古代ローマの英雄スキピオの物語〜歴史上最高の戦術家カルタゴの名将ハンニバル対ローマ史上最強の男〜本物の歴史ロマンを実感して下さい

秀策

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バエクラの戦い②

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 ローマ軍は前面に展開した軽装歩兵をおとりにして、二手に分かれた本隊がカルタゴ軍に見つからないように大きく迂回してグアダルキビル川を渡った。見通しの悪い谷間の地形を利用して、密かに敵陣営の側面に回り込んだ。敵はスキピオとニーケーの予想した通りに陣を敷き、おとりにまんまと誘い出された。ハスドルバルは完全に二人の術中にはまったのだ。
 右翼をスキピオが左翼をラエリウスが指揮し、二人はまだ陣形が整わないカルタゴ軍を左右から同時に挟撃した。
 突然現れた敵に驚愕する時間さえ与えられないカルタゴ軍は、慌てて戦闘態勢に入ったが、隊列もままならない状況ではとてもローマ軍の突撃に耐えられなかった。一度破綻した軍は数がどれだけいても軍として機能するのが難しい。さらに、敵軍の崩壊していく様を確かに感じ取ったローマ軍はまさに怒涛の勢いで攻め続けた。
 馬上でスキピオも剣を振るう。向かってくる敵を薙ぎ払った。敵は弱くて脆かった。恐怖は感じなかった。ただ高揚感が彼の身体を自然と動かし続けていた。
 勝ち戦と負け戦とではこうも違うのか。激しく動く身体とは反対に、スキピオの頭は冷静だった。自らの手で命を絶たれた敵兵を憐れむ余裕すらあった。スキピオは大声で味方を鼓舞し、部下に指示を送りながら、戦争の悲しみを深く噛みしめていた。
 前と左右から挟撃されたカルタゴ軍は総崩れとなった。ハスドルバルはこの戦いはもはやここまでとばかりに、全軍に退却を命じた。カルタゴ軍から退却を報せる喇叭が鳴り響く。
 スキピオは退却する敵軍の追撃をしなかった。追撃途中で敵の援軍と遭遇する危険を考えたからだ。スキピオは敵の陣営地の掌握に集中するよう部下に命じた。
 このバエクラの戦いでの戦死者は八千人以上にもなったが、ほとんどがカルタゴ兵であった。さらに捕虜となったカルタゴ兵は実に一万二千にもなった。まさにローマ軍の大勝であった。
「戦争とはやはり嫌なものだ」
 スキピオは大勝利に浮かれる陣営で、浮かない顔でポツリと呟いた。傍らのラエリウスは主人の気持ちが理解できるようで、
「戦争を始めたのは向こうですから、相応の報いを受けるべきだとも言えるのではないでしょうか」
 と、こちらには責任がないと暗に示した。スキピオは友の言葉で、救われたとは思えなかった。これだけ多くの人が死んだ。彼には敵も味方も関係なかった。敵であっても人に変わりはない。戦争だから仕方がないとは到底思えない。こんなことは本当はやりたくなかった。自分はただの大量殺人者なのかもしれないと、スキピオは思った。
「プブリウス様、大丈夫ですか」
 顔色の悪い主人を心配して、ラエリウスが声をかけた。
「少し横にならせてもらうよ。休めば大丈夫。ちょっと疲れただけだ」
 スキピオはそう言って大勝利に歓喜する陣営の中で一人暗い表情で寝床に向かった。
 戦争を終わらせるしかない。こんな馬鹿げたことは早く終わらせなければならない。そのためには、この道を突き進むしかない。後戻りしても戦争の犠牲者は増えるだけだ。スキピオはそう自分に言い聞かせ、押しつぶされそうな罪悪感に抗った。
 スキピオはその夜に高熱を出した。悪寒と頭痛にうなされ、彼は眠ることができなかった。
 心配された指揮官の体調も二日後には元に戻った。病床から起き上がったスキピオは今回の戦いで得た捕虜を、カルタゴ人とイベリア人とに分けた。カルタゴ人はローマに移送したが、イベリア人は無条件で釈放した。そして、スキピオは釈放した者たちに向かって、
「我々はこの地をカルタゴの支配から解放するためにやってきた。あなたたちの生命や土地を奪うために来たわけではない。長らく続くローマとカルタゴの戦争に巻き込まれ、ヒスパニアの人々は多くの命を落とした。私はここに平和を実現したいと思う。
 あなた達は自由だ。だが、あなた達が故郷に帰り、再びカルタゴに協力して我々の前に立ちはだかるなら、ヒスパニアの平和を脅かそうというのなら、今度は容赦しない。
 平和を享受したいなら、どうか故郷に帰り、ローマに味方するように家族や仲間を説得してほしい」
 と、演説した。既にスキピオの噂はヒスパニアで広がりつつある。奇跡とも言える手腕でカルト・ハダシュトを占領し、ヒスパニアの人々に寛大に接するこのローマの若き指揮官は、着実にこの地で人心を掌握しつつあった。
 スキピオの元に一人の捕虜の少年が連れてこられた。スキピオが部下に尋ねると、その少年はヌミディアの生まれで、両親を亡くした後に叔父のいるヒスパニアに渡ってきたと言う。そして、その叔父と言うのがヌミディアの王子マシニッサだった。
 マシニッサはスキピオの父を死に追いやったヌミディア騎兵を率いていた男である。言わばスキピオにとっては父の仇であった。部下たちがマシニッサの甥っ子だと知って、スキピオの前に連れてきたのだ。復讐をこの場で果たさせてやろうと言う心遣いだろう。
 スキピオは感情を殺した声で少年に語りかけた。
「君の叔父はヌミディア騎兵を率いる王子マシニッサに間違いないか」
 少年はヌミディア人としての誇りを失うことなく、堂々とそうだと答えた。しかし、身体は正直で恐怖に怯えていた。自分が殺されることがわかっているのだろう。
「少年よ、三年前にあなたの叔父は私の父を殺した。でも、私はそのことを恨んではいない。父はこの戦争で犠牲になった。誰のせいでもない。戦争のせいだ。この戦争を始めたカルタゴのハンニバル将軍に責任はあるかもしれないが、彼にも戦争を始めた理由があるだろう。では、その理由は何だろうか。そう考えていけば、結局戦争で亡くなった者たちの無念、その身内の恨みは何に向ければよいのだろうか。私は今、戦争をしているが、それは本意ではない。戦争を終わらせるために私は戦っている。少年よ、叔父の元に帰りたいか」
 死を覚悟していた少年は、まさか敵の将軍からこのような言葉をかけられるとは思ってもいなかった。少年は涙を流しながら、帰りたいと短く答えた。その声は震えていた。生きることにしがみつきたい。少年の強い生への執着をスキピオは感じ取った。
 人は誰だって死にたくはない。生きたいのだ。こんな年端もいかぬ少年を、死の淵に立たせる戦争のなんと悲惨なことか。
「私はこの悲惨な戦争を終わらせる。多くの人々を不幸にする戦争をだ。私がこう考えていることを君の叔父さんに伝えて欲しい。叔父さんの元に送り届けるから、どうかマシニッサ王子に私の気持ちを伝えて欲しい」
 スキピオはそう言って、目元に優しさを滲ませながら頷いた。
 少年は馬を与えられ、ローマ騎兵に守られながらヒスパニアのカルタゴ勢力圏まで来たところで解放された。
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