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29:鞍上の温度
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目を覚ましたギデオンは、カーテンを指二本分だけ開けて外を覗き、黙ってその隙間を閉じた。
昨夜、雨が降って乗馬の練習がなくなれば良いと思いながら、眠りについたのだ。
雨であれば、泥だらけの地面だの、足元の悪さだの、いくらでももっともらしい理由を並べて、乗馬の練習を中止にできる。ところが、今日の空は雲ひとつない晴天だ。
憂鬱な気分になっている間にも、時間は勝手に進む。
顔を洗い、髪を整えているうちに、逃げ場もなくなっていく。
せめて、見た目だけは完璧にしてやろうと、鏡の前で決意を固めた。
動きやすさと形の良さを兼ね備えたシャツを選び、上着は縫い線の美しい、いつもより短めの一着にした。乗馬用に仕立てられたブーツは、これまでほとんど飾りでしかなかったが、ついに本来の役目を果たす日が来てしまった。靴箱の奥で静かに一生を終えてくれれば良かったのに、と心のどこかで思わなくもない。
前髪の流れを指先で整え、角度を確認してから、ギデオンは鏡越しに自分を見据えた。
中身の覚悟はさておき、外側だけは今日も最高に決まっている。
館から少し離れた練習用の馬場では、朝日を受けた土が、うっすらと乾き始めていた。
踏み固められた地面に、蹄の跡がいくつも重なっている。
その中で、栗毛の馬が、長いまつげに縁取られた目でこちらを眺めている。
「ギデオン。お待たせ」
背後から届いたリネアの声に振り向き、ギデオンは一瞬だけ言葉を失った
リネアは、きちんとした乗馬姿でそこに立っていたのだ。
濃紺の上着は腰の少し上でぴたりと締まり、その下の白い乗馬ズボンが、細く長い脚の線を隠しもせずにすっと伸びている。
ブーツの踵が土を踏むたび、姿勢を支える体幹の強さがさりげなく伝わってきた。
細いのに、頼りない印象がどこにもない。
(……なにそれ)
恐ろしく似合う出で立ちに、ギデオンは心の中で頭を抱える。
もしリネアが男だったなら、街中の女を片っ端から惚れさせているだろうと、不本意ながらにも認めざるを得なかった。
「よく似合ってるね……」
気づけば、珍しく素直な言葉が漏れていた。
リネアは瞬きし、「ありがとう」と、口元を緩めた。そうしてから、馬の首筋に手を伸ばし、優しく撫でる。馬は気分良さげに目を細めた。
「じゃあ、始めましょう。ギデオンが前に乗って、私が後ろから支えるわね」
「こういうの、普通は男が支えるもんじゃないの? 見栄としても、そのほうが良いと思う」
「見栄を大事にする前に、そもそもギデオン、馬に乗れないじゃない」
にっこりと正論を返されて言葉に詰まる。
彼女の言葉はもっともだが、それはそれとして、男としての面目というものもある、というのがギデオンの論だが、告げた所でリネアが納得してくれるとも思えなかった。
渋々ながらにも馬の横に立ち、用意された踏み台に足をかける。
ぎし、と木が鳴るが、しっかり固定されていた。もう片方の足も上げると、視界がわずかに高くなった。馬の背がぐっと近づき、鞍の縁に簡単に手が届く。
間近で見る馬の背中は思っていたより幅があった。けれど、その上に座れる気が、どうしてもしない。
「はい、左足を鐙に」
「……分かったよ、分かった」
観念して、左足を鐙にかける。
金具が靴底を受け止める硬い感触と同時に、背筋が固まる。右足がまだ宙にあり、重心が不安定になる瞬間が一番怖い。
「それじゃあ、体を持ち上げて」
「ちょっと待ってくれ。こういうのは段階というものが……」
言い終えるより早く、腰のあたりに回り込んだ手が、ギデオンの身体をぐっと押し上げた。
「わっ……!」
驚きの声が漏れる。
リネアに、半ば担ぎ上げられる形で、鞍の上へと導かれたのだと悟った時には、馬に跨っていた。
続いて彼女も馬の脇へ回り、鐙に足をかける。しなやかな身体がギデオンの背後へと収まった。
ギデオンの腕の外側から、リネアの手が手綱を取った。彼を囲うようにして、細い指が革紐を握る。
傍から見れば、男であるギデオンの方が、しっかりと守られているような塩梅だった。位置関係がおかしいと思いながらも、背中にぴたりと沿う温かさに、理性を持っていかれる。
「行くわね」
リネアが軽く合図を送ると、馬が歩き出した。
大きな体が一歩を踏み出すたびに、馬の背が上下に揺れ、その揺れが鞍を通してギデオンの身体に伝わる。とっさに馬の首を掴む指に力が入った。
「ゆ、揺らすなよ……」
「大丈夫。今は歩くだけだから」
背後から落ち着いた声が降ってくる。
彼女の膝が、そっとギデオンの腰のあたりを挟み込むように支えた。握られた手綱が、軽やかに上下するたび、馬の頭が素直に従う。数歩進むと、揺れのリズムが少しだけ読めてきた。それでも、高さと不安定さは残る。
「……ねえ、ギデオン。怖い?」
「怖いに決まってるだろう。僕は基本的に、地面が一番好きなんだ」
「落とさないから、大丈夫。安心して」
その言い方が、あまりにも自然で頼もしかったので、ギデオンは口をつぐんだ。
やがて時間が経つうちに、少しずつ慣れてきた。強張っていた力をゆるめると、最初の恐怖も薄れていく。背後で支えるリネアの気配が、思いがけないほど心を落ち着かせた。
「……これは、まぁ、思っていたほど酷くはないね」
譲歩に譲歩を重ねた評価を口にする。
リネアが、背中越しに笑った気配がしたと思いきや、彼女は軽く手綱を引いた。
馬が少しだけ速度を上げる。歩いていた足が、軽い駆け足に変わり、揺れが大きくなる。
「っ……!」
身体が前に持っていかれそうになるのを、後ろから伸びてきた腕がしっかりと押しとどめる。
ギデオンの体は、まるでリネアの腕の輪の中にすっぽり収められているようだった。
(……完全に、エスコートされている側じゃないか)
抗議したい気持ちはある。
しかし、馬の歩みに合わせて腰を支えてくれる手と膝が、あまりに自然で、言葉が喉の奥で絡まった。
背中で涼やかに笑い、必要な時には守ってくれる妻の王子ぶりに、どうしようもなく心が傾くのを認めざるを得なかった。更に言えば、傾いているのは心だけで、身体が落ちていないことを、ひそかに感謝していた。
昨夜、雨が降って乗馬の練習がなくなれば良いと思いながら、眠りについたのだ。
雨であれば、泥だらけの地面だの、足元の悪さだの、いくらでももっともらしい理由を並べて、乗馬の練習を中止にできる。ところが、今日の空は雲ひとつない晴天だ。
憂鬱な気分になっている間にも、時間は勝手に進む。
顔を洗い、髪を整えているうちに、逃げ場もなくなっていく。
せめて、見た目だけは完璧にしてやろうと、鏡の前で決意を固めた。
動きやすさと形の良さを兼ね備えたシャツを選び、上着は縫い線の美しい、いつもより短めの一着にした。乗馬用に仕立てられたブーツは、これまでほとんど飾りでしかなかったが、ついに本来の役目を果たす日が来てしまった。靴箱の奥で静かに一生を終えてくれれば良かったのに、と心のどこかで思わなくもない。
前髪の流れを指先で整え、角度を確認してから、ギデオンは鏡越しに自分を見据えた。
中身の覚悟はさておき、外側だけは今日も最高に決まっている。
館から少し離れた練習用の馬場では、朝日を受けた土が、うっすらと乾き始めていた。
踏み固められた地面に、蹄の跡がいくつも重なっている。
その中で、栗毛の馬が、長いまつげに縁取られた目でこちらを眺めている。
「ギデオン。お待たせ」
背後から届いたリネアの声に振り向き、ギデオンは一瞬だけ言葉を失った
リネアは、きちんとした乗馬姿でそこに立っていたのだ。
濃紺の上着は腰の少し上でぴたりと締まり、その下の白い乗馬ズボンが、細く長い脚の線を隠しもせずにすっと伸びている。
ブーツの踵が土を踏むたび、姿勢を支える体幹の強さがさりげなく伝わってきた。
細いのに、頼りない印象がどこにもない。
(……なにそれ)
恐ろしく似合う出で立ちに、ギデオンは心の中で頭を抱える。
もしリネアが男だったなら、街中の女を片っ端から惚れさせているだろうと、不本意ながらにも認めざるを得なかった。
「よく似合ってるね……」
気づけば、珍しく素直な言葉が漏れていた。
リネアは瞬きし、「ありがとう」と、口元を緩めた。そうしてから、馬の首筋に手を伸ばし、優しく撫でる。馬は気分良さげに目を細めた。
「じゃあ、始めましょう。ギデオンが前に乗って、私が後ろから支えるわね」
「こういうの、普通は男が支えるもんじゃないの? 見栄としても、そのほうが良いと思う」
「見栄を大事にする前に、そもそもギデオン、馬に乗れないじゃない」
にっこりと正論を返されて言葉に詰まる。
彼女の言葉はもっともだが、それはそれとして、男としての面目というものもある、というのがギデオンの論だが、告げた所でリネアが納得してくれるとも思えなかった。
渋々ながらにも馬の横に立ち、用意された踏み台に足をかける。
ぎし、と木が鳴るが、しっかり固定されていた。もう片方の足も上げると、視界がわずかに高くなった。馬の背がぐっと近づき、鞍の縁に簡単に手が届く。
間近で見る馬の背中は思っていたより幅があった。けれど、その上に座れる気が、どうしてもしない。
「はい、左足を鐙に」
「……分かったよ、分かった」
観念して、左足を鐙にかける。
金具が靴底を受け止める硬い感触と同時に、背筋が固まる。右足がまだ宙にあり、重心が不安定になる瞬間が一番怖い。
「それじゃあ、体を持ち上げて」
「ちょっと待ってくれ。こういうのは段階というものが……」
言い終えるより早く、腰のあたりに回り込んだ手が、ギデオンの身体をぐっと押し上げた。
「わっ……!」
驚きの声が漏れる。
リネアに、半ば担ぎ上げられる形で、鞍の上へと導かれたのだと悟った時には、馬に跨っていた。
続いて彼女も馬の脇へ回り、鐙に足をかける。しなやかな身体がギデオンの背後へと収まった。
ギデオンの腕の外側から、リネアの手が手綱を取った。彼を囲うようにして、細い指が革紐を握る。
傍から見れば、男であるギデオンの方が、しっかりと守られているような塩梅だった。位置関係がおかしいと思いながらも、背中にぴたりと沿う温かさに、理性を持っていかれる。
「行くわね」
リネアが軽く合図を送ると、馬が歩き出した。
大きな体が一歩を踏み出すたびに、馬の背が上下に揺れ、その揺れが鞍を通してギデオンの身体に伝わる。とっさに馬の首を掴む指に力が入った。
「ゆ、揺らすなよ……」
「大丈夫。今は歩くだけだから」
背後から落ち着いた声が降ってくる。
彼女の膝が、そっとギデオンの腰のあたりを挟み込むように支えた。握られた手綱が、軽やかに上下するたび、馬の頭が素直に従う。数歩進むと、揺れのリズムが少しだけ読めてきた。それでも、高さと不安定さは残る。
「……ねえ、ギデオン。怖い?」
「怖いに決まってるだろう。僕は基本的に、地面が一番好きなんだ」
「落とさないから、大丈夫。安心して」
その言い方が、あまりにも自然で頼もしかったので、ギデオンは口をつぐんだ。
やがて時間が経つうちに、少しずつ慣れてきた。強張っていた力をゆるめると、最初の恐怖も薄れていく。背後で支えるリネアの気配が、思いがけないほど心を落ち着かせた。
「……これは、まぁ、思っていたほど酷くはないね」
譲歩に譲歩を重ねた評価を口にする。
リネアが、背中越しに笑った気配がしたと思いきや、彼女は軽く手綱を引いた。
馬が少しだけ速度を上げる。歩いていた足が、軽い駆け足に変わり、揺れが大きくなる。
「っ……!」
身体が前に持っていかれそうになるのを、後ろから伸びてきた腕がしっかりと押しとどめる。
ギデオンの体は、まるでリネアの腕の輪の中にすっぽり収められているようだった。
(……完全に、エスコートされている側じゃないか)
抗議したい気持ちはある。
しかし、馬の歩みに合わせて腰を支えてくれる手と膝が、あまりに自然で、言葉が喉の奥で絡まった。
背中で涼やかに笑い、必要な時には守ってくれる妻の王子ぶりに、どうしようもなく心が傾くのを認めざるを得なかった。更に言えば、傾いているのは心だけで、身体が落ちていないことを、ひそかに感謝していた。
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