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30:高みの口車
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その日の午後、乗馬の練習を終えたギデオンは、自室の肘掛け椅子に沈み込んでいた。
机の上では、未開封の手紙の束と、読みかけの本と、途中まで磨いたカフスボタンが、仲良く無視されている。
彼は窓越しに、庭のほうをぼんやりと眺めていた。視線の先にあるのは、丁寧に刈り込まれた生け垣でも、季節の花でもない。そこにいるはずもないリネアの姿を、脳が勝手に思い描いてくる。
(……いや、だから、どうしてそこでリネアなんだ)
本来ならば、この時間帯の彼の脳内は、もっと有益なことで埋め尽くされているべきだ。
たとえば、今季新調するべき上着の色味と、生地の光沢の度合いと、その服を身につけた自分の横顔がどれほど完璧かという、重要な検討事項である。
それなのに、濃紺の乗馬服に身を包んで、涼しい顔で馬を操る彼女の姿が脳裏から離れない。
今日の乗馬の練習は、男である自分が前に座り、後ろから妻に支えられているという構図だった。これは冷静に考えなくても、おかしい。
けれど背後のリネアに、命綱のように身を預けることになったの時の安心感が忘れられなかった。
リネアの立ち居振る舞いは、教本に載せたいほどきちんとしている。
外側は完全な淑女といって差し支えはないだろう。だが、最近になってギデオンは、彼女の内側が見えてきた気がした。
彼女は社交界によくいる、か弱いふりだけは一流の令嬢たちとは、完全に別種の生き物だ。
あちらは椅子から立ち上がるだけで溜め息をつき、重たい扉は誰かに押してもらう前提で生きている。リネアの場合は、その扉を軽々と押し開けた上で、エスコートしかねない気配がある。
寝室では相変わらず、気がつけば彼女のほうが主導権を握っているし、今日のように馬にも乗れば、スティレットを扱う時の目つきと言ったら、貴族の娘というより兵士寄りだ。
実際、彼女の身体は無駄な肉がなく、細いのに、引き締まっている。
(もし、あれで性別が男だったら……)
そこまで考えてギデオンは肩を竦める。
きっと、恐ろしいほどモテるだろう。容姿端麗で、運動はできるし、エスコートもできるし、いざとなれば文字通り命を張って守ってくれるタイプだ。更に言えば、寝室でも何かと導いてくる。
彼女のような条件が揃っている男がいたら、非常に腹立たしい。
自分以外の誰かが称賛される光景を思い浮かべただけで、ギデオンの機嫌は若干悪化した。
仮に、そんな人物が世の中に存在した場合でも、彼は間違いなく全力で欠点を探しにかかるだろう。鼻が低いとか、声が気に入らないとか、何かしらはあるはずだと信じたい。
しかしリネアに関しては、ことが少々ややこしい。現実には女であり、そして自分の妻である。
そこまで考えたところで、扉を叩く音と共にリネアがやってきた。
頭の中で検証していた、まさにその人物の登場に、ギデオンはドキリとする。
「……なに?」
出来るだけ素っ気なく聞き返した。
自分の思考内容を見透かされた訳ではないが、妙に警戒してしまう。リネアは、特に気にした様子もなく、静かに一歩近づいた。柔らかな視線のまま、手にしていた紙束を軽く持ち上げる。
「境界の村から、報告が届いたわ。隣領の者たちが、石碑を動かしたそうよ」
父から聞かされた侵犯の話を思い出して、ギデオンは、思いっきり眉をひそめた。どうやら石碑はじわじわと動かされ続けているらしい。
「ふぅん」と気のない返事をするギデオンに、リネアは「行かないの?」と首を傾げた。
「行ってもいいけどね。結局やることって、その動かされた石碑を元の位置に戻せばいいんだろう?」
侵された土地があるなら、境界を正しい位置に戻す。それ以上に単純で実務的な解決策があるだろうか。争いの何だのと騒ぐ前に、まず物理的に線を引き直すほうが早い。
「……そういう遊びじゃないのよ」
リネアは、思わずといった様子で、くすっと笑った。石碑を動かされるたびに戻しに行く夫、という絵面を想像したのだろう。ギデオンのほうも、その光景が脳裏に浮かんで、内心げんなりする。
(馬に乗せられて、村まで運ばれて、石碑を押して……。いや、これは確かに遊びではない。重労働だ)
だが、リネアの笑いはすぐに消えた。口元の緩みをぴしりと引き締め、真面目な顔に戻る。
「これは、明らかな宣戦布告だと思うの。境界線を動かすというのは、単に石をずらしただけじゃない。こっちの出方を試している。ここで何も言わなければ、今度は飲み込まれるわ」
ギデオンは、椅子に座ったまま指先で肘掛けを叩く。宣戦布告、という言葉は、彼の耳にはどうにも好ましく響かない。
「……そうは言ってもさ。何か言っても聞く耳持たなかった相手なんだろう?」
父の言葉を思い出しながら、反芻するように問う。リネアは、短く頷いた。
「だったら、もう何しても無駄だと思うけどね」
「この件は、お義父様に託されているのに、見逃すの? 痛いのは嫌だというのはよく分かったけど、そうも言ってられないと思うのよ。それにギデオン、よく考えてみて。あなたが上手く片付けたら、ご家族の評価があがると思うの」
「いいよ、上がらなくても」
ぶっきらぼうに言い捨てたつもりだったが、どこか力の抜けた響きになった。リネアはしばらく彼を見つめ、不意に笑みを濃く刻んだ。
「ねぇ、ギデオン。これは寧ろ好機なのよ。あなたって、自分で思っている以上に見せ方が上手いわ。立っているだけで場が締まるし、言葉を選べば、人を黙らせるくらいのことは簡単にできる。私が裏で道を整える。誰に何を言わせるかも、全部考えておく。あなたは、仕立ての良い服を着て馬に乗って、相手の前に出て、最後に一言で場を決めればいい。その一歩を踏み出したあなたを、私はもっと高いところまで連れていってあげるわ」
囁くように、甘く紡がれたその台詞は、よく研がれていた。
真っ直ぐに飛んできて、ギデオンの自尊心の表面を心地よくなぞっていく。ギデオンは、視線を宙にさ迷わせた。彼女の言う「高いところ」の景色を、無意識に思い浮かべてしまう。
境界の村で整えた服に身を包んで馬上に立ち、前には石碑と、こちらをうかがう隣領の使者たち。
その視線をまとめて引き受けて、一言で場を収める自分。
(……似合わなくは、ない)
いや、それどころか、寧ろ最高に似合うし絵になる。痛いのも汗臭いのも責任も大嫌いだ。そう思いながらも、頭の中ではすでに、場に立つための衣装を選び始めていた。
どの色が境界の荒れた風景に映えるか。どの布地なら皺になりにくいか。
「……本当に、裏は任せていいんだね」
ギデオンの問いかけに、リネアは力強く頷いた。
「もちろん。情報も、人も、準備も。いざという時に困らないように、全部揃えておく」
ギデオンは、膝の上で組んでいた指をほどいた。こわばっていた力が、少しだけ抜け、代わりに、胸のどこかがざわめき始める。
「高いところ」という言葉が、妙に耳に残っていた。そこは、自分はまだ辿り着いていない場所だと分かっていた。メルローズ家の三男坊ではなく、領民にとって立派な領主として見られる位置。
(……一度くらいなら)
抑え込んでいたはずの場所に、小さな声がひとつ芽を出す。
その変化を嗅ぎ取ったように、リネアの瞳に、愉快そうなきらめきが差した。
机の上では、未開封の手紙の束と、読みかけの本と、途中まで磨いたカフスボタンが、仲良く無視されている。
彼は窓越しに、庭のほうをぼんやりと眺めていた。視線の先にあるのは、丁寧に刈り込まれた生け垣でも、季節の花でもない。そこにいるはずもないリネアの姿を、脳が勝手に思い描いてくる。
(……いや、だから、どうしてそこでリネアなんだ)
本来ならば、この時間帯の彼の脳内は、もっと有益なことで埋め尽くされているべきだ。
たとえば、今季新調するべき上着の色味と、生地の光沢の度合いと、その服を身につけた自分の横顔がどれほど完璧かという、重要な検討事項である。
それなのに、濃紺の乗馬服に身を包んで、涼しい顔で馬を操る彼女の姿が脳裏から離れない。
今日の乗馬の練習は、男である自分が前に座り、後ろから妻に支えられているという構図だった。これは冷静に考えなくても、おかしい。
けれど背後のリネアに、命綱のように身を預けることになったの時の安心感が忘れられなかった。
リネアの立ち居振る舞いは、教本に載せたいほどきちんとしている。
外側は完全な淑女といって差し支えはないだろう。だが、最近になってギデオンは、彼女の内側が見えてきた気がした。
彼女は社交界によくいる、か弱いふりだけは一流の令嬢たちとは、完全に別種の生き物だ。
あちらは椅子から立ち上がるだけで溜め息をつき、重たい扉は誰かに押してもらう前提で生きている。リネアの場合は、その扉を軽々と押し開けた上で、エスコートしかねない気配がある。
寝室では相変わらず、気がつけば彼女のほうが主導権を握っているし、今日のように馬にも乗れば、スティレットを扱う時の目つきと言ったら、貴族の娘というより兵士寄りだ。
実際、彼女の身体は無駄な肉がなく、細いのに、引き締まっている。
(もし、あれで性別が男だったら……)
そこまで考えてギデオンは肩を竦める。
きっと、恐ろしいほどモテるだろう。容姿端麗で、運動はできるし、エスコートもできるし、いざとなれば文字通り命を張って守ってくれるタイプだ。更に言えば、寝室でも何かと導いてくる。
彼女のような条件が揃っている男がいたら、非常に腹立たしい。
自分以外の誰かが称賛される光景を思い浮かべただけで、ギデオンの機嫌は若干悪化した。
仮に、そんな人物が世の中に存在した場合でも、彼は間違いなく全力で欠点を探しにかかるだろう。鼻が低いとか、声が気に入らないとか、何かしらはあるはずだと信じたい。
しかしリネアに関しては、ことが少々ややこしい。現実には女であり、そして自分の妻である。
そこまで考えたところで、扉を叩く音と共にリネアがやってきた。
頭の中で検証していた、まさにその人物の登場に、ギデオンはドキリとする。
「……なに?」
出来るだけ素っ気なく聞き返した。
自分の思考内容を見透かされた訳ではないが、妙に警戒してしまう。リネアは、特に気にした様子もなく、静かに一歩近づいた。柔らかな視線のまま、手にしていた紙束を軽く持ち上げる。
「境界の村から、報告が届いたわ。隣領の者たちが、石碑を動かしたそうよ」
父から聞かされた侵犯の話を思い出して、ギデオンは、思いっきり眉をひそめた。どうやら石碑はじわじわと動かされ続けているらしい。
「ふぅん」と気のない返事をするギデオンに、リネアは「行かないの?」と首を傾げた。
「行ってもいいけどね。結局やることって、その動かされた石碑を元の位置に戻せばいいんだろう?」
侵された土地があるなら、境界を正しい位置に戻す。それ以上に単純で実務的な解決策があるだろうか。争いの何だのと騒ぐ前に、まず物理的に線を引き直すほうが早い。
「……そういう遊びじゃないのよ」
リネアは、思わずといった様子で、くすっと笑った。石碑を動かされるたびに戻しに行く夫、という絵面を想像したのだろう。ギデオンのほうも、その光景が脳裏に浮かんで、内心げんなりする。
(馬に乗せられて、村まで運ばれて、石碑を押して……。いや、これは確かに遊びではない。重労働だ)
だが、リネアの笑いはすぐに消えた。口元の緩みをぴしりと引き締め、真面目な顔に戻る。
「これは、明らかな宣戦布告だと思うの。境界線を動かすというのは、単に石をずらしただけじゃない。こっちの出方を試している。ここで何も言わなければ、今度は飲み込まれるわ」
ギデオンは、椅子に座ったまま指先で肘掛けを叩く。宣戦布告、という言葉は、彼の耳にはどうにも好ましく響かない。
「……そうは言ってもさ。何か言っても聞く耳持たなかった相手なんだろう?」
父の言葉を思い出しながら、反芻するように問う。リネアは、短く頷いた。
「だったら、もう何しても無駄だと思うけどね」
「この件は、お義父様に託されているのに、見逃すの? 痛いのは嫌だというのはよく分かったけど、そうも言ってられないと思うのよ。それにギデオン、よく考えてみて。あなたが上手く片付けたら、ご家族の評価があがると思うの」
「いいよ、上がらなくても」
ぶっきらぼうに言い捨てたつもりだったが、どこか力の抜けた響きになった。リネアはしばらく彼を見つめ、不意に笑みを濃く刻んだ。
「ねぇ、ギデオン。これは寧ろ好機なのよ。あなたって、自分で思っている以上に見せ方が上手いわ。立っているだけで場が締まるし、言葉を選べば、人を黙らせるくらいのことは簡単にできる。私が裏で道を整える。誰に何を言わせるかも、全部考えておく。あなたは、仕立ての良い服を着て馬に乗って、相手の前に出て、最後に一言で場を決めればいい。その一歩を踏み出したあなたを、私はもっと高いところまで連れていってあげるわ」
囁くように、甘く紡がれたその台詞は、よく研がれていた。
真っ直ぐに飛んできて、ギデオンの自尊心の表面を心地よくなぞっていく。ギデオンは、視線を宙にさ迷わせた。彼女の言う「高いところ」の景色を、無意識に思い浮かべてしまう。
境界の村で整えた服に身を包んで馬上に立ち、前には石碑と、こちらをうかがう隣領の使者たち。
その視線をまとめて引き受けて、一言で場を収める自分。
(……似合わなくは、ない)
いや、それどころか、寧ろ最高に似合うし絵になる。痛いのも汗臭いのも責任も大嫌いだ。そう思いながらも、頭の中ではすでに、場に立つための衣装を選び始めていた。
どの色が境界の荒れた風景に映えるか。どの布地なら皺になりにくいか。
「……本当に、裏は任せていいんだね」
ギデオンの問いかけに、リネアは力強く頷いた。
「もちろん。情報も、人も、準備も。いざという時に困らないように、全部揃えておく」
ギデオンは、膝の上で組んでいた指をほどいた。こわばっていた力が、少しだけ抜け、代わりに、胸のどこかがざわめき始める。
「高いところ」という言葉が、妙に耳に残っていた。そこは、自分はまだ辿り着いていない場所だと分かっていた。メルローズ家の三男坊ではなく、領民にとって立派な領主として見られる位置。
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