クローバー

鹿ノ杜

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本田泰久と四ツ橋すみれ 9

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 京子さんが言った。
「何か悩んでるの?」
「そう見えました?」
「そういうわけでもないんだけど、なんとなく、ね」
 京子さんの退職に向けた引き継ぎの作業を少しずつ始めていた。退職までまだ時間があるから急ぐ必要は全然なくて、話していてもすぐに脱線して仕事に関係のない話を始めるから、まるで雑談をするために引き継ぎの作業をしているようだ。こういう時間を大切にしたいなと、そう思った。
「おれって自分のことばっかり考えてるなって」
「みんなそうだよ。私だってそう」
「ほんとですか?」
「ほんとだって。それで?」
「それで、おれってこれまで普通に生きてきて。普通って何だって話ですけど。悩みとかも特別なくて、だから悩んでる人がいたらおれには何ができるんだろうって、考えてもわかんなくて。おれは何をしたらいいのか、おれができることって何だ、そういったことに答えを見つけられないで苦しいのは、結局のところ、自分の中でもやもやしている気持ちがなくならないからだなって」
 話しているうちに自分でも意外なほど、自分の中の考えがまとまっていないことに気づく。そもそも何について悩んでいるんだっけ、とすら思う。
 京子さんは、うんうん、と優しい相づちを打ちながら、だらだらとしたおれの話の途切れ目に言葉をくれる。
「自分の気持ちばっかり考えているとつらくなってくるよ。そういうときってさ、自分じゃなくて相手を主語にして考えることで何か見えてくるんじゃないかな」
「主語?」
「そう。主語。私は、自分は、じゃなくて、相手は、あの人は、って言葉から始めて別の視点で考えてみると、それまで見えてなかったものが見えたりする。けっこう難しいんだけどね。私もうまくいかなくて悩んでばっかりで、すぐ、私が、私が、ってなっちゃう」
「意外です。京子さんって昔から何でも器用にそつなくこなしてるイメージでしたよ」
「そんなことないよ。私だって、相手を主語に、っていうのは美紀に教わった。美紀はそういった視野が広くてずいぶん助けられたし、すごいなって思う。私だってできないことばっかりなんだよ」
 京子さんの話で気づかされた。おれにはできないことばかりで、おれは、おれは、と気持ちが急いていたのかもしれない。京子さんは。美紀さんは。すみれは。ジュンは。これに続く言葉はなんだろうか。京子さんは今、おれの目の前にいて、おれを見て微笑んでいる。美紀さんは向こうのデスクにいて自分の左右に資料を広げて、何やら忙しそうだ。すみれはコーヒーを飲みながら窓の外をぼうっと眺めている。ジュンはここ数日、大学をさぼって自分の部屋にいる。さしあたって今夜、ジュンと飲むために缶ビールを買って帰ろうと決めた。
 クローバーに帰ってジュンに声をかけると、
「かまってほしそうに見えました?」
 と、少しすねたように言うから、かわいいやつめ、と思う。
 ジュンは何かが不満で、不安で、そんな顔をしている。ベランダで話しながらジュンはぼうっと夜景を眺めている。なんで悩んでいる人って景色を眺めていることが多いのだろうか。広がる光景の中に答えを探し出そうとしているのだろうか。そういえばおれも展望台からの眺めが好きだったなと思い出す。あれはちょうどジュンくらいの年の頃でよく三軒茶屋のキャロットタワーに通った。学生時代のまだ何者でもなかった自分がまったくの未完成である自分への不満や将来への漠然とした不安や、そういった感情に押しつぶされそうになったときに視界のすっと開けた景色を求めていたのだった。
「何か不安なことでもあるの?」
 と、聞いてみる。
「不安……そうですね、不安なのかもしれません」
「今、不安なのはさ、自分の気持ちばっか考えてるからじゃないの?」
 京子さんの話を思い出して、言ってみる。するとジュンは夜空を仰いで、その通りですね、とつぶやいた。缶ビールのおかわりを持ってこようと台所に行き戻ってくると、ジュンは夜空を見ながら何かを考え込んでいるようだった。じゃまにならないようにプルタブを優しく開けて、つられて黙ったままで夜景を眺める。
「人の心がわかったらっていうか、自分の心すらわからなかったんですよ」
 と、ジュンが言う。
 おれもだよ、と心の中で返す。
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