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37:知らないふりの恋心
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「……僕はね」
ギデオンは、リネアの肩に顔を押し付けたまま、ぼそりと呟いた。リネアは姿勢を崩さず、彼の髪に指を通しながら耳を傾ける。
「本当は、こんなの嫌なんだ。領地の防衛だの、責任だの、戦だの、そんなの全部嫌で嫌でたまらないんだ。僕は領主になりたくてなったわけじゃない。争いごとや面倒ごとなんかとは無縁の場所で生きるはずだったんだ。暖かくて、柔らかくて、楽しくて、軽くて……。そういう環境で、優雅に暮らす予定だったんだよ」
ギデオンの人生計画は、誰よりも自分に甘い設計図で塗りつぶされていた。
その図面のどこを探しても、戦場の印など一つも描いた覚えはない。
酔いが回った頭は、その恨み言を次から次へと勝手に言葉に変え、舌の上に乗せていった。
リネアは、短く息を吐いた。その手が、ギデオンの頭の後ろにまわる。
指が髪を梳く動きは、あやすようでありながら、どこか犬を落ち着かせる時のものに似ていた。良い子には違いないが、躾に手のかかる犬。
「でもね、優雅に暮らしたいなら、働かないと駄目なの。まず働いて、その後で気兼ねなく優雅でいられるのよ」
「そんな決まり、誰が勝手に作ったんだよ」
「作った人の顔は知らないけれど、少なくとも今はそういうふうに世の中が回っているわ。私たちは、その中でやるしかないの」
正しいことを言われているのは分かるのに、酔った耳には、どうしても理不尽に聞こえる。
ギデオンは床に片膝をつき、そのままリネアの膝の上に頭を乗せる。
「……でも、ギデオンは私が守るから大丈夫。そんなに心配しないで」
頭の上から、静かな声が降ってきた。
守る、という言葉にベルの姿が鮮明に蘇った。潤んだ瞳と震える肩。そして頬に走った熱。
「そういえばさ」
ギデオンは、膝に押しつけていた顔を少しだけ持ち上げた。視界の端で、地図の線が揺れる。
「ベルに怒られたんだよ。リネアを守るのは、本当は僕の役目だって。もし君が大怪我をしたり、帰らなくなったりしたら、どうするつもりなのかって。……それで、そのとき、僕は言ったんだ。もしリネアがいなくなったら、新しい妻でも迎えるよってね……。でも、本当は違うんだ……。君が怪我をするのは嫌だし、帰らないなんて、もっと嫌だ。嫌に決まっている。そんなの、考えたくもない」
口が勝手に話を続けるのを、もう一人の自分が他人事のように見守っていた。
なぜこんなことを喋っているのかと、それを不思議そうに見ている。けれど、酔いは冷静さよりずっと饒舌だった。言葉は止まらない。
「だから、ベルの前で言ったことは、ただの強がりなんだよ」
リネアの指が、前髪を軽くつまんだ。彼女はしばらく黙り、じっとギデオンを見下ろしていた。やがて、静かな声が落ちる。
「ギデオンは、私のことを好きじゃないと思っていたわ」
「それは、そうだよ」
ギデオンは即答した。
「君は親が勝手に決めた相手だ。最初から好きでも何でもなかった。今だって、好きだってきっぱり言い切れるかどうかは分からない。そもそも僕は、好かれる側であって、自分から好きになった事なんてないんだ」
リネアはほんの少しだけ目を細めただけで、続きを待っている。ギデオンは膝に額を戻し、言葉を探した。
「ただ、この気持ちが何なのか、もっと分からないんだよ。分からないのに、気がつくと君のことを考えている。何をしているのか気になるし、どこにいるのか目で追っている。僕はもっと、自分の髪型とか、靴の艶とか、そういう大事なことに集中したいんだ。なのに、君が勝手に入り込んでくるんだ。はっきり言って、侵害だよ」
「……それを人は、どう呼ぶのかしら」
リネアは、かすかに笑いながら呟いた。ギデオンはゆっくりと顔をあげた。
その答えはあまりにも単純だった。世間ではずっと前から、それを「恋」と呼んでいる。
「知らないよ。そんな言葉、言いたくない」
ギデオンは、不機嫌そうに口を尖らせた。酔っていても、自尊心はまだしぶとく生きている。
リネアはギデオンの頬に手を添えた。膝に乗せていた頭を、そっと持ち上げさせる。
視線が合う。酔いで世界がわずかに揺れているのに、彼女の瞳だけはやけにはっきりと見えた。
リネアは身を屈める。柔らかな感触が、ギデオンの唇に重なった。
触れて、確かめて、名残惜しさを少しだけ残して離れる程度の、軽い口づけだった
「……リネア。……僕を守るのもいいけど、君も怪我したりしたらダメだよ」
ギデオンは、どうにか声を絞り出した。リネアは、笑みを崩さないまま彼を見つめた。
そして、何かを言った。
声が耳に届く。
意味を持つ音列として確かに存在しているはずなのに、酒のせいで緩んだ意識の中で、うまく形を結ばない。大事なことを言われたような感覚だけが残り、肝心の言葉が指の間からこぼれていく。
「……今、なんて言った?」
瞼の重さと戦いながら聞き返した。自分の声が少し滲んでいる。
リネアは、彼の髪をもう一度撫でた。答えの代わりに、静かな微笑だけを落とす。唇は動かない。
ギデオンは、納得のいかなさを胸のどこかに抱えながら、それ以上問いを重ねることができなかった。
瞼が閉じる。意識がゆっくり沈んでいく。膝の上で、彼の寝息がほんの少しだけ乱れた。
ギデオンは、リネアの肩に顔を押し付けたまま、ぼそりと呟いた。リネアは姿勢を崩さず、彼の髪に指を通しながら耳を傾ける。
「本当は、こんなの嫌なんだ。領地の防衛だの、責任だの、戦だの、そんなの全部嫌で嫌でたまらないんだ。僕は領主になりたくてなったわけじゃない。争いごとや面倒ごとなんかとは無縁の場所で生きるはずだったんだ。暖かくて、柔らかくて、楽しくて、軽くて……。そういう環境で、優雅に暮らす予定だったんだよ」
ギデオンの人生計画は、誰よりも自分に甘い設計図で塗りつぶされていた。
その図面のどこを探しても、戦場の印など一つも描いた覚えはない。
酔いが回った頭は、その恨み言を次から次へと勝手に言葉に変え、舌の上に乗せていった。
リネアは、短く息を吐いた。その手が、ギデオンの頭の後ろにまわる。
指が髪を梳く動きは、あやすようでありながら、どこか犬を落ち着かせる時のものに似ていた。良い子には違いないが、躾に手のかかる犬。
「でもね、優雅に暮らしたいなら、働かないと駄目なの。まず働いて、その後で気兼ねなく優雅でいられるのよ」
「そんな決まり、誰が勝手に作ったんだよ」
「作った人の顔は知らないけれど、少なくとも今はそういうふうに世の中が回っているわ。私たちは、その中でやるしかないの」
正しいことを言われているのは分かるのに、酔った耳には、どうしても理不尽に聞こえる。
ギデオンは床に片膝をつき、そのままリネアの膝の上に頭を乗せる。
「……でも、ギデオンは私が守るから大丈夫。そんなに心配しないで」
頭の上から、静かな声が降ってきた。
守る、という言葉にベルの姿が鮮明に蘇った。潤んだ瞳と震える肩。そして頬に走った熱。
「そういえばさ」
ギデオンは、膝に押しつけていた顔を少しだけ持ち上げた。視界の端で、地図の線が揺れる。
「ベルに怒られたんだよ。リネアを守るのは、本当は僕の役目だって。もし君が大怪我をしたり、帰らなくなったりしたら、どうするつもりなのかって。……それで、そのとき、僕は言ったんだ。もしリネアがいなくなったら、新しい妻でも迎えるよってね……。でも、本当は違うんだ……。君が怪我をするのは嫌だし、帰らないなんて、もっと嫌だ。嫌に決まっている。そんなの、考えたくもない」
口が勝手に話を続けるのを、もう一人の自分が他人事のように見守っていた。
なぜこんなことを喋っているのかと、それを不思議そうに見ている。けれど、酔いは冷静さよりずっと饒舌だった。言葉は止まらない。
「だから、ベルの前で言ったことは、ただの強がりなんだよ」
リネアの指が、前髪を軽くつまんだ。彼女はしばらく黙り、じっとギデオンを見下ろしていた。やがて、静かな声が落ちる。
「ギデオンは、私のことを好きじゃないと思っていたわ」
「それは、そうだよ」
ギデオンは即答した。
「君は親が勝手に決めた相手だ。最初から好きでも何でもなかった。今だって、好きだってきっぱり言い切れるかどうかは分からない。そもそも僕は、好かれる側であって、自分から好きになった事なんてないんだ」
リネアはほんの少しだけ目を細めただけで、続きを待っている。ギデオンは膝に額を戻し、言葉を探した。
「ただ、この気持ちが何なのか、もっと分からないんだよ。分からないのに、気がつくと君のことを考えている。何をしているのか気になるし、どこにいるのか目で追っている。僕はもっと、自分の髪型とか、靴の艶とか、そういう大事なことに集中したいんだ。なのに、君が勝手に入り込んでくるんだ。はっきり言って、侵害だよ」
「……それを人は、どう呼ぶのかしら」
リネアは、かすかに笑いながら呟いた。ギデオンはゆっくりと顔をあげた。
その答えはあまりにも単純だった。世間ではずっと前から、それを「恋」と呼んでいる。
「知らないよ。そんな言葉、言いたくない」
ギデオンは、不機嫌そうに口を尖らせた。酔っていても、自尊心はまだしぶとく生きている。
リネアはギデオンの頬に手を添えた。膝に乗せていた頭を、そっと持ち上げさせる。
視線が合う。酔いで世界がわずかに揺れているのに、彼女の瞳だけはやけにはっきりと見えた。
リネアは身を屈める。柔らかな感触が、ギデオンの唇に重なった。
触れて、確かめて、名残惜しさを少しだけ残して離れる程度の、軽い口づけだった
「……リネア。……僕を守るのもいいけど、君も怪我したりしたらダメだよ」
ギデオンは、どうにか声を絞り出した。リネアは、笑みを崩さないまま彼を見つめた。
そして、何かを言った。
声が耳に届く。
意味を持つ音列として確かに存在しているはずなのに、酒のせいで緩んだ意識の中で、うまく形を結ばない。大事なことを言われたような感覚だけが残り、肝心の言葉が指の間からこぼれていく。
「……今、なんて言った?」
瞼の重さと戦いながら聞き返した。自分の声が少し滲んでいる。
リネアは、彼の髪をもう一度撫でた。答えの代わりに、静かな微笑だけを落とす。唇は動かない。
ギデオンは、納得のいかなさを胸のどこかに抱えながら、それ以上問いを重ねることができなかった。
瞼が閉じる。意識がゆっくり沈んでいく。膝の上で、彼の寝息がほんの少しだけ乱れた。
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