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38:正反対の望み
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膝の上で、ギデオンの寝息が規則正しく上下していた。
重みは決して軽くなかったが、リネアはそれを煩わしいとは感じなかった。片手で彼の髪をゆっくりと梳き、もう片方の手で、すべり落ちかけた肩口の上着を整える。
さっきまで、ギデオンは随分とよく喋っていた。
いかに境争地に行きたくないか、子どものように不満を並べ立てていたのに、最後のほうで口からこぼれた言葉は、驚くほど真面目だった。
『君が怪我をするのは嫌だし、帰らないなんて、もっと嫌だ』
リネアは膝の上の頭を見下ろし、先程の言葉を心の中でなぞった。
この結婚は、最初から恋愛の物語ではなかった。
親同士が決めた縁談で、互いに情熱的な期待など抱いていない。日々を普通にやり過ごせればいい。その程度の距離感で十分だと、リネアは思っていたし、今もその考え自体は変わっていない。
それなのに、怪我をするのは嫌だと言われて、わずかに心が揺れた。嬉しい、と感じた自分に気づいたのだ。
こちらに向けられている感情が、当人にとっては「恋」と呼びたくないものであっても、その中身がどう見てもそれに近いことくらい、分かっていた。
それでも好きではないと言い張るところまで含めて、面倒な人だと思いながら、ギデオンの頭を撫でる。
そうしながら彼が眠りに落ちる直前に囁いた、自分自身の言葉を思い返した。
『……リネア。……僕を守るのもいいけど、君も怪我したりしたらダメだよ』
子どものように真剣な顔で、そう告げてきたギデオンに、リネアは言ったのだ。
『怪我をしない約束はできないわ、ごめんね』と。
彼の耳元でそう告げた時には、もう意識が半分沈んでいたのだろう。問い返したくせに、答えは聞き取らないまま眠り込んでしまった。
ギデオンが争いを嫌うのは、生まれついての性分なのだろう。
暖かくて柔らかくて楽な場所で、虚栄と自己愛と、たっぷりの快適さに囲まれて生きていきたいという望みは、いかにも彼らしい。あの手紙を読み終えたときの顔は、素直な嫌悪の色が勝っていた。
一方で、自分はどうか。
リネアは、ゆっくりと視線を机の上の地図へと移した。
境界線を示す赤い線に、その先に並ぶ村の名、兵の数。紙の上に描かれた配備図を眺めると、腹の底のどこかが静かに高揚するのを、彼女は知っている。
命を賭ける行為そのものを、リネアは怖いと思ったことがなかった。
それは、幼い頃に親戚の家を訪れた際、些細な揉め事が大きな抗争へと変わり、刃物と怒号が飛び交う場に居合わせた経験が影響しているのかもしれない。
あの時、周囲の大人たちは顔を青ざめさせて逃げ惑ったが、リネアは、その状況を恐ろしいものとして受け取れなかった。胸の奥が不思議なほど静かで、目の前の光景にただ輪郭の鮮明さだけを感じていた。
悲痛な叫び声。倒れる気配。血が土に吸い込まれる時の、生温い匂い。
それらに嫌悪は湧かず、むしろ、そこに身を置いているときにこそ、自分の存在が最もはっきりするような気がしたのだ。
自分はどこか歪んでいるのだと、その時、思った。
ギデオンが駄犬だとすれば、リネアはきっかけさえあれば、上機嫌で噛みつきに行く狂犬だ。
噛みついて肉を裂き、危険と隣り合わせの場所で走り回ることに、確かな愉悦を覚えてしまう。
そんな性質を、途中で違うものに作り替えることはできない。
いまさら穏やかな愛玩犬を装って、暖炉の前で丸くなるだけの役を演じ続ける器用さは、自分にはない。
膝の上の重みがわずかにずれた。リネアはそっと手を添え、ギデオンの頭の位置を整える。
頬にかかる髪を指で払うと、寝顔は驚くほど無防備だった。
先ほどまで自尊心と虚勢で張りつめていた表情は影も形もなく、僅かに開いた唇から、幼さの残る呼吸が漏れている。
彼は平穏を望み、自分は戦いを望む。
その二つを両立させるには、自分が前に出るしかない。前に出て、斬り結び、血の匂いの中で高揚し、その結果としてギデオンの望む「優雅な生活」の土台を整える。
それは、とても都合のいい理屈だ。自分の愉しみを、彼を守る義務と一緒くたにして正当化している。
(本当に、ごめんなさい)
心の中でそう呟きながら、リネアはギデオンの額に指先をそっと当てた。
彼は微かに眉を寄せたが、目は覚まさなかった。酒と疲れが、しっかりと意識を縛っている。
宣戦布告の手紙は、机の端で重ねられたままだ。
封蝋は既に割られ、文面も暗記に近いほど読み返した。
近いうちに、境の丘で武装した者たちが向かい合い、血が流れる。その場に、リネアは確実に立っているだろう。ギデオンの望む未来からは、ほど遠い光景の中で。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
「……ごめんね、ギデオン」
眠る夫の名を呼び、リネアはかすかな声で謝った。
その謝罪は、彼に届くことを期待したものではない。ただ、自分の歪みと、これから選ぶ道筋に対する、ささやかな礼儀のつもりだった。
重みは決して軽くなかったが、リネアはそれを煩わしいとは感じなかった。片手で彼の髪をゆっくりと梳き、もう片方の手で、すべり落ちかけた肩口の上着を整える。
さっきまで、ギデオンは随分とよく喋っていた。
いかに境争地に行きたくないか、子どものように不満を並べ立てていたのに、最後のほうで口からこぼれた言葉は、驚くほど真面目だった。
『君が怪我をするのは嫌だし、帰らないなんて、もっと嫌だ』
リネアは膝の上の頭を見下ろし、先程の言葉を心の中でなぞった。
この結婚は、最初から恋愛の物語ではなかった。
親同士が決めた縁談で、互いに情熱的な期待など抱いていない。日々を普通にやり過ごせればいい。その程度の距離感で十分だと、リネアは思っていたし、今もその考え自体は変わっていない。
それなのに、怪我をするのは嫌だと言われて、わずかに心が揺れた。嬉しい、と感じた自分に気づいたのだ。
こちらに向けられている感情が、当人にとっては「恋」と呼びたくないものであっても、その中身がどう見てもそれに近いことくらい、分かっていた。
それでも好きではないと言い張るところまで含めて、面倒な人だと思いながら、ギデオンの頭を撫でる。
そうしながら彼が眠りに落ちる直前に囁いた、自分自身の言葉を思い返した。
『……リネア。……僕を守るのもいいけど、君も怪我したりしたらダメだよ』
子どものように真剣な顔で、そう告げてきたギデオンに、リネアは言ったのだ。
『怪我をしない約束はできないわ、ごめんね』と。
彼の耳元でそう告げた時には、もう意識が半分沈んでいたのだろう。問い返したくせに、答えは聞き取らないまま眠り込んでしまった。
ギデオンが争いを嫌うのは、生まれついての性分なのだろう。
暖かくて柔らかくて楽な場所で、虚栄と自己愛と、たっぷりの快適さに囲まれて生きていきたいという望みは、いかにも彼らしい。あの手紙を読み終えたときの顔は、素直な嫌悪の色が勝っていた。
一方で、自分はどうか。
リネアは、ゆっくりと視線を机の上の地図へと移した。
境界線を示す赤い線に、その先に並ぶ村の名、兵の数。紙の上に描かれた配備図を眺めると、腹の底のどこかが静かに高揚するのを、彼女は知っている。
命を賭ける行為そのものを、リネアは怖いと思ったことがなかった。
それは、幼い頃に親戚の家を訪れた際、些細な揉め事が大きな抗争へと変わり、刃物と怒号が飛び交う場に居合わせた経験が影響しているのかもしれない。
あの時、周囲の大人たちは顔を青ざめさせて逃げ惑ったが、リネアは、その状況を恐ろしいものとして受け取れなかった。胸の奥が不思議なほど静かで、目の前の光景にただ輪郭の鮮明さだけを感じていた。
悲痛な叫び声。倒れる気配。血が土に吸い込まれる時の、生温い匂い。
それらに嫌悪は湧かず、むしろ、そこに身を置いているときにこそ、自分の存在が最もはっきりするような気がしたのだ。
自分はどこか歪んでいるのだと、その時、思った。
ギデオンが駄犬だとすれば、リネアはきっかけさえあれば、上機嫌で噛みつきに行く狂犬だ。
噛みついて肉を裂き、危険と隣り合わせの場所で走り回ることに、確かな愉悦を覚えてしまう。
そんな性質を、途中で違うものに作り替えることはできない。
いまさら穏やかな愛玩犬を装って、暖炉の前で丸くなるだけの役を演じ続ける器用さは、自分にはない。
膝の上の重みがわずかにずれた。リネアはそっと手を添え、ギデオンの頭の位置を整える。
頬にかかる髪を指で払うと、寝顔は驚くほど無防備だった。
先ほどまで自尊心と虚勢で張りつめていた表情は影も形もなく、僅かに開いた唇から、幼さの残る呼吸が漏れている。
彼は平穏を望み、自分は戦いを望む。
その二つを両立させるには、自分が前に出るしかない。前に出て、斬り結び、血の匂いの中で高揚し、その結果としてギデオンの望む「優雅な生活」の土台を整える。
それは、とても都合のいい理屈だ。自分の愉しみを、彼を守る義務と一緒くたにして正当化している。
(本当に、ごめんなさい)
心の中でそう呟きながら、リネアはギデオンの額に指先をそっと当てた。
彼は微かに眉を寄せたが、目は覚まさなかった。酒と疲れが、しっかりと意識を縛っている。
宣戦布告の手紙は、机の端で重ねられたままだ。
封蝋は既に割られ、文面も暗記に近いほど読み返した。
近いうちに、境の丘で武装した者たちが向かい合い、血が流れる。その場に、リネアは確実に立っているだろう。ギデオンの望む未来からは、ほど遠い光景の中で。
それでも、足を止めるつもりはなかった。
「……ごめんね、ギデオン」
眠る夫の名を呼び、リネアはかすかな声で謝った。
その謝罪は、彼に届くことを期待したものではない。ただ、自分の歪みと、これから選ぶ道筋に対する、ささやかな礼儀のつもりだった。
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