正しい駄犬のしつけ方〜浮気性な放蕩夫と没落令嬢の新婚譚〜

山田わと

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32:静かな騒乱

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 いつの間にか、丘の斜面を下った先から、数騎の馬がこちらに向かってきたのだ。土埃をあげながら、三人の男たちが馬を進めてくる。胸には意匠の入った革鎧、肩には暗い赤の布が巻きつけられている。
 先頭の男が馬を止め、こちらを見下すようにして顎をしゃくった。口元には、人を値踏みするときの笑いが浮かんでいる。

「おや、これは。メルローズ家のお坊っちゃんじゃないか。こんなところで、何をしておいでだ?」

 お坊っちゃん、と言われて、ギデオンの眉がわずかに動いた。だが声を荒らげるのは得策ではない。できるだけ平静に言い返す。

「見て分からないか? 倒れていた石碑を、元の位置に戻しただけだよ」
「元の位置、ね」
 男は、鼻で笑った。後ろの二人も、目配せを交わしながら、似たような笑みを浮かべる。

「そこは、我らがルーソン家のご領地だと聞いているが。勝手に石を動かされては、困るんだがな」

 ギデオンは、心の中で深いため息をついた。父から聞かされていた通りの展開だ。
 言い返そうと思えば、いくらでも言い返せる。実際、古い地図を持ち出せば、この丘の線引きがどちらのものかは一目瞭然だ。

 だが、ここで「ここはメルローズ領だ」ときっぱり言い切れば、相手も黙ってはいない。
 怒鳴り合いになり、挙げ句に剣まで抜かれでもしたら、真っ先に刃先を向けられるのは自分だ。そんな展開だけは、どうあっても避けたい。

「ここをルーソン領と主張したいなら、まず地図と記録を揃えてからにしてくれよ」
 ギデオンの返答に、男はわざとらしく肩を竦めた。

「……女の腰にしがみついて馬に乗っていた癖に、生意気言うじゃないか、お坊ちゃん」
 嫌な言い方だった。声の調子と目つきが、露骨に嘲りを含んでいる。後ろの私兵の一人が、わざとらしく笑い声を漏らした。
 どこから見られていたのだろうかと、ギデオンは息を詰まらせた。
 だが、ここで反論したところで、相手が改心するわけではない。
 むしろ、こちらが怒ったことを喜んで面白がる類の人間だ。
 そんなことは分かっている。分かっていながらも、自尊心というものは勝手に傷つく。

 そのとき、隣でリネアが一歩前に出た。

「この石碑の位置は、代々の地図で定められている。あなた方がどれほど言葉を飾っても、境界線は移動しないわ。勝手に石を動かした時点で、メルローズ家の領地を侵犯したことになる」

 その声には、感情の波がほとんどなかった。怒っている、と断言するには静かすぎる。だが、静かだからこそ、言葉の一つひとつがよく通った。風が止み、丘全体が彼女の言葉を聞いているような錯覚さえする。

「リネア……」

 ギデオンは、小さく呻く。
 そんなふうに、とても正しいことを、はっきりと言うのは、やめて欲しいと内心思う。
 彼女の言うことは正しい。境界線を勝手に動かしていいはずがない。理屈だけ見れば、完全にこちらが正義である。
 ただ、世の中は理屈だけで動かない。鼻持ちならない隣人というものは、たいていの場合、自分が悪いとは思っていない。今、この場で彼らに自省を促すのは、天から雷を落とすより難しい。
 男達が、きょとんと目を瞬く。それから、笑いを押し殺すように口角を引き上げた。

「……おい、女。自分の立場は分かっているのか? ここで偉そうな口を利けるのは、家名を持つ者だけだ。あんたは、誰なんだ?」
「私はギデオン・メルローズの妻。リネア・メルローズよ」
 リネアは、そのまま踏み出した。背筋を伸ばし、涼やかな目を細める。

「それよりも私兵に過ぎないあなた方が、彼を馬鹿にして、笑いものにした。その無礼が許されると、本気で思っているのかしら。ルーソン家が、あなた達のような安っぽい嘲りと脅しをする兵に支えられているだなんて、ビックリだわ」
「リ、リネア。そこまででいい。本当にもういいから。これ以上は、やめろ」
「言葉が強いな。夫の代わりに喧嘩を売るつもりか?」
「買える度胸なんてない癖に」

 リネアは、ほんの少しだけ唇の端を上げて言った。
 声は相変わらず穏やかで、子供に諭すような調子だ。しかし言葉の中身だけは、見事なくらい火に油を注いでいる。

「……何だと?」
 男の眉間がぎゅっと寄る。
 ギデオンは、その変化を見て、背中に冷たい汗がつうっと伝うのを感じた。これは間違いなく、面倒な方向に転がっていくと直観した。

「面白いことを言う口だな、女」
 男は吐き捨てるように言い、ギデオンのほうを指先で示した。

「だが、家名を背負っているのはお坊ちゃんのほうだ。おい、ギデオンさん。妻に吠えさせておいて、アンタは後ろに隠れるつもりか?」
「隠れているですって?」
 リネアが首を少しだけ傾けた。その仕草は、まるで相手の言葉が理解できないと言わんばかりに優雅だ。

「あなた方の矢面に立たせるには、彼は少々惜しいの。安い喧嘩に、彼を出す必要はないでしょう?」
「舐めやがって」
 男の顔から、ついに笑みが消えた。
 次の瞬間、鞘走る金属音が丘の静けさを裂く。男が剣を抜き、馬上からそのままギデオンに向かって切りかかってきたのだ。

 光が、刃の輪郭に一瞬だけ閃いた。

(ほら来た! だから言ったのに!!)

 ギデオンは、思考の半分で悲鳴を上げ、残りの半分で「これだから現場は嫌なんだ」と場違いな愚痴を漏らしていた。
 体は反射的に後ろへと引いたものの、斜面の途中という悪条件が災いして、足元が土を踏み外す。視界がぐらりと傾き、剣の軌道と自分の胸元が、嫌というほど近づいた。

「ギデオン様!」

 常備兵のひとりが叫び、腰の剣に手をかけて前へ躍り出る。
 だが、彼の動きよりも、馬上から振り下ろされる刃のほうが早かった。
 刺される、と、ぎゅっと目をつぶるギデオンだが、肩を強く後ろへ引かれる。同時に、甲高い金属音が空気を裂いた。
 彼の目の前すれすれで、二本の剣が火花を散らしている。

「……え?」

 状況を理解するのに、一拍分の時間が必要だった。
 常備兵の一人が、片手の剣を失って呆然と立ち尽くし、その少し前で、リネアがその剣を構えている。

 どうやら彼女は、常備兵の腰から素早く剣を抜き取り、そのまま男の一撃を受け止めたらしい。

「リ、リネア……!」

 彼女は何をしているのか。そして、どうしてこんなに楽しそうでいられるのか。
 ギデオンは、訳の分からない戸惑いを覚えた。
 リネアは、剣の柄を握る指先に力をこめ、かすかに口角を吊り上げている。頬には何も塗っていないのに、先ほどよりも色づいて見えた。
 瞳の奥で光が細く揺れている。理性はまだ確かにそこにあるのに、そのさらに奥へ、血の匂いに触れた獣のような昂りがじわじわと混じり込んでいる。

 その生気の強さに、ギデオンは、隣に立つのが本当に自分の知っている妻なのかどうか、思わず疑いたくなった。
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