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第1章
甘い毒、あるいは熱
しおりを挟む夜の静寂に包まれた寮室で、ユリウスとレオナルドは二人きりだった。
ユリウスは机に向かい、淡々と今日の講義の復習と、明日の予習を進めていた。
ペン先が紙を走る規則的な音だけが、彼の世界を支配している。集中している時のユリウスは、周囲の雑音を完全に遮断する癖があった。
だから、いつの間にかレオナルドが音もなくベッドを抜け出し、背後まで距離を詰めていることに気づかなかった。
だが、急にハッとして顔を上げる。
気配を感じたからではない。なんだか、無視できない「匂い」が鼻腔をくすぐったからだ。
それは、なんとも表現できない香りだった。
果実のようでもあり、花の蜜のようでもある。
しかし、そのどちらとも違う。重厚で、それでいて脳の芯を痺れさせるような甘い香り。何に似ているとも言えないその芳香が、ふわりと漂ってきたのだ。
思わず横を向くと、そこにはすでにレオナルドが立っていた。
あまりに近い距離に、ユリウスは驚いて背筋を伸ばす。
「……何だ、レオナルド」
「『レオ』だろ? ユーリ。そろそろ慣れてもいい頃じゃないか」
レオナルドは片手で机の端をつき、楽しげに訂正を求めてくる。
ユリウスは小さく溜息をつき、視線をノートに戻した。
「…………レオ。私は今、勉強しているんだ。邪魔しないでくれ」
「なあ、せっかくのルームメイトで、同じ学年なんだ。少し話をしよう」
そう言って、レオナルドは去ろうとしない。
ユリウスは眉をひそめた。
「話?……私と話をしてもつまらないだろう」
「いや、俺はユーリの話が聞きたい」
まっすぐな声だった。
ユリウスは再び勉強に戻ろうとペンを握り直したが、レオナルドの視線を感じて諦めた。この男は、自分が納得するまではテコでも動かない雰囲気がある。
(……仕方ない。しばらく付き合えば、私との会話なんて退屈すぎてすぐに去るだろう)
どうせ気まぐれだ。あるいは暇つぶしか。
学内で「氷の女王様」などと揶揄されてはいるが、その実、完璧すぎて面白みのない堅物であるユリウスのことを、皆内心では煙たがっている。
それとは対極にいる、誰とでもすぐに打ち解けられるこの男が、ユリウスとの会話を楽しめるはずがないのだ。
「ユーリは、剣を握るのか?」
唐突な問いだった。
「ああ……剣技の時間だけだが」
「それ以外では?」
「振らない。知っているだろう、私はゆくゆくは宰相になる身だ。剣よりも勉学に励むよう言われている」
「言われている?誰にだ?」
「父からだ」
即答してから、ユリウスは自嘲した。
つまり、現宰相からの命令だ。もう十七歳にもなるというのに、いまだに父親からの言いつけを忠実に守っている。そう聞いて、さぞおかしく思っただろうか。
だが、生まれてから今まで、ユリウスはローゼンタール家と国のために生きろと教育されてきた。
それ以外の生き方など知らない。
傀儡だと笑われるか、主体性がないと呆れられるか。
身構えて、否定の言葉を待った。
だが、レオナルドは朗らかに笑っただけだった。
「そうか。なら、ユーリが剣を握っている凛々しい姿を見られるのは、剣技の時間だけってことか。楽しみだ」
「……は?」
予想外の反応に、ユリウスは言葉を失った。
馬鹿にするでもなく、哀れむでもなく。彼は心底楽しみだというように目を細めている。
ドクン、と心臓が奇妙な音を立てた。
なんてことのない会話だ。ただの世間話だ。
それなのに、なんだかレオナルドに心の防壁の内側へと、土足で踏み込まれたような気がした。
少し、怖い。
自分の知らない自分を暴かれそうで、ユリウスはその恐怖を少しも表に出さないよう、能面のような表情を貼り付けたままレオナルドの方を見ずに、ノートの文字を睨みつけた。
「……授業の邪魔だけはしないでくれよ」
「分かってるって。おやすみ、ユーリ」
満足したのか、レオナルドは自分のベッドへと戻っていく。
その背中から、またふわとあの甘い匂いが漂ってきた。
集中力など、もうとっくに散り散りになっていた。ユリウスは乱された自分の鼓動を落ち着かせるため、無意味にペンの先を強く握りしめた。
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