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幼馴染みの淡かった恋心
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男と同じ騎士服を身にまとい、黒い髪を靡かせて、ひたと前を見据えながら歩くアンジェに、様々の視線が向けられる。
それは好奇の視線だったり、嫉妬の視線だったり。
注目の的であるアンジェはそれらの視線を颯爽と受け流して城内の廊下を早足で歩いていく。
リオノーラの部屋を辞したアンジェは、少しだけ疲れた様子で騎士団の詰め所へと戻ろうと歩いていく。
城の王族の住まう区画を出たアンジェがまっすぐに詰め所へと向かっていると、不意に金の髪の騎士とはち合った。
「あっ」
「ロランド」
ロランドは息を切らしていて、アンジェと目が合うと、澄んだ青い目を大きく見開いた。
「アンジェいた!」
「えっ」
「ちょっとこっち来て」
大きく声をあげたロランドはアンジェの腕を掴むと、その手を引っ張ってずんずんと進んで行く。
困惑するアンジェに有無を言わせずに手を引いたロランドは、城と騎士団の詰め所の間にある建物の影までやってくると、ようやくそこで足を止めた。
「え……と、お帰り、ロランド。長期遠征、お疲れ様。どうだった? 怪我とかしなかった?」
「ただいま。怪我もしなかったよ。こっちは何事もなかった。あったのは君の方じゃないか」
ロランドがアンジェを振り返る。
その青い瞳には苛立ちのようなものが混ざっていて、アンジェは困ったように肩をすくめた。
「噂、聞いたんだ?」
「当たり前だよ! 城中噂してるじゃないか! そうじゃなくたってお節介な先輩方もわざわざ教えてくれるし……!」
ここ数日、王宮内を賑やかしている噂のことはアンジェの耳にも当然届いていた。
最初はファイサルとの婚姻の打診についての噂だけだったのが、今日になって朝から「女騎士アンドレアに懸想している騎士がいる」というものまで出てきた。
おそらくは冷やかしの一つだろうとは思うものの、図らずしも噂の中心になってしまったアンジェにとっては歓迎しがたいものだった。
とはいえ、噂を助長する意味もないと考えているアンジェはしばらくすれば落ち着くところで噂も収拾するだろうと楽観視していた。それはアンジェの騎士の続投の有無という形で決まるということも。
本人でもまだ不透明な未来の事なのだから、なるようにしかならないとアンジェは腹をくくっていた。
だが、この話にロランドが予想以上に大慌てしている事にアンジェは首をかしげる。
「どうしてそんなにロランドが慌てるのさ。別にロランドが結婚する訳じゃないでしょ」
「……この鈍器」
眉をしかめたロランドが、ぼそっと呟く。
言われたアンジェの方こそ眉をしかめたい。
「何、鈍器って」
「言葉の意味そのままだよ」
「どういうこと」
「はぁ。本当になんでこんな鈍器になっちゃったんだろ」
「ちょっとロラン───」
どういう意味かは分からないが、決して良い意味で使われてはいない気がする言葉に、アンジェは睨み付ける。
でも、彼の名前を言いきらない内に、その口を塞がれた。
目の前いっぱいに、きらきらと輝く秋の稲穂のような黄金が広がった。
あまりにも唐突な出来事に、アンジェが息を詰めて目を見開くと、ロランドがそっとアンジェの唇から自分の唇を離した。
その表情は悔しそうにくしゃりと歪んでいる。
「アンジェはひどい」
「……は?」
「アンジェは、はどい」
二度も言うロランドに、アンジェの目が据わる。
「……女の子に勝手にキスする方がひどいと思うけど?」
「だってこうでもしないと、アンジェはいつまで経っても僕を見てくれないじゃないか」
そう言ったロランドがあまりにも苦しそうな表情をするので、アンジェは戸惑う。
「ロランド、何言って……」
「アンジェ。僕、アンジェのことが好きなんだよ。ずっとずっと、前から。それこそ孤児院にいた頃から」
ロランドの綺麗な青色の瞳が、アンジェの姿をまっすぐに捉える。
アンジェは向けられた好意にたじろいだ。
どうしてだろう。ロランドの「好き」が、アンジェの知ってる「好き」と違う気がした。
「ロ、ロランド? 私も、ロランドのこと好きだよ。今さらじゃん。孤児院の皆は家族だもの。ロランドのこともちゃんと好き」
「違うんだ。そうじゃないんだ。……これを言うと嫌われるから言いたくなかったけど、でも、このままじゃ伝えることすら叶わなくなるから言わせて」
「い、嫌だ」
アンジェは一歩、後退した。
駄目だ、と思った。
ロランドにそれを言わせては、何かが壊れると思った。
アンジェはロランドを拒絶するように、へらりと笑う。
「私、忙しいから。これからまだ仕事があるから───」
「知ってる。時間は取らせない。だけどこれだけ言わせてよ」
踵を返そうとしたアンジェの腕を掴んで、ロランドがその胸にアンジェを抱え込む。
子供の時は泣き虫だったロランドをアンジェが抱きしめていたのに、今はアンジェの方がすっぽりとロランドの腕の中に収まってしまった。
息を詰めたアンジェの耳に、ドクンドクンと大きく脈打つ音が聞こえる。頭の中に響くそれは、自分の心臓か、ロランドの心臓か、分からないくらいに距離が近くて。
「お願いだよ、アンジェ。許して」
「な、何を……」
「僕は君が好きなんだ。君が男に混じって騎士になるのなら、君を守ろうと思った。君が女の子として騎士を目指すなら、どんな茨の道だってかき分けるのを手伝ってあげようと思った。でもさ、そうじゃなくてさ」
アンジェの耳元を擽るように囁くロランドの声に、アンジェの背筋にぞくりと何かが這った。
「君がただの女の子になるのならさ。僕は騎士団長にも、どこかの国の王子にも、君をあげたくない。君の孤独を理解してあげられるのは僕だけでしょ? ね、アンジェ」
耳にかかるロランドの吐息に、アンジェはぎくりとした。
そっと顔を傾ければ、仄暗く微笑んでいるロランドがいる。その青い瞳が深みを増した。
「騎士をやめるなら、僕と一緒にいてよ。村に戻ろう? 村に戻ってマルコ達みたいに夫婦になろう? 僕はアンジェのこと愛してるから、アンジェが愛を分からなくても教えてあげれる。怖がらなくて良いんだよ。夫婦ごっこをしてればきっと、アンジェだってその内愛されてるって実感がわくと思うんだ。孤児院にいた頃にやった、ままごとの延長線なだけさ」
───アンジェがおかあさんで、僕がおとうさんなんだ。
謳うようなロランドの言葉。
アンジェは足から力が抜けてしまいそうになった。
違う、と思った。
そうじゃない、と思った。
自分の望みは、思い描く未来は、そんなところにないんだと言いたかった。
だけど、ロランドのあんなにも苦しそうな表情を見てしまったら、そう伝えるのが正しいのか分からなくなってしまう。
傷つけたいわけじゃない。
ロランドの言葉は感謝し、喜ぶべきものなのだと思う。
でもそれは、アンジェが本当に欲しいものを得るためには邪魔なもの。
でも邪魔だからといってロランドを切り捨てるには、アンジェにとっても、ロランドにとっても、「愛」という言葉は重すぎた。
突き放そうとした腕が宙をさ迷う。
迷子のようにさ迷うアンジェの思考に気づいたのか、ロランドは小さく息をついて、アンジェを抱きしめる腕を緩めた。
「……ごめん。アンジェが僕のこと、そう言う風に見てないって知ってた。知ってたけど、言わずにいられなかった。だから、許して。言うだけなら、いいでしょ?」
だらりとほどかれた腕からアンジェはたたらを踏むように抜け出すと、ロランドを見上げた。
ロランドは困ったように目をそらす。
「アンジェはさ、たぶん、結婚しないといけないんだよ」
「……急に、何?」
「だってさ、いま、こんな大事になっててさ。これでアンジェが結婚しないって選択肢選ぶのは自由だけど……たぶん、それは今、選ばせてもらえないと思うんだ。ヒューゴー様が言ってたんだ。アンジェは試金石なんだって。これからの女性騎士はアンジェが全部基準になるって」
「よく、分かってるね」
今度はアンジェが苦笑する番だった。
ロランドの言いたいことは分かっている。ヒューゴーが求めていることも分かっている。
ここが一つの分岐点であることも気づいてる。
アンジェが女性であることと、騎士であることが成立することを証明できるチャンスであることも。
だからアンジェはむしろ、この状況を静観するつもりだった。
どう足掻いたって、アンジェ個人の意思よりも今後の将来の方が大事だ。
ヒューゴーからこの女性騎士団設立の件は王太子が主導を握っていると聞いているから、きっと『女騎士にとって』最善の状況を作ってくれるだろう。
アンジェは示された道をひたすら突き進むだけだ。
下手に動いて、自分を主張しすぎて、それらを台無しにしたくはない。
畢竟、アンジェは騎士のままでいられる選択肢を選ばせてもらえるのなら、結婚をするのかしないのかなんて些末事でしかないのだ。
だから結婚に興味なんてなかったつもり───だったのに。
「アンジェはさ、どうして騎士になりたいの?」
唐突に質問を変えたロランドに面食らう。
一瞬だけ言葉のつまったアンジェは、最近これに答える機会が多いなとふと思った。
「私が騎士になりたいのは、憧れてる人がいるから。その人の隣に立っていたいから」
「それはユルバン団長?」
「そう」
こっくりと頷くと、ロランドがさらに問いを重ねてくる。
「どうしてユルバン団長なの? どうして騎士なの? 隣に立つだけなら騎士じゃなくたって、良いじゃないか。それこそ、結婚すれば良い」
「はぁ? 私と団長が結婚?」
あまりにも突飛な言葉にアンジェが目を丸くする。
「そんな驚くことじゃないじゃないか。だって普通男女の関係の落ち所はそこでしょ」
「いや、だって無理じゃん。私騎士だもの」
「アンジェはまだ騎士じゃない。叙任されてない」
「でも、だって、私、男だよ? 男だったんだよ? ずっと男のふりしてたのに」
「本当に鈍いなぁ。じゃあさ、想像してごらんよ。ユルバン団長の隣にさ、ドレスの女の子がいる姿。いいの?」
「そんなの……」
言われるがまま想像したアンジェは、自分の顔が醜く歪むのが分かった。
その表情を見たロランドが一瞬だけ悲しげに目を伏せる。
おそらく、本当のアンジェを知る人ならば誰でも気づくその変化。
年頃の少女なら憧れを恋慕と間違えるけれど、アンジェの場合は逆だった。
最初は憧れだったかもしれない。でもいつの間にか恋慕となっていたそれに気づけないまま、アンジェは今に来た。
ユルバンの隣にいたいのは憧れから始まったのかもしれない。でもそれは募りに募って、男も女も関係のない、揺るぎなく自分だけが隣に立つという未来図が、いつか男も女も越えた執着を経て恋情へと変わっていた。
それを悟っていたロランドは困ったように微笑む。
愕然とした。
自分の中に「ユルバンの隣に自分以外の女性が立つことが嫌だ」という独占欲のような醜い感情があったことに、アンジェは言葉を失う。
それは綺麗なままの憧れとは到底言えないようなどろどろとした感情で。
いつの間にかアンジェより身長が延びて大きくなってしまったロランドが、黙ってしまったアンジェの頭をくしゃりとかき混ぜる。
「……嫌なんでしょ。答え出てるじゃないか。それならアンジェはそれを貫いた方がいいんじゃない?」
「でも、私……だって、結婚しないって、女としての幸せなんて、いらなくて……。しかも相手、団長だよ? 鼻が利きすぎる団長だよ? そんな人に……え……」
「そこはまぁ、目をつむっておこう。それ以外は男として十分な人だから、惹かれても仕方ないと思う。だから逃げないでよ、アンジェ。アンジェが逃げるなら、僕も遠慮しない」
「遠慮って……」
「こういうこと」
アンジェの髪をかき混ぜていたロランドの手がするりと頬へと滑り落ち、顎を拾われる。
上向けられたアンジェの瞳にいっぱいのロランドの表情が映ると、その吐息がアンジェの胎内に含められる前に彼女はロランドの体を押し退けた。
「何するの! 二度目はさすがにロランドでも許さない」
「その言い方、ちょっと傷つく……いや、だいぶ傷つくんだけど」
苦笑したロランドが、アンジェから一歩下がった。
アンジェがほっと息をつくのを見て、また少しだけ寂しそうな顔をする。
「アンジェ。君、今、かなり追い詰められてるからね」
「……何が言いたいの」
「色んな人が君を欲しがってるってこと。国は『女騎士アンドレア』、ファイサル王子は『女のアンドレア』、僕は『ただのアンジェ』。でもそのどれを選んでも、君は幸せの全部を掴めない気がするんだ」
「そんなの、最初から覚悟してる。ヒューゴー様にも言われた。ロランドが気にすることじゃない」
「でも気になっちゃうんだよ。だって、好きな女の子のことをついつい見ちゃうのは、仕方のないことじゃない?」
肩をすくめたロランドに、アンジェは視線を彷徨かせた。ここまでまっすぐに面と向かって好意を、それも男女のそれの感情を向けられたことなんてないから、どんな顔をしていいのか分からない。
口を開いては閉じて言葉を探すアンジェに、ロランドはもう一言だけ告げた。
「アンジェの気持ちは常に一つなのは知ってるよ。ユルバン団長の隣にいたいんでしょ? ならさ、立てば良いんだよ。騎士としても、女の子としてもさ。駄目だって言われて、諦めきれる君じゃないでしょ」
そう言って笑ったロランドは、アンジェの背中を押した。
それは好奇の視線だったり、嫉妬の視線だったり。
注目の的であるアンジェはそれらの視線を颯爽と受け流して城内の廊下を早足で歩いていく。
リオノーラの部屋を辞したアンジェは、少しだけ疲れた様子で騎士団の詰め所へと戻ろうと歩いていく。
城の王族の住まう区画を出たアンジェがまっすぐに詰め所へと向かっていると、不意に金の髪の騎士とはち合った。
「あっ」
「ロランド」
ロランドは息を切らしていて、アンジェと目が合うと、澄んだ青い目を大きく見開いた。
「アンジェいた!」
「えっ」
「ちょっとこっち来て」
大きく声をあげたロランドはアンジェの腕を掴むと、その手を引っ張ってずんずんと進んで行く。
困惑するアンジェに有無を言わせずに手を引いたロランドは、城と騎士団の詰め所の間にある建物の影までやってくると、ようやくそこで足を止めた。
「え……と、お帰り、ロランド。長期遠征、お疲れ様。どうだった? 怪我とかしなかった?」
「ただいま。怪我もしなかったよ。こっちは何事もなかった。あったのは君の方じゃないか」
ロランドがアンジェを振り返る。
その青い瞳には苛立ちのようなものが混ざっていて、アンジェは困ったように肩をすくめた。
「噂、聞いたんだ?」
「当たり前だよ! 城中噂してるじゃないか! そうじゃなくたってお節介な先輩方もわざわざ教えてくれるし……!」
ここ数日、王宮内を賑やかしている噂のことはアンジェの耳にも当然届いていた。
最初はファイサルとの婚姻の打診についての噂だけだったのが、今日になって朝から「女騎士アンドレアに懸想している騎士がいる」というものまで出てきた。
おそらくは冷やかしの一つだろうとは思うものの、図らずしも噂の中心になってしまったアンジェにとっては歓迎しがたいものだった。
とはいえ、噂を助長する意味もないと考えているアンジェはしばらくすれば落ち着くところで噂も収拾するだろうと楽観視していた。それはアンジェの騎士の続投の有無という形で決まるということも。
本人でもまだ不透明な未来の事なのだから、なるようにしかならないとアンジェは腹をくくっていた。
だが、この話にロランドが予想以上に大慌てしている事にアンジェは首をかしげる。
「どうしてそんなにロランドが慌てるのさ。別にロランドが結婚する訳じゃないでしょ」
「……この鈍器」
眉をしかめたロランドが、ぼそっと呟く。
言われたアンジェの方こそ眉をしかめたい。
「何、鈍器って」
「言葉の意味そのままだよ」
「どういうこと」
「はぁ。本当になんでこんな鈍器になっちゃったんだろ」
「ちょっとロラン───」
どういう意味かは分からないが、決して良い意味で使われてはいない気がする言葉に、アンジェは睨み付ける。
でも、彼の名前を言いきらない内に、その口を塞がれた。
目の前いっぱいに、きらきらと輝く秋の稲穂のような黄金が広がった。
あまりにも唐突な出来事に、アンジェが息を詰めて目を見開くと、ロランドがそっとアンジェの唇から自分の唇を離した。
その表情は悔しそうにくしゃりと歪んでいる。
「アンジェはひどい」
「……は?」
「アンジェは、はどい」
二度も言うロランドに、アンジェの目が据わる。
「……女の子に勝手にキスする方がひどいと思うけど?」
「だってこうでもしないと、アンジェはいつまで経っても僕を見てくれないじゃないか」
そう言ったロランドがあまりにも苦しそうな表情をするので、アンジェは戸惑う。
「ロランド、何言って……」
「アンジェ。僕、アンジェのことが好きなんだよ。ずっとずっと、前から。それこそ孤児院にいた頃から」
ロランドの綺麗な青色の瞳が、アンジェの姿をまっすぐに捉える。
アンジェは向けられた好意にたじろいだ。
どうしてだろう。ロランドの「好き」が、アンジェの知ってる「好き」と違う気がした。
「ロ、ロランド? 私も、ロランドのこと好きだよ。今さらじゃん。孤児院の皆は家族だもの。ロランドのこともちゃんと好き」
「違うんだ。そうじゃないんだ。……これを言うと嫌われるから言いたくなかったけど、でも、このままじゃ伝えることすら叶わなくなるから言わせて」
「い、嫌だ」
アンジェは一歩、後退した。
駄目だ、と思った。
ロランドにそれを言わせては、何かが壊れると思った。
アンジェはロランドを拒絶するように、へらりと笑う。
「私、忙しいから。これからまだ仕事があるから───」
「知ってる。時間は取らせない。だけどこれだけ言わせてよ」
踵を返そうとしたアンジェの腕を掴んで、ロランドがその胸にアンジェを抱え込む。
子供の時は泣き虫だったロランドをアンジェが抱きしめていたのに、今はアンジェの方がすっぽりとロランドの腕の中に収まってしまった。
息を詰めたアンジェの耳に、ドクンドクンと大きく脈打つ音が聞こえる。頭の中に響くそれは、自分の心臓か、ロランドの心臓か、分からないくらいに距離が近くて。
「お願いだよ、アンジェ。許して」
「な、何を……」
「僕は君が好きなんだ。君が男に混じって騎士になるのなら、君を守ろうと思った。君が女の子として騎士を目指すなら、どんな茨の道だってかき分けるのを手伝ってあげようと思った。でもさ、そうじゃなくてさ」
アンジェの耳元を擽るように囁くロランドの声に、アンジェの背筋にぞくりと何かが這った。
「君がただの女の子になるのならさ。僕は騎士団長にも、どこかの国の王子にも、君をあげたくない。君の孤独を理解してあげられるのは僕だけでしょ? ね、アンジェ」
耳にかかるロランドの吐息に、アンジェはぎくりとした。
そっと顔を傾ければ、仄暗く微笑んでいるロランドがいる。その青い瞳が深みを増した。
「騎士をやめるなら、僕と一緒にいてよ。村に戻ろう? 村に戻ってマルコ達みたいに夫婦になろう? 僕はアンジェのこと愛してるから、アンジェが愛を分からなくても教えてあげれる。怖がらなくて良いんだよ。夫婦ごっこをしてればきっと、アンジェだってその内愛されてるって実感がわくと思うんだ。孤児院にいた頃にやった、ままごとの延長線なだけさ」
───アンジェがおかあさんで、僕がおとうさんなんだ。
謳うようなロランドの言葉。
アンジェは足から力が抜けてしまいそうになった。
違う、と思った。
そうじゃない、と思った。
自分の望みは、思い描く未来は、そんなところにないんだと言いたかった。
だけど、ロランドのあんなにも苦しそうな表情を見てしまったら、そう伝えるのが正しいのか分からなくなってしまう。
傷つけたいわけじゃない。
ロランドの言葉は感謝し、喜ぶべきものなのだと思う。
でもそれは、アンジェが本当に欲しいものを得るためには邪魔なもの。
でも邪魔だからといってロランドを切り捨てるには、アンジェにとっても、ロランドにとっても、「愛」という言葉は重すぎた。
突き放そうとした腕が宙をさ迷う。
迷子のようにさ迷うアンジェの思考に気づいたのか、ロランドは小さく息をついて、アンジェを抱きしめる腕を緩めた。
「……ごめん。アンジェが僕のこと、そう言う風に見てないって知ってた。知ってたけど、言わずにいられなかった。だから、許して。言うだけなら、いいでしょ?」
だらりとほどかれた腕からアンジェはたたらを踏むように抜け出すと、ロランドを見上げた。
ロランドは困ったように目をそらす。
「アンジェはさ、たぶん、結婚しないといけないんだよ」
「……急に、何?」
「だってさ、いま、こんな大事になっててさ。これでアンジェが結婚しないって選択肢選ぶのは自由だけど……たぶん、それは今、選ばせてもらえないと思うんだ。ヒューゴー様が言ってたんだ。アンジェは試金石なんだって。これからの女性騎士はアンジェが全部基準になるって」
「よく、分かってるね」
今度はアンジェが苦笑する番だった。
ロランドの言いたいことは分かっている。ヒューゴーが求めていることも分かっている。
ここが一つの分岐点であることも気づいてる。
アンジェが女性であることと、騎士であることが成立することを証明できるチャンスであることも。
だからアンジェはむしろ、この状況を静観するつもりだった。
どう足掻いたって、アンジェ個人の意思よりも今後の将来の方が大事だ。
ヒューゴーからこの女性騎士団設立の件は王太子が主導を握っていると聞いているから、きっと『女騎士にとって』最善の状況を作ってくれるだろう。
アンジェは示された道をひたすら突き進むだけだ。
下手に動いて、自分を主張しすぎて、それらを台無しにしたくはない。
畢竟、アンジェは騎士のままでいられる選択肢を選ばせてもらえるのなら、結婚をするのかしないのかなんて些末事でしかないのだ。
だから結婚に興味なんてなかったつもり───だったのに。
「アンジェはさ、どうして騎士になりたいの?」
唐突に質問を変えたロランドに面食らう。
一瞬だけ言葉のつまったアンジェは、最近これに答える機会が多いなとふと思った。
「私が騎士になりたいのは、憧れてる人がいるから。その人の隣に立っていたいから」
「それはユルバン団長?」
「そう」
こっくりと頷くと、ロランドがさらに問いを重ねてくる。
「どうしてユルバン団長なの? どうして騎士なの? 隣に立つだけなら騎士じゃなくたって、良いじゃないか。それこそ、結婚すれば良い」
「はぁ? 私と団長が結婚?」
あまりにも突飛な言葉にアンジェが目を丸くする。
「そんな驚くことじゃないじゃないか。だって普通男女の関係の落ち所はそこでしょ」
「いや、だって無理じゃん。私騎士だもの」
「アンジェはまだ騎士じゃない。叙任されてない」
「でも、だって、私、男だよ? 男だったんだよ? ずっと男のふりしてたのに」
「本当に鈍いなぁ。じゃあさ、想像してごらんよ。ユルバン団長の隣にさ、ドレスの女の子がいる姿。いいの?」
「そんなの……」
言われるがまま想像したアンジェは、自分の顔が醜く歪むのが分かった。
その表情を見たロランドが一瞬だけ悲しげに目を伏せる。
おそらく、本当のアンジェを知る人ならば誰でも気づくその変化。
年頃の少女なら憧れを恋慕と間違えるけれど、アンジェの場合は逆だった。
最初は憧れだったかもしれない。でもいつの間にか恋慕となっていたそれに気づけないまま、アンジェは今に来た。
ユルバンの隣にいたいのは憧れから始まったのかもしれない。でもそれは募りに募って、男も女も関係のない、揺るぎなく自分だけが隣に立つという未来図が、いつか男も女も越えた執着を経て恋情へと変わっていた。
それを悟っていたロランドは困ったように微笑む。
愕然とした。
自分の中に「ユルバンの隣に自分以外の女性が立つことが嫌だ」という独占欲のような醜い感情があったことに、アンジェは言葉を失う。
それは綺麗なままの憧れとは到底言えないようなどろどろとした感情で。
いつの間にかアンジェより身長が延びて大きくなってしまったロランドが、黙ってしまったアンジェの頭をくしゃりとかき混ぜる。
「……嫌なんでしょ。答え出てるじゃないか。それならアンジェはそれを貫いた方がいいんじゃない?」
「でも、私……だって、結婚しないって、女としての幸せなんて、いらなくて……。しかも相手、団長だよ? 鼻が利きすぎる団長だよ? そんな人に……え……」
「そこはまぁ、目をつむっておこう。それ以外は男として十分な人だから、惹かれても仕方ないと思う。だから逃げないでよ、アンジェ。アンジェが逃げるなら、僕も遠慮しない」
「遠慮って……」
「こういうこと」
アンジェの髪をかき混ぜていたロランドの手がするりと頬へと滑り落ち、顎を拾われる。
上向けられたアンジェの瞳にいっぱいのロランドの表情が映ると、その吐息がアンジェの胎内に含められる前に彼女はロランドの体を押し退けた。
「何するの! 二度目はさすがにロランドでも許さない」
「その言い方、ちょっと傷つく……いや、だいぶ傷つくんだけど」
苦笑したロランドが、アンジェから一歩下がった。
アンジェがほっと息をつくのを見て、また少しだけ寂しそうな顔をする。
「アンジェ。君、今、かなり追い詰められてるからね」
「……何が言いたいの」
「色んな人が君を欲しがってるってこと。国は『女騎士アンドレア』、ファイサル王子は『女のアンドレア』、僕は『ただのアンジェ』。でもそのどれを選んでも、君は幸せの全部を掴めない気がするんだ」
「そんなの、最初から覚悟してる。ヒューゴー様にも言われた。ロランドが気にすることじゃない」
「でも気になっちゃうんだよ。だって、好きな女の子のことをついつい見ちゃうのは、仕方のないことじゃない?」
肩をすくめたロランドに、アンジェは視線を彷徨かせた。ここまでまっすぐに面と向かって好意を、それも男女のそれの感情を向けられたことなんてないから、どんな顔をしていいのか分からない。
口を開いては閉じて言葉を探すアンジェに、ロランドはもう一言だけ告げた。
「アンジェの気持ちは常に一つなのは知ってるよ。ユルバン団長の隣にいたいんでしょ? ならさ、立てば良いんだよ。騎士としても、女の子としてもさ。駄目だって言われて、諦めきれる君じゃないでしょ」
そう言って笑ったロランドは、アンジェの背中を押した。
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