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31:背後の気配
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翌朝、ギデオンとリネアは、メルローズ家の常備兵二人と共に境界の村へ向かっていた。
よく訓練された常備兵たちが背筋を伸ばして馬を進め、その少し後ろ、三頭目の馬にはギデオンとリネアが二人乗りしている。前に座っているのは当然ギデオンであり、後ろから手綱を握り、ついでに彼の腰までしっかり支えているのはリネアだ。
ギデオンは、馬の歩みに合わせて僅かに揺れる身体を、無意識に固くしていた。昨日より幾分か慣れたとはいえ、馬上で優雅に微笑む境地には、まだ遠い。バランスを崩しかけるたび、背中に感じるリネアの手が、腰を押さえてくる。
常備兵たちは、前方で黙って道を開き、振り向きもしない。余計なことを言わないあたり、優秀と言えば優秀だが、こうまで徹底して見て見ぬふりをされると、かえって落ち着かない。
(……いっそ一言くらい、突っ込んでもらったほうが気が楽かもしれないな)
「奥様に支えられて、ご安心ですね」だの「頼もしい奥様ですね」だの、何かしら言われたほうが、まだ自分で皮肉を返す余地がある。沈黙のほうがよほど残酷だ。黙っているということは、つまり「見なかったことにする」という判断が下されているわけで、それはそれで評価としてなかなか厳しい。
「そんなに肩に力を入れなくても、大丈夫よ」
「君に支えられて馬に乗るなんて、僕の美学からすると完全に想定外なんだよ」
「知っているわ。でも今日は、体裁を取り繕っている場合じゃないでしょう?」
柔らかな声色のまま、ぴしゃりと本質だけを突いてくる。ギデオンが言葉を探しているうちに、リネアの片手が、ふと腰から離れた。何事かと瞬きをすると、その手が前へと伸び、ギデオンの頭に触れた。
「……っ、ちょ、やめ」
くしゃり、と。
丁寧に整えてきた髪に、指が遠慮なく差し込まれた。きちんと撫でるというより、若干乱すほうに傾いた動きである。せっかく鏡の前で時間をかけて作った完璧な前髪が、あっという間にその役目を終えた。
「髪を乱すな。やめろよっ」
「少しくらい乱れていた方がいいわ。むしろ、きちんと整えすぎているときより、このほうが頼もしく見える」
「慰めになっていない」
即座に反論したつもりだったが、喉の奥に、変な温かさが張りついた。抗議しているのに、なぜか肩のあたりだけが、ほんの少し軽くなる。
王子は自分ではなくて彼女の方ではないかと、そんな考えが頭をよぎり、慌てて振り払う。認めたら最後、もう二度と立場が戻ってこない気がした。
やがて道の先に境界を成す、なだらかな丘が見え始めた。
斜面には細長い畑が段々に切り開かれ、その合間を縫うように低い石垣と用水路が走っている。所々に立つ小さな石の柱は、どれも境界標だった。
村はずれの丘の中腹まで来ると、常備兵が馬を止めた。遠目にも、目的の石碑が本来あるべき位置からずれているのが分かる。元々は緩やかな傾斜の真ん中に直立しているはずのそれが、今は斜面の下方へと傾き、土の上には引きずられた跡が生々しく残っていた。
ギデオンは眉をひそめた。石碑の影が伸びている先、その向こう一帯が、隣領ルーソン家の支配する土地である。
リネアに手を取られて馬を降りたギデオンは、足元の地面を一度踏みしめた。常備兵二人も馬から降り、石碑の周囲を一周して確かめると、無言で顔を見合わせた。
「……まあ、やることは一つだろうね」
ギデオンは、ため息まじりに言った。
境界線が動かされたのなら、元に戻す。それ以外に、当座の対処はない。
「よし、戻そう。ほら、君たちやってくれ」
使用人に指示を出すのと同じ調子で常備兵に言う。するとリネアにひょいっと襟首を掴まれた。
「ギデオンもやるの」
襟首を軽く引かれ、ギデオンは半歩ほど後ろに引き戻された。まるで逃げようとした子供を捕まえられたような格好だ。
「……いや、僕は指示を出す側だから」
「領主が自分の領地の境界を動かされたのよ。あなたが手を添えないでどうするの」
正論だった。
ギデオンは空を仰ぎ、それから観念して石碑のほうに向き直った。近くで見ると、想像していた以上に大きく、そして重そうだ。これを押し戻す作業に、自分の腕力がどれほど役に立つのか、正直かなり心もとなかった。
常備兵たちは無言で反対側に回り込み、腰を落として構える。リネアも同じように、石の脇に手を添えた。華奢な指先だが、その姿勢には迷いがなく、妙な頼もしさがあった。
掛け声と共に石碑がぐらりと揺れ、土の上を引きずられる。靴の裏が地面を滑りそうになり、思わず歯を食いしばる。肩が軋み、背筋が悲鳴を上げた。
それでも何度か体勢を立て直しながら押し続けるうち、石碑は、元の基礎の上に戻った。足元の土が落ち着き、石の重みがどっしりと収まり、ギデオンは大きく息を吐いた。
「……やっと、終わった。これで、とりあえずの仕事は完了だ。さあ、早く帰ろう」
ギデオンは早々に馬へ視線を向けた。日が高いうちに屋敷へ戻り、風呂に入り、お茶でもしようかと逡巡していると、隣で石碑を見上げていたリネアが、ふと背後に視線を向けた。その目が、すっと細くなる。ギデオンも遅れて振り返った。
よく訓練された常備兵たちが背筋を伸ばして馬を進め、その少し後ろ、三頭目の馬にはギデオンとリネアが二人乗りしている。前に座っているのは当然ギデオンであり、後ろから手綱を握り、ついでに彼の腰までしっかり支えているのはリネアだ。
ギデオンは、馬の歩みに合わせて僅かに揺れる身体を、無意識に固くしていた。昨日より幾分か慣れたとはいえ、馬上で優雅に微笑む境地には、まだ遠い。バランスを崩しかけるたび、背中に感じるリネアの手が、腰を押さえてくる。
常備兵たちは、前方で黙って道を開き、振り向きもしない。余計なことを言わないあたり、優秀と言えば優秀だが、こうまで徹底して見て見ぬふりをされると、かえって落ち着かない。
(……いっそ一言くらい、突っ込んでもらったほうが気が楽かもしれないな)
「奥様に支えられて、ご安心ですね」だの「頼もしい奥様ですね」だの、何かしら言われたほうが、まだ自分で皮肉を返す余地がある。沈黙のほうがよほど残酷だ。黙っているということは、つまり「見なかったことにする」という判断が下されているわけで、それはそれで評価としてなかなか厳しい。
「そんなに肩に力を入れなくても、大丈夫よ」
「君に支えられて馬に乗るなんて、僕の美学からすると完全に想定外なんだよ」
「知っているわ。でも今日は、体裁を取り繕っている場合じゃないでしょう?」
柔らかな声色のまま、ぴしゃりと本質だけを突いてくる。ギデオンが言葉を探しているうちに、リネアの片手が、ふと腰から離れた。何事かと瞬きをすると、その手が前へと伸び、ギデオンの頭に触れた。
「……っ、ちょ、やめ」
くしゃり、と。
丁寧に整えてきた髪に、指が遠慮なく差し込まれた。きちんと撫でるというより、若干乱すほうに傾いた動きである。せっかく鏡の前で時間をかけて作った完璧な前髪が、あっという間にその役目を終えた。
「髪を乱すな。やめろよっ」
「少しくらい乱れていた方がいいわ。むしろ、きちんと整えすぎているときより、このほうが頼もしく見える」
「慰めになっていない」
即座に反論したつもりだったが、喉の奥に、変な温かさが張りついた。抗議しているのに、なぜか肩のあたりだけが、ほんの少し軽くなる。
王子は自分ではなくて彼女の方ではないかと、そんな考えが頭をよぎり、慌てて振り払う。認めたら最後、もう二度と立場が戻ってこない気がした。
やがて道の先に境界を成す、なだらかな丘が見え始めた。
斜面には細長い畑が段々に切り開かれ、その合間を縫うように低い石垣と用水路が走っている。所々に立つ小さな石の柱は、どれも境界標だった。
村はずれの丘の中腹まで来ると、常備兵が馬を止めた。遠目にも、目的の石碑が本来あるべき位置からずれているのが分かる。元々は緩やかな傾斜の真ん中に直立しているはずのそれが、今は斜面の下方へと傾き、土の上には引きずられた跡が生々しく残っていた。
ギデオンは眉をひそめた。石碑の影が伸びている先、その向こう一帯が、隣領ルーソン家の支配する土地である。
リネアに手を取られて馬を降りたギデオンは、足元の地面を一度踏みしめた。常備兵二人も馬から降り、石碑の周囲を一周して確かめると、無言で顔を見合わせた。
「……まあ、やることは一つだろうね」
ギデオンは、ため息まじりに言った。
境界線が動かされたのなら、元に戻す。それ以外に、当座の対処はない。
「よし、戻そう。ほら、君たちやってくれ」
使用人に指示を出すのと同じ調子で常備兵に言う。するとリネアにひょいっと襟首を掴まれた。
「ギデオンもやるの」
襟首を軽く引かれ、ギデオンは半歩ほど後ろに引き戻された。まるで逃げようとした子供を捕まえられたような格好だ。
「……いや、僕は指示を出す側だから」
「領主が自分の領地の境界を動かされたのよ。あなたが手を添えないでどうするの」
正論だった。
ギデオンは空を仰ぎ、それから観念して石碑のほうに向き直った。近くで見ると、想像していた以上に大きく、そして重そうだ。これを押し戻す作業に、自分の腕力がどれほど役に立つのか、正直かなり心もとなかった。
常備兵たちは無言で反対側に回り込み、腰を落として構える。リネアも同じように、石の脇に手を添えた。華奢な指先だが、その姿勢には迷いがなく、妙な頼もしさがあった。
掛け声と共に石碑がぐらりと揺れ、土の上を引きずられる。靴の裏が地面を滑りそうになり、思わず歯を食いしばる。肩が軋み、背筋が悲鳴を上げた。
それでも何度か体勢を立て直しながら押し続けるうち、石碑は、元の基礎の上に戻った。足元の土が落ち着き、石の重みがどっしりと収まり、ギデオンは大きく息を吐いた。
「……やっと、終わった。これで、とりあえずの仕事は完了だ。さあ、早く帰ろう」
ギデオンは早々に馬へ視線を向けた。日が高いうちに屋敷へ戻り、風呂に入り、お茶でもしようかと逡巡していると、隣で石碑を見上げていたリネアが、ふと背後に視線を向けた。その目が、すっと細くなる。ギデオンも遅れて振り返った。
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