10 / 33
五十嵐純と水木夏菜子 10
しおりを挟む
クローバーに帰って、そのまま自室にこもり、ベットの中で丸くなる。二、三日、大学をさぼって、僕は眠り続ける。世はこともなし、何一つ変わらないまま回り続けるんだろうなって思えて、かなこさんの言う通りだ。寂しいな。
時おりリビングに出て、テレビをつけてみる。偶然、見た昼のニュース番組で、これからあの震災のときの映像が流れます、と男性アナウンサーが告げて、津波の映像が流れる。津波の映像自体にも、そういった断りの文句が必要な映像を見ていることにも、動揺を覚える。きみたちは傷ついているのでしょうと、見えない傷を押しつけられているような。確かに傷ついた人はたくさんいる。大切な人を失った、多くの人がいる。世界のあり方が変わってしまったような気さえする。絆、絆と世界が言って……僕は、僕たちは、傷ついている。
かなこさん。ありがとうも、おめでとうも言えないままだ。初めて飲みに行った帰り道で、かなこさんとたいやきを食べたことを思い出す。あのとき言えなかったことを、今もまだ、言えないままでいる。
駅前から商店街を抜けて、大学まで続く通りにたいやき屋があって、僕はそれまで一度もそのたいやきを食べたことがなかった。あんこがぎっしりつまってるから、うまく食べないとあんこがあふれてくるんだよ、とかなこさんが言って、先に食べ始めた。僕も続いてかぶりついた。ほどよく甘いあんこと皮の生地の香ばしさ。甘くて、温かいから、自然と笑顔になる。かなこさんも笑顔になった。幸せな記憶しか思い出せない。都合よく切り取られている、あるいは、つらい記憶も、時の流れの中で、癒され、姿かたちを変えているのかもしれない。
やっぱり僕は、気づけばかなこさんのことばかり考えている。好きだったという記憶は残るけど感情は消えてしまう。いつの日か、そういう魔法にかかるまで。
夜、部屋中の明かりを消して一人でベランダに佇んでいると、やっさんが帰ってきて悲鳴を上げる。
「びっくりした。誰もいないかと思ったよ」
笑いながらやっさんもベランダに出てきて、飲む? と缶ビールを差し出す。心地いい音で缶ビールが開いて、ああ、やっぱりまだ涙が出そうだ。
「かまってほしそうに見えました?」
と、聞く。
「見えたよ」
二人で並んで夜景を眺める。東京の夜景だ、と思う。明かりの下に人の生活の一つひとつがあって、笑ったり泣いたり、それがとてもきれいなんだ。
「東京のいいところって、ほどよい距離感だと思うんです。一人になりたいときは放っておいてくれるし、かまってほしいときには誰かがいる」
まるで、マンションの一室をシェアしているように。
「誰かにアドバイスをしてほしいときもあれば、何も言わずにただそばにいてほしいときとか、他愛もないおしゃべりをしたいときとか」
「わかるよ」
と、やっさんが言う。
「たぶんさ、みんな、寂しいんだよ」
やっさんの言葉は、今まで探し続けていた言葉のように思える。
「何か不安なことでもあるの?」
「不安……そうですね、不安なのかもしれません」
「今、不安なのはさ、自分の気持ちばっか考えてるからじゃないの?」
また泣きそうになる。僕はこの一年ですっかり泣き虫になった。
暗闇に目が慣れてくると東京の夜空でも星が見える。きれいだ。あの夜、僕たちが見上げた夜空でなくとも。僕がいなければたった一人だ、というかなこさんの言葉の意味を考える。東京の夜はきれいで、寂しいものだ。
かなこさんのために、僕は何ができるのだろう。
夢を見た。現実ではかなこさんとできなかったことを、思い出している夢だ。決して出会うことのなかったかなこさんとの未来の日々が、まるで過去を思い出すように浮かんできて、やたらと幸せだった。あまりに幸せだったから、目が覚めても夢と現実の区別がつかないまま、しばらく涙が止まらなかった。
時おりリビングに出て、テレビをつけてみる。偶然、見た昼のニュース番組で、これからあの震災のときの映像が流れます、と男性アナウンサーが告げて、津波の映像が流れる。津波の映像自体にも、そういった断りの文句が必要な映像を見ていることにも、動揺を覚える。きみたちは傷ついているのでしょうと、見えない傷を押しつけられているような。確かに傷ついた人はたくさんいる。大切な人を失った、多くの人がいる。世界のあり方が変わってしまったような気さえする。絆、絆と世界が言って……僕は、僕たちは、傷ついている。
かなこさん。ありがとうも、おめでとうも言えないままだ。初めて飲みに行った帰り道で、かなこさんとたいやきを食べたことを思い出す。あのとき言えなかったことを、今もまだ、言えないままでいる。
駅前から商店街を抜けて、大学まで続く通りにたいやき屋があって、僕はそれまで一度もそのたいやきを食べたことがなかった。あんこがぎっしりつまってるから、うまく食べないとあんこがあふれてくるんだよ、とかなこさんが言って、先に食べ始めた。僕も続いてかぶりついた。ほどよく甘いあんこと皮の生地の香ばしさ。甘くて、温かいから、自然と笑顔になる。かなこさんも笑顔になった。幸せな記憶しか思い出せない。都合よく切り取られている、あるいは、つらい記憶も、時の流れの中で、癒され、姿かたちを変えているのかもしれない。
やっぱり僕は、気づけばかなこさんのことばかり考えている。好きだったという記憶は残るけど感情は消えてしまう。いつの日か、そういう魔法にかかるまで。
夜、部屋中の明かりを消して一人でベランダに佇んでいると、やっさんが帰ってきて悲鳴を上げる。
「びっくりした。誰もいないかと思ったよ」
笑いながらやっさんもベランダに出てきて、飲む? と缶ビールを差し出す。心地いい音で缶ビールが開いて、ああ、やっぱりまだ涙が出そうだ。
「かまってほしそうに見えました?」
と、聞く。
「見えたよ」
二人で並んで夜景を眺める。東京の夜景だ、と思う。明かりの下に人の生活の一つひとつがあって、笑ったり泣いたり、それがとてもきれいなんだ。
「東京のいいところって、ほどよい距離感だと思うんです。一人になりたいときは放っておいてくれるし、かまってほしいときには誰かがいる」
まるで、マンションの一室をシェアしているように。
「誰かにアドバイスをしてほしいときもあれば、何も言わずにただそばにいてほしいときとか、他愛もないおしゃべりをしたいときとか」
「わかるよ」
と、やっさんが言う。
「たぶんさ、みんな、寂しいんだよ」
やっさんの言葉は、今まで探し続けていた言葉のように思える。
「何か不安なことでもあるの?」
「不安……そうですね、不安なのかもしれません」
「今、不安なのはさ、自分の気持ちばっか考えてるからじゃないの?」
また泣きそうになる。僕はこの一年ですっかり泣き虫になった。
暗闇に目が慣れてくると東京の夜空でも星が見える。きれいだ。あの夜、僕たちが見上げた夜空でなくとも。僕がいなければたった一人だ、というかなこさんの言葉の意味を考える。東京の夜はきれいで、寂しいものだ。
かなこさんのために、僕は何ができるのだろう。
夢を見た。現実ではかなこさんとできなかったことを、思い出している夢だ。決して出会うことのなかったかなこさんとの未来の日々が、まるで過去を思い出すように浮かんできて、やたらと幸せだった。あまりに幸せだったから、目が覚めても夢と現実の区別がつかないまま、しばらく涙が止まらなかった。
0
あなたにおすすめの小説
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話
登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
烏の王と宵の花嫁
水川サキ
キャラ文芸
吸血鬼の末裔として生まれた華族の娘、月夜は家族から虐げられ孤独に生きていた。
唯一の慰めは、年に一度届く〈からす〉からの手紙。
その送り主は太陽の化身と称される上級華族、縁樹だった。
ある日、姉の縁談相手を誤って傷つけた月夜は、父に遊郭へ売られそうになり屋敷を脱出するが、陽の下で倒れてしまう。
死を覚悟した瞬間〈からす〉の正体である縁樹が現れ、互いの思惑から契約結婚を結ぶことになる。
※初出2024年7月
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる