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第1章
血に濡れた獅子
しおりを挟む覚悟していた鋭い痛みは、いつまで経ってもユリウスの身体を襲わなかった。
代わりに訪れたのは、どす、という鈍く重い音と、視界が真っ暗になるほどの衝撃だった。
誰かがユリウスに覆いかぶさるようにして抱きしめ、その逞しい身体で視界と衝撃を遮ったのだ。
「……っ」
その拍子に、何かがユリウスの唇に触れ、口の中へと滑り込んだ。
温かく、鉄の味がする液体。
ユリウスが事態を理解するよりも早く、その味と同時に、脳髄を直接揺さぶるような香りが鼻腔を支配した。
あの、言葉にできない甘い香りだ。
(……レオナルド!)
目を開けたユリウスが見たのは、自分を前から抱きしめるようにして庇い、ルシエルの剣を右肩に受けているレオナルドの姿だった。
模擬戦用の剣とはいえ、先端は鉄製だ。本気でユリウスを傷つけようと放たれた一撃は、肉を裂くには十分な鋭さを持っていた。
レオナルドの肩から鮮血が溢れ出し、ユリウスの口元を赤く染めていたのだ。
「あ……」
王宮の騎士が血相を変えて駆け寄ってくる。
剣を振り下ろした当人であるルシエルも、感触が思った以上に深かったのか、剣を握る手をガタガタと震わせて立ち尽くしている。
だが、この場で最も冷静だったのは、傷を負ったレオナルドだった。
彼は硬直して動けないユリウスの腰に、傷ついていない方の左腕を回し、しっかりと支えていた。
ユリウスは呆然としていた。
目の前の惨状に思考が追いつかないのではない。
口の中に広がるレオナルドの血の味と、至近距離で浴びる濃厚な甘い匂いに、脳の全てが支配されてしまっていたのだ。熱い。身体の奥が、ありえないほど熱い。
「……ふう」
王宮の騎士によって慎重に肩から剣が抜かれると、レオナルドは痛みに顔を歪めることもなく、すっと身を起こした。
そして、騒然となっている周囲の生徒たちや、青ざめるルシエルに向かって、何事もなかったかのように口を開いた。
「模擬戦では事故は付き物だ。俺は向こうで実戦の場にも立ったことがあるからな、こんな怪我には慣れている。大したことはない、大丈夫だ」
よく通る、落ち着いた声だった。
その言葉通り、レオナルドは真っ直ぐ毅然として立っていた。
血に濡れた姿は痛々しいはずなのに、今の彼は誰よりも気高く、傷一つ負っていない第二王子よりも遥かに王者の風格を漂わせていた。
その腕の中で、ユリウスは金縛りにあったように動けずにいる。
レオナルドは視線を下ろし、腕の中のユリウスにだけ聞こえる声で言った。
「ユーリ、すまない。このまま俺を医務室へ連れて行ってくれ」
震えひとつない、穏やかな口調だった。
ユリウスはハッとして自分の手元を見た。震えている。レオナルドではなく、無傷であるはずの自分自身が、ガタガタと無様に震えていたのだ。
レオナルドは自分が歩けないからではない。ショックで震えるユリウスをこの場から連れ出し、守るために「付き添い」という役割を与えたのだ。
「ローゼンタール殿、頼みます。授業の方は任せてください」
事情を察した王宮の騎士にもそう声をかけられ、ユリウスは頷くことしかできなかった。
「……わ、分かりました」
上ずった声が出る。
ユリウスは、怪我人であるはずのレオナルドの強靭な腕に支えられながら、逃げるようにその場を後にし、医務室へと向かった。
口の中に残る鉄の味は、何度飲み込んでも消えることはなかった。
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