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第1章
愛称
しおりを挟むユリウスはただ、呆然としていた。
目の前の現実が、あまりに唐突すぎて処理しきれなかったのだ。
この部屋にいるべきは、優しい友人であり、将来自分が生涯をかけて仕えるべき君主、カイエンであるはずだった。
だというのに、今、目の前で荷ほどきをしているのは、関わらなければいいと思っていた「異物」――途中転入生のレオナルドだった。
レオナルドは、こちらの動揺などどこ吹く風で、さくさくと手際よく荷物を片付けていく。
無駄のない動きだ。
反対側のベッド、デスク、そして棚。
先程までカイエンの私物が置かれていた場所が、見る見るうちにレオナルドの色に塗り替えられていく。
その光景は、ユリウスの聖域が侵食されていく様をまざまざと見せつけられているようだった。
(……騒いでも仕方がない。これは決定事項だ)
ようやく荷ほどきが一段落した頃、ユリウスは努めて冷静に息を吸い込んだ。
彼はルームメイトだ。
それ以上でも以下でもない。
適度な距離を保ち、互いの領域を侵さなければいい。
卒業までの辛抱だ。
そう自分に言い聞かせ、割り切って声をかける。
「……ユリウス・フォン・ローゼンタールだ。よろしく頼む」
形だけの挨拶のために右手を差し出す。
レオナルドは振り返ると、人懐っこい笑みを浮かべてその手を握り返してきた。
「ああ、よろしく」
ぎゅ、と握られた瞬間、ユリウスは微かに目を見開いた。
熱い。そして、硬い。
ユリウスも学院の授業で剣を握るし、それなりの鍛錬は積んでいるつもりだ。
だが、レオナルドの手は明らかに次元が違う「剣を握る者」の手だった。
節くれ立ち、分厚い皮膚の下には鋼のような骨格を感じる。
至近距離で見る彼は、やはり獅子のようだった。
笑うと覗く白い犬歯。
黒曜石の瞳。
動物的な力強さを放っているが、それは決して粗暴な野獣という意味ではない。
王者の風格を備えた、気高い百獣の王――そんな、洗練された野生を感じさせる男だった。
その獅子は、握った手を離さないまま、親しげにこう言った。
「ユリウスか。『ユーリ』と呼んでいいか? 俺のことは『レオ』でいい」
「……いや、私は貴方とそんな気安い関係になるつもりは……」
「ルームメイトになるんだぞ。少なくとも卒業までは一緒、そうだろう?毎日顔を合わせるのに、堅苦しい呼び名で呼び合うのは疲れるだけだ。仲良くしておいて損はないじゃないか」
レオナルドは、からかうでもなく、真面目な顔で続けた。
「合理的に考えろ、ユリウス」
合理的に。
その言葉を出されては、論理と秩序を重んじるユリウスとしては反論の矛先が鈍る。
確かに、ここで呼び名のことごときで揉めて、険悪な空気のまま生活するのは非効率的だ。
だが、ユリウスをそんな愛称で呼ぶ人間など、今まで誰一人としていなかった。
「氷の女王様」というあだ名は、誰も寄せ付けない絶対零度の壁の象徴だ。
あのカイエンでさえ、公私の境目を守るために、どれほど心を許しても愛称で呼び合うようなことはしなかった。
それが次期国王と宰相という立場の、超えてはならない一線だったからだ。
それを、この男は。
出会って数十分、握手を交わしただけのこの男は、いともたやすく土足で踏み越えてきた。
「…………名前くらい、好きにすればいい」
不本意さを隠しながら、ユリウスは溜息まじりにそう告げるのが精一杯だった。
「ああ。ありがとう、改めてよろしくな、ユーリ」
嬉しそうに目を細め、レオナルド――レオは、初めて呼ぶその愛称を口に馴染ませるように呟いた。
その響きが、妙に耳に残る。
完璧に整えられていたユリウスの生活は、これから味わったことのない速度で変わっていくのではないか。
そんな嫌な予感が、背筋を駆け抜けていった。
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