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憤り
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カルタゴ軍がローマ軍の到着する三日前にロダヌス川を渡り、休む間もなく北東に向かったことはほどなくコルネリウスの知るところになった。加えてロダヌス川の東側のガリア人の多くの集落が焼き打ちされ、おびただしい数のガリア人の亡骸があちらこちらに散乱しているとの情報も入ってきた。ロダヌス川の下流にはカルタゴ兵の遺体が一万程流れ着いており、数頭の戦象が溺死していることも判明する。父の天幕で刻々ともたらされるそれらの情報を耳にするごとに、プブリウスはハンニバルに対する憤りを増していった。
カルタゴの将軍ハンニバルは酷い殺戮者だ。これだけの犠牲を払っても得なければならないものが果たしてあるのだろうか。この強行軍で死んだ者たちは、果たして浮かばれる日が来るのだろうかと。
副官のグナエウスが自分の弟でもある執政官コルネリウスに意見を述べた。
「ハンニバルは無防備になる渡河の安全を確保するため、先遣隊をここより上流から渡河させ、次々とガリア人の集落を襲撃させたのだろう。ガリア人どもはカルタゴ軍が川を渡ったところを襲うつもりで向こう岸に集結していたに違いないから、それが先に自分の寝床や家族を襲われて慌てて自分たちの集落に戻ったところを、カルタゴ騎兵に各個撃破されたに違いない。やはりハンニバルは父譲りの知略を備えているということか」
ハンニバルへの憤りをついに抑えきれなくなったプブリウスは思わず口を開いた。
「これが知略と言えるでしょうか。多くの部下を死に追いやり、非戦闘員であるガリア人の家族を襲うなんて非道としか言いようがありません」
ただ惨状を耳で聞いただけでこれほど激しい感情に襲われるのだから、実際にそれを目で見たらいったいどうなってしまうのだろう。果たして自分の感情を制御できるのだろうか。いや、実際に体験した者やその身内、仲間が感じることに比べたら……。プブリウスの中の何かが爆発しそうだった。彼はそれを抑えようと懸命になった。そんな息子に父の言葉は冷徹だった。
「敵やガリア人の死にまで同情していては、自分だけでなく味方の命をも守ることはできんぞ。戦場とはそんなものだ。お前も早くそのことを理解することだ。嫌でもそのうちに慣れるだろうが――」
気づけばプブリウスは天幕から飛び出していた。自分を呼ぶラエリウスの声が遠くで聞こえたが、振り返ることなく全速力で駆け出した。ローマ軍の陣営地から飛び出し、無我夢中で走った。
気づけば森の中にいた。プブリウスは逃げたのである。多くの命が無残に消え失せる戦場の冷酷さに背中を見せたのだ。プブリウスは怒りの矛先を自分の脚に向けたかのように、がむしゃらに森の中を走った。
戦場とはそんなものだ。いつも優しい父の言葉とは思えなかった。戦争は人を変えるのか。そのうちに慣れるだろうだって。人間の死に慣れることが、まるで当たり前のような言い方ではないか。プブリウスは奥歯に力を込めた。もうどこを走っているのかさえもわからずに。
何かで躓いたプブリウスは体勢を崩し、大地にうつ伏せに倒れた。草むらに埋まるかたちになった彼の顔は涙で濡れていた。プブリウスは言葉にならない感情の波を口の中から吐き出した。その叫びは懐深い森の前にはまるで無力であるかのように、吸い込まれて勢いを失っていく。虚しさが彼の胸を満たした。見ず知らずの者たちであっても敵であっても、多くの命が失われたことには変わりはない。いかに命が尊いものかを、この若者は生まれながらに知っているのだろう。亡くなった者たちにはそれぞれに人生があり、家族があり、友人や恋人がいる。死は全てを無にしてしまう。そんな簡単に死んでよいものではないはずだ。自分は死ぬのが怖いのだろう。だから人の死が恐ろしいのだ。多くの人が死ぬ戦争が怖くてたまらないのだ。
仰向けになったプブリウスの頬は濡れてはいたが、もう涙は流れていなかった。人間も動物もその一生は長いようで短い。森が激しくうねった感情を浄化したかのように、彼は周囲の自然に包まれて落ち着きを取り戻していく。
戦争ほど馬鹿馬鹿しいものはない。結論だった。戦争のない平和な世界にするために戦争をするのだろうが、そこに矛盾を感じずにはいられなかった。
プブリウスは考えるのをやめた。現実がわかっていないわけではなかったからだ。理想だけを頼りに生きていくのは、無責任だということもわかっている。
プブリウスは起き上がると、自分がつまずいたものが何であるのかを、その時初めて知った。
無残に果てたガリア人兵士の死骸である。
死骸は目をカッと見開き、口元は大きく歪んでいた。プブリウスはこれまでに死んだ人間を見たことがあったが、それはどれも安らかな表情をしていた。実際に戦場で倒れた兵士を見たのはこれが初めてだった。自分ではもっと衝撃を受けるものと思っていたが、その死骸を見ても何の感情も湧いてこなかった。そんな自分に疑念を抱きながら、プブリウスは死骸の顔にそっと手をやり、ガリア人兵士の目と口を閉じてあげた。その後、ガリア人兵士の死骸を埋葬しようかとも考えたが、穴を掘る道具もなかったし、もしかしたら彼の身内が探しているかもしれないと思い、それならこのままにしておいた方がよいと考えてこの場を離れた。
カルタゴの将軍ハンニバルは酷い殺戮者だ。これだけの犠牲を払っても得なければならないものが果たしてあるのだろうか。この強行軍で死んだ者たちは、果たして浮かばれる日が来るのだろうかと。
副官のグナエウスが自分の弟でもある執政官コルネリウスに意見を述べた。
「ハンニバルは無防備になる渡河の安全を確保するため、先遣隊をここより上流から渡河させ、次々とガリア人の集落を襲撃させたのだろう。ガリア人どもはカルタゴ軍が川を渡ったところを襲うつもりで向こう岸に集結していたに違いないから、それが先に自分の寝床や家族を襲われて慌てて自分たちの集落に戻ったところを、カルタゴ騎兵に各個撃破されたに違いない。やはりハンニバルは父譲りの知略を備えているということか」
ハンニバルへの憤りをついに抑えきれなくなったプブリウスは思わず口を開いた。
「これが知略と言えるでしょうか。多くの部下を死に追いやり、非戦闘員であるガリア人の家族を襲うなんて非道としか言いようがありません」
ただ惨状を耳で聞いただけでこれほど激しい感情に襲われるのだから、実際にそれを目で見たらいったいどうなってしまうのだろう。果たして自分の感情を制御できるのだろうか。いや、実際に体験した者やその身内、仲間が感じることに比べたら……。プブリウスの中の何かが爆発しそうだった。彼はそれを抑えようと懸命になった。そんな息子に父の言葉は冷徹だった。
「敵やガリア人の死にまで同情していては、自分だけでなく味方の命をも守ることはできんぞ。戦場とはそんなものだ。お前も早くそのことを理解することだ。嫌でもそのうちに慣れるだろうが――」
気づけばプブリウスは天幕から飛び出していた。自分を呼ぶラエリウスの声が遠くで聞こえたが、振り返ることなく全速力で駆け出した。ローマ軍の陣営地から飛び出し、無我夢中で走った。
気づけば森の中にいた。プブリウスは逃げたのである。多くの命が無残に消え失せる戦場の冷酷さに背中を見せたのだ。プブリウスは怒りの矛先を自分の脚に向けたかのように、がむしゃらに森の中を走った。
戦場とはそんなものだ。いつも優しい父の言葉とは思えなかった。戦争は人を変えるのか。そのうちに慣れるだろうだって。人間の死に慣れることが、まるで当たり前のような言い方ではないか。プブリウスは奥歯に力を込めた。もうどこを走っているのかさえもわからずに。
何かで躓いたプブリウスは体勢を崩し、大地にうつ伏せに倒れた。草むらに埋まるかたちになった彼の顔は涙で濡れていた。プブリウスは言葉にならない感情の波を口の中から吐き出した。その叫びは懐深い森の前にはまるで無力であるかのように、吸い込まれて勢いを失っていく。虚しさが彼の胸を満たした。見ず知らずの者たちであっても敵であっても、多くの命が失われたことには変わりはない。いかに命が尊いものかを、この若者は生まれながらに知っているのだろう。亡くなった者たちにはそれぞれに人生があり、家族があり、友人や恋人がいる。死は全てを無にしてしまう。そんな簡単に死んでよいものではないはずだ。自分は死ぬのが怖いのだろう。だから人の死が恐ろしいのだ。多くの人が死ぬ戦争が怖くてたまらないのだ。
仰向けになったプブリウスの頬は濡れてはいたが、もう涙は流れていなかった。人間も動物もその一生は長いようで短い。森が激しくうねった感情を浄化したかのように、彼は周囲の自然に包まれて落ち着きを取り戻していく。
戦争ほど馬鹿馬鹿しいものはない。結論だった。戦争のない平和な世界にするために戦争をするのだろうが、そこに矛盾を感じずにはいられなかった。
プブリウスは考えるのをやめた。現実がわかっていないわけではなかったからだ。理想だけを頼りに生きていくのは、無責任だということもわかっている。
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