅に一礼して微笑んだ。
その返答は一分の隙もなく、口調にも表情にも、あたたかさと距離の取り方が絶妙に共存していた。本人にそのつもりはないのだろうが、誰が見ても非の打ち所のない「妻」として仕上がっている。
かつてのギデオンならば、その様子に、いちいち隙がないのが癪に障るとでも思っただろう。
だが今は、つい彼女に見惚れてしまっていた。
そしてそんな自分に気が付いて、少しだけ悔しさが湧き上がる。
そこへ、ゆったりと階段をのぼる足音が響き、長兄のクロードがやって来た。
顔立ちには無駄がなく、切れ長の目は一瞥だけで相手の器量を見抜くような鋭さがある。
それでいて声は驚くほど穏やかで、柔らかい笑みを崩さず「リネアさん、はじめまして」と差し出された手の動作すら、洗練されていた。
その後ろから、次兄のノエルが現れる。
ノエルは兄弟の中で最も長身で、鍛え上げられた体躯をしていた。黙って立っているだけで十分すぎるほど圧があるのに、本人は至って無頓着らしく、リネアにも軽く挨拶をしただけで、それ以上の飾り気を見せなかった。
ギデオンは、並び立った兄たちを横目に憂鬱な気持ちを押し殺す。
美貌を自負するギデオンでさえ、兄たちの並びには妙な完成度を感じざるを得ない。
比べられるのが厄介で少し引いてみれば、それはそれで「控えめな三男坊」などという不名誉を着せられるのだから、実に面倒な話だった。
昼食の席は、きらびやかで隙のない空間だった。
磨き上げられた長テーブルには銀細工の食器が整然と並び、季節の花を挿した水晶の花瓶が等間隔に配置されている。
クリーム色のスープからは香草の香りがほのかに立ちのぼり、視覚も嗅覚も満たされるはずのその場だったが、どこか緊張の色が差していた。
沈黙が広がる食卓は、言葉よりも遥かに多くを語る。
銀食器の触れ合う微かな音に、ナプキンを畳む手のしなやかさ。ワインの注がれる静かな音。そのすべてが上品な会食を演出する中で、ギデオンは胃のあたりを小さく押さえた。
隣に座るリネアは、相変わらず涼しい顔でスープを口にしていた。銀器の扱いも、表情の整え方も、初対面の家族に囲まれている場だとは思えない落ち着きぶりだ。
「リネアさん。……このたびは、我が家の三男の許へ来てくださり、感謝します」
「こちらこそ、こうして迎えていただけて光栄です」
不意に父の声が上がり、そのまま深く頭を下げた。その言葉に込められていたのは、感謝というより謝意に近かった。
対してリネアは落ち着いた声で答える。彼女には卑屈も気負いもなく、ただ、絶妙な温度と間合いを保った、気持ちのよい敬意だけがあった。
「ギデオンは……」
父が言い淀む。
ギデオンは、内心で「来たか」と思った。そう、ここからが本番だ。
「幼い頃は病弱でしてな。兄たちとも年が離れておりますし、つい、甘やかしてしまった所があります。そのせいで、いささか、性格に柔らかさと、自由さを持ち合わせた男に育ちまして」
柔らかさ、自由さ。だいぶ角が取れている言い回しだ。
とはいえ、文脈の味付けを読み取る力くらいギデオンにもある。要するに、「息子は躾が行き届いておりません、ご容赦ください」という、最上級に丁寧な謝罪だ。
「本当に、至らぬところの多い息子で……」
母までがやんわりと添えるように言う。
声色は穏やかだが、内容は厳しい現実に満ちていた。続いて長兄クロードが、さらりと笑った。
「放っておくと、すぐふらりとどこかに行くしね。……まあ、子どもの頃から読書だけは好きだったけど、あれもなぜか官能小説ばかりだった気が」
「……おい」
「けれど、こんな奴に嫁がされてリネアさんも、さぞ驚かれただろう。選べもしないのに、こいつと結婚させられるなんて、とんだ災難だ」
思わず遮るギデオンに、今度は次兄のノエルが、ぼそりと低い声で言った。災難との言葉に、家族の全員が、なんとなく頷いていた。
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