3 / 35
崖っぷち
3
しおりを挟む
早川から連絡があったのは、一般レースの初日と最終日だった。レース期間中はスマホの使用が禁止されているため、夏生はスマホ返却後にそれを知った。
『この前のこと、謝罪したい』
という、ふざけた内容だった。スマホを握る手に力が入る。
謝罪など望んでもいないし、顔を見るのも嫌だった。
『俺も東京にいる。場所を言ってくれたらそこへ行く』
夏生が江戸川競艇場にいると知っての言葉だろう。だから『これから大阪に向かう』と返した。
『なら大阪に行く。何か食いたいものがあったら言ってくれ』
間も無く返ってきた文言には流石に驚いた。謝罪のためにわざわざ大阪まで行くと言うのか。そしてご馳走する気でいる。二度と会いたくない相手だが、振り回すのは楽しいかもしれない。
『何時の新幹線に乗る?』
また早川からメッセージが送られた。
次のレースが住之江なので『大阪に向かう』と送っただけで、『これから』行く気はなかった。夏生は急いでスマホを操作し、大阪行きの新幹線を調べた。『これに乗る』とスクリーンショットを送信すると、『俺はそれか、ひとつ後のに乗る』と返ってきた。
タクシーで東京駅へ向かいながら、新大阪駅近くのホテルを探す。当日だからかどこも埋まっていた。最悪ネットカフェで……考えかけて、ハッとした。なにを律儀に大阪へ向かおうとしているのか。こんな約束、すっぽかしてしまえば良いのだ。
それに……と疑惑がもたげた。早川が来るとは限らないのではないか。すっぽかされるのは、自分の方なのではないか……
八重洲口でタクシーを降りたが、夏生は考え直して、新幹線口へは向かわず、JR線の改札口へと向かった。
改札を通り抜けた時、人混みの中に早川を見つけた。早川は夏生には気付かず、人混みを躱して新幹線乗り場へと急ぐ。歩幅が大きく、すぐに見失ってしまいそうだった。
夏生は慌てて早川の後を追った。すでにチケットは買ってあるのか、早川はチケット売り場をスルーした。
「早川っ」
と声をかけたが、届かなかった。
「ああ、くそっ」
夏生は急いでスマホを操作し、アプリで新大阪行きの新幹線を決済した。
改札を出たところで「井岡っ」と声をかけられた。
東京駅でお前を見掛けたなどと余計なことは口にせず、夏生は「よお」とだけ返した。
「何が食いたい?」
本当に反省しているらしい。どこか神妙な面持ちで、気遣うような声音で聞いてきた。
肉、と答えたいところだが、江戸川での夏生の最高着順は3着で、あとは舟券に絡まなかった。だからご褒美になるようなものを食べる気にはなれない。
夏生が答えられずにいると、早川は痛ましげに眉を寄せ、言った。
「俺と食事するのは嫌か?」
イラッとした。
「……嫌なら、わざわざ大阪なんか来ねーよ」
振り回そうと思ったのに、自分自身が振り回された。ムスッと答えると、早川は「大阪に行くって言ったのはお前だろ?」と不思議そうに言った。
「ああ、そーだったな」
投げやりに言った。
「断るための嘘だったのか?」
問われ、体が勝手に強張った。この男を怒らせるとヤバイということは、この前、身をもって知った。
夏生の怯えを感じ取ったのか、早川は「俺は別に良いけど」と優しい物言いをした。
「うまそうな和牛の店を見つけたんだが、そこでもいいか?」
仕切り直すように言われた。
「……俺、あんま食欲ない」
「無理して食わなくてもいいから、少しだけ付き合ってくれ」
早川が選んだ和牛の店は、駅ビル内の、高価格帯の店が並ぶフロアにあった。
扉付きの完全個室に通され、早川は盛り合わせや一品物を注文していく。「飲み物は?」と問われ、夏生は「烏龍茶」と答えた。
「じゃあ烏龍茶ふたつ」
店員が去った後、早川は改まったように姿勢を正し、こちらを見た。
「井岡……すまなかった」
早川が頭を下げる。夏生は気づかないフリでおしぼりで手を拭った。あの件についての謝罪を、どう受け止めたら良いのか分からなかった。屈辱的で、許しがたい行為なのは間違いないが、それだけ彼を怒らせたのは自分だ。そして自分は、彼に言った言葉を忘れている。
「お前の仕事に支障が出るなんて、考えもしなかった」
サッと背筋が凍りついた。夏生は顔を上げる。
「本当にすまない……俺、取り返しのつかないことを」
「待て……」
唇が震えた。こいつは、俺の成績不振を、自分のせいだと思っているのだ……
そこへ店員が料理を持ってやってきた。卓上コンロに火を付け、肉の説明をして去っていく。霜降りの上等な肉を見ても、食欲は一切湧かなかった。それどころか吐き気が込み上げ、夏生は咄嗟に口を覆った。
「井岡っ!?」
早川が立ち上がる。夏生はゆるくかぶりを振り、もう片方の手で早川を制した。
トントンと胸を叩いて気持ちを落ち着かせる。グラスを手に取り、烏龍茶を一息に飲み干すと、目尻に溜まった涙がこぼれ落ちた。
「お前の……せいじゃない」
こんなことを言わせる早川を、恨んだ。
「いつものこと……5着、6着は、当たり前なんだよっ……お前にっ……されたからじゃないっ……お前のせいじゃないっ……俺がっ、……俺の、実力不足なんだよっ……」
吐く息すら震えていた。落ち着きなく胸をさする。もう後がない。次の住之江競艇場では優勝くらいの結果を出さなければならない。……思うと、次から次へと涙が溢れた。
「井岡……」
「お前はっ……く、燻ってるって言ったけど……違う」
あの日、早川は『ボートレーサーとしてパッとしない』『燻ってる』と言った。だがそれは違う。自分は舟券に絡まない。それはギャンブルを楽しむ客にとっては存在しないも同然だ。
「俺はっ……もう……」
早川の視線に耐えられず、夏生はかたく瞼を閉じた。
「もう、枯れてんだ。……向いてなかった」
開花することなく、誰の目に留まることもなく。
「でも、引退する気はないんだろ?」
早川が控えめに問う。
「井岡は、自分で辞める気はないんだろ?」
カッと顔が熱くなった。でも早川に侮辱の気持ちはなさそうだ。「やれるところまでやろうとしているんなら、それで良いじゃないか」と励ましのようなことを言う。
「お前の名前、検索したんだ」
「クビ間際の選手一覧ってサイトが出てきたろ?」
夏生は自嘲気味に笑った。
「ああ……でも残りの斡旋で挽回可能とも書いてあった。お前は『いつものこと』だと言ったが、江戸川競艇場では好成績を残している。今回、結果が振るわなかったのは、どう考えても俺のせいだ」
「……江戸川は、荒れるから」
江戸川競艇場は全国で唯一、本当の河川を利用した競艇場で、風が吹くと水面が大荒れになることが多い。
「……だから、実力通りの結果にならないんだよ。上手い人でも事故るから、俺みたいな下手くそでも舟券に絡める」
「荒れた水面で結果を出せるんだ。お前は向いてないわけじゃない」
「…………」
ジュウっと肉の焼ける音がした。
「食おう。腹が減った」
早川はホルモンやカルビを網に乗せていく。それを見たら涙が引っ込んだ。
「おいっ! 焼くならタンからだろっ」
早川が手を止める。
「……網が汚れるだろうが」
「ああ……」
早川は肩をすくめ、笑った。悪びれる様子もなく「そうだったな」と肉を隅に避ける。なんだかその手つきも怪しい。
「肉は俺が焼くから」
そう言って箸を取ると、不思議と食欲が湧いてきた。肉厚なタンの重みに驚きながら、夏生は網にタンを並べていく。視線を感じ、顔を上げると早川と目が合った。
「なんか……食えそうだわ」
サッと視線を網に落とし、夏生は言った。
「そうか……良かった。たくさん食ってくれ」
繕ったような明るい声で早川が言った。
「たくさん食ったら太る」
何気なく放った言葉で思い知る。自分は、まだ可能性を諦めきれていない。
食べ終えると、どこに泊まるのかと聞かれた。まだ決まってないと答えると、早川は心底呆れたように言った。
「どうして大阪を待ち合わせ場所にしたんだ」
「それは……お前が行くって言ったからだろ……あれはただの断り文句だったのに」
「だったらそう言うか、素直に嫌だと言えば良かったじゃないか。あんなことをしたんだ。断られることだって覚悟の上だ」
「それは……そうかもしれないけど……」
早川はスマホを取り出すと、「次のレースは十三日からだよな? それまでこっちにいるつもりか?」と言った。
「まあ……そうだけど」
「なら四泊ホテル取るから、そこに泊まってくれ」
「いや、三泊でいい。前入りするから」
「分かった。三泊だな」
「どこもいっぱいだろ?」
「そう……だな。二泊はできても三泊は……三日目は別のホテルでも良いか?」
そこで夏生はようやく気づいた。
「お前がホテル代払うのか?」
「当たり前だろ。それくらいする」
「いや、悪いって」
「今日、お前が会ってくれるなんて思わなかった」
「……だから、会うつもりはなかったんだって。お前が大阪まで来るって言うから、振り回すのも悪くないかなって……」
「でも結局、お前の予定も狂った。すっぽかそうとは思わなかったのか? 俺は正直、待ち合わせ場所にお前が来なくても仕方ないと思っていた」
「それ、余計な出費への嫌味か? 俺が来なきゃ、お前は食事代もホテル代も一人分で済んだもんな」
早川がスマホから顔を上げる。まるで心外だとでも言うように、彼は目尻を吊り上げた。
「そんなこと、微塵も思っていない。勝手に人の心を悪く読み取らないでくれ」
怒りのスイッチが入ってしまったのか、再びスマホに視線を落とすと、早川はさらに続けた。
「あの時だってそうだ。俺は好意を伝えただけなのに、お前は嫌がらせだとか怒ってるとか……俺の告白を的外れに解釈して騒いだ」
早川はフッと小さく笑った。
「でも、俺が本気だと分かったら、お前の解釈は的を得るようになった。俺はお前をそういう目で見ていたし、気持ち悪い妄想もたくさんした」
気持ち悪い妄想、という言葉が浮いて聞こえるのは、それが夏生の言葉だからだろう。
「……悪かったよ」
「いや、むしろお前にどん底まで突き落とされて、良かったよ。そういう気のない人間に思いをぶつけたらどうなるか、あの頃の俺は分かってなかったんだ。お前のおかげで慎重になれたし、あれから大きな失敗もない」
返すべき言葉が見つからない。じわじわと顔が熱いのは、早川に好意の片鱗があると勘違いして、「俺と付き合えよ」なんて嘯いた愚行を恥じているからだ。
「よし、三泊目も見つかった」
早川が気を取り直すように言った。
店を出て、二人でタクシーに乗り込む。早川がドライバーに告げたのは、夏生が値段で弾いていた三つ星ホテルだった。
「お前も一緒に泊んの?」
「安心しろ。俺は別の部屋をとった」
ホテルに到着し、早川が「待っていて」とフロントへ向かう。シックな雰囲気のロビーには豪華な生花が飾られている。フロントスタッフも洗練されていて、自分は場違いじゃないかと夏生は不安に駆られた。上はナイロンジャケットだしズボンはストレッチが効いている。靴は使い古したスニーカーだ。
スーツ姿の早川はすっかりこの場に馴染んでいる。愛想よくフロントスタッフとやり取りしている彼を見ていると、彼の恋愛遍歴はどんなものだろうと興味が湧いた。
あれから大きな失敗もない、ということは、それなりに良い恋愛経験を重ねてきた、ということだろう。相手に選んできたのは、ひどい振り方をした自分とは真逆のタイプだろうか、それとも趣向は変わらず、似たようなタイプだろうか。
自分を判断基準に考えていて、夏生は苦笑した。彼がどんな相手を選ぼうが、そこに自分は関係ない。
早川がやってきた。ルームカードを差し出される。
「ちょうどキャンセルが出たから、三泊泊まれるようになった。チェックアウトは十二日の十二時だ」
「ありがとう……」
早川に罪悪感があったとしても、恨んでいる相手のためにここまでするのは不本意のはずで、内心、苛立っているに違いない。だから無意識に「ごめん」と謝っていた。
「なんの謝罪だよ」
「そりゃ……悪いからに決まってんじゃん。こんな高そうなとこ……」
「大浴場があるらしい」
早川はそう言って、視線を横に向けた。ガラスで仕切られた奥に湯のマークがある。
「ゆっくり体休めて、次のレースを頑張ってくれ。お前が引退するようなことがあれば、俺は一生お前にしたことを悔やむ」
「だから……お前のせいじゃないから」眼差しから逃げるようにルームカードに視線を落とす。「部屋、行くわ」
「エレベーターはあっちだ。一緒に行こう」
早川が歩き出し、夏生はその後をついていく形となった。
二人でエレベーターに乗り込み、早川は十階と十二階を押す。上昇してすぐ、早川は前を見たまま言った。
「俺は大浴場には行かないから」
「え?」
聞き返した直後、エレベーターが三階で止まった。三階にはトレーニングジムがあるらしく、汗をかいた女性客が乗り込んできた。
早川を見るが、何も言わない。エレベーターが十階で止まると、まるで他人のように、早川は何も言わずに出て行った。
十二階でエレベーターを降り、ルームカードに書かれた部屋番号を目指す。
ドアを開け、カードを壁掛けのカードホルダーに差し込むと、パッと室内が明るくなった。広々としたツインルームに驚いて目を見張る。ここに一人で宿泊するなんて、贅沢にも程がある。
二人部屋なら、一緒に泊まれば良かったのに。そう思った時、唐突に早川の言葉を理解した。
俺は大浴場には行かないから。
あれは、俺への気遣いだ。自分がいたらゆっくり風呂に入れないと思って、早川は「行かない」と伝えてくれたのだ。確かに裸で鉢合わせしたら気まずいしあの日を思い出してしまいそうだが、それでも先回りの気遣いには気恥ずかしさが込み上げる。
広い部屋で、夏生は途方に暮れた。
早川は責任を感じている。レースの結果が振るわないのは、自分のせいだと思い込んでいる。決してそんなことはないのに。俺の実力がないだけなのに。
結果を出すしかないなと思った。ここで足切りの対象となるような走りをしたら、早川は一生責任を感じることになる。大丈夫、いける。自分に言い聞かせた。弱いなりに十年続けられたのだ。我知らず体が震えた。レースを思って武者震いするなど、デビュー戦以来の現象だった。
『この前のこと、謝罪したい』
という、ふざけた内容だった。スマホを握る手に力が入る。
謝罪など望んでもいないし、顔を見るのも嫌だった。
『俺も東京にいる。場所を言ってくれたらそこへ行く』
夏生が江戸川競艇場にいると知っての言葉だろう。だから『これから大阪に向かう』と返した。
『なら大阪に行く。何か食いたいものがあったら言ってくれ』
間も無く返ってきた文言には流石に驚いた。謝罪のためにわざわざ大阪まで行くと言うのか。そしてご馳走する気でいる。二度と会いたくない相手だが、振り回すのは楽しいかもしれない。
『何時の新幹線に乗る?』
また早川からメッセージが送られた。
次のレースが住之江なので『大阪に向かう』と送っただけで、『これから』行く気はなかった。夏生は急いでスマホを操作し、大阪行きの新幹線を調べた。『これに乗る』とスクリーンショットを送信すると、『俺はそれか、ひとつ後のに乗る』と返ってきた。
タクシーで東京駅へ向かいながら、新大阪駅近くのホテルを探す。当日だからかどこも埋まっていた。最悪ネットカフェで……考えかけて、ハッとした。なにを律儀に大阪へ向かおうとしているのか。こんな約束、すっぽかしてしまえば良いのだ。
それに……と疑惑がもたげた。早川が来るとは限らないのではないか。すっぽかされるのは、自分の方なのではないか……
八重洲口でタクシーを降りたが、夏生は考え直して、新幹線口へは向かわず、JR線の改札口へと向かった。
改札を通り抜けた時、人混みの中に早川を見つけた。早川は夏生には気付かず、人混みを躱して新幹線乗り場へと急ぐ。歩幅が大きく、すぐに見失ってしまいそうだった。
夏生は慌てて早川の後を追った。すでにチケットは買ってあるのか、早川はチケット売り場をスルーした。
「早川っ」
と声をかけたが、届かなかった。
「ああ、くそっ」
夏生は急いでスマホを操作し、アプリで新大阪行きの新幹線を決済した。
改札を出たところで「井岡っ」と声をかけられた。
東京駅でお前を見掛けたなどと余計なことは口にせず、夏生は「よお」とだけ返した。
「何が食いたい?」
本当に反省しているらしい。どこか神妙な面持ちで、気遣うような声音で聞いてきた。
肉、と答えたいところだが、江戸川での夏生の最高着順は3着で、あとは舟券に絡まなかった。だからご褒美になるようなものを食べる気にはなれない。
夏生が答えられずにいると、早川は痛ましげに眉を寄せ、言った。
「俺と食事するのは嫌か?」
イラッとした。
「……嫌なら、わざわざ大阪なんか来ねーよ」
振り回そうと思ったのに、自分自身が振り回された。ムスッと答えると、早川は「大阪に行くって言ったのはお前だろ?」と不思議そうに言った。
「ああ、そーだったな」
投げやりに言った。
「断るための嘘だったのか?」
問われ、体が勝手に強張った。この男を怒らせるとヤバイということは、この前、身をもって知った。
夏生の怯えを感じ取ったのか、早川は「俺は別に良いけど」と優しい物言いをした。
「うまそうな和牛の店を見つけたんだが、そこでもいいか?」
仕切り直すように言われた。
「……俺、あんま食欲ない」
「無理して食わなくてもいいから、少しだけ付き合ってくれ」
早川が選んだ和牛の店は、駅ビル内の、高価格帯の店が並ぶフロアにあった。
扉付きの完全個室に通され、早川は盛り合わせや一品物を注文していく。「飲み物は?」と問われ、夏生は「烏龍茶」と答えた。
「じゃあ烏龍茶ふたつ」
店員が去った後、早川は改まったように姿勢を正し、こちらを見た。
「井岡……すまなかった」
早川が頭を下げる。夏生は気づかないフリでおしぼりで手を拭った。あの件についての謝罪を、どう受け止めたら良いのか分からなかった。屈辱的で、許しがたい行為なのは間違いないが、それだけ彼を怒らせたのは自分だ。そして自分は、彼に言った言葉を忘れている。
「お前の仕事に支障が出るなんて、考えもしなかった」
サッと背筋が凍りついた。夏生は顔を上げる。
「本当にすまない……俺、取り返しのつかないことを」
「待て……」
唇が震えた。こいつは、俺の成績不振を、自分のせいだと思っているのだ……
そこへ店員が料理を持ってやってきた。卓上コンロに火を付け、肉の説明をして去っていく。霜降りの上等な肉を見ても、食欲は一切湧かなかった。それどころか吐き気が込み上げ、夏生は咄嗟に口を覆った。
「井岡っ!?」
早川が立ち上がる。夏生はゆるくかぶりを振り、もう片方の手で早川を制した。
トントンと胸を叩いて気持ちを落ち着かせる。グラスを手に取り、烏龍茶を一息に飲み干すと、目尻に溜まった涙がこぼれ落ちた。
「お前の……せいじゃない」
こんなことを言わせる早川を、恨んだ。
「いつものこと……5着、6着は、当たり前なんだよっ……お前にっ……されたからじゃないっ……お前のせいじゃないっ……俺がっ、……俺の、実力不足なんだよっ……」
吐く息すら震えていた。落ち着きなく胸をさする。もう後がない。次の住之江競艇場では優勝くらいの結果を出さなければならない。……思うと、次から次へと涙が溢れた。
「井岡……」
「お前はっ……く、燻ってるって言ったけど……違う」
あの日、早川は『ボートレーサーとしてパッとしない』『燻ってる』と言った。だがそれは違う。自分は舟券に絡まない。それはギャンブルを楽しむ客にとっては存在しないも同然だ。
「俺はっ……もう……」
早川の視線に耐えられず、夏生はかたく瞼を閉じた。
「もう、枯れてんだ。……向いてなかった」
開花することなく、誰の目に留まることもなく。
「でも、引退する気はないんだろ?」
早川が控えめに問う。
「井岡は、自分で辞める気はないんだろ?」
カッと顔が熱くなった。でも早川に侮辱の気持ちはなさそうだ。「やれるところまでやろうとしているんなら、それで良いじゃないか」と励ましのようなことを言う。
「お前の名前、検索したんだ」
「クビ間際の選手一覧ってサイトが出てきたろ?」
夏生は自嘲気味に笑った。
「ああ……でも残りの斡旋で挽回可能とも書いてあった。お前は『いつものこと』だと言ったが、江戸川競艇場では好成績を残している。今回、結果が振るわなかったのは、どう考えても俺のせいだ」
「……江戸川は、荒れるから」
江戸川競艇場は全国で唯一、本当の河川を利用した競艇場で、風が吹くと水面が大荒れになることが多い。
「……だから、実力通りの結果にならないんだよ。上手い人でも事故るから、俺みたいな下手くそでも舟券に絡める」
「荒れた水面で結果を出せるんだ。お前は向いてないわけじゃない」
「…………」
ジュウっと肉の焼ける音がした。
「食おう。腹が減った」
早川はホルモンやカルビを網に乗せていく。それを見たら涙が引っ込んだ。
「おいっ! 焼くならタンからだろっ」
早川が手を止める。
「……網が汚れるだろうが」
「ああ……」
早川は肩をすくめ、笑った。悪びれる様子もなく「そうだったな」と肉を隅に避ける。なんだかその手つきも怪しい。
「肉は俺が焼くから」
そう言って箸を取ると、不思議と食欲が湧いてきた。肉厚なタンの重みに驚きながら、夏生は網にタンを並べていく。視線を感じ、顔を上げると早川と目が合った。
「なんか……食えそうだわ」
サッと視線を網に落とし、夏生は言った。
「そうか……良かった。たくさん食ってくれ」
繕ったような明るい声で早川が言った。
「たくさん食ったら太る」
何気なく放った言葉で思い知る。自分は、まだ可能性を諦めきれていない。
食べ終えると、どこに泊まるのかと聞かれた。まだ決まってないと答えると、早川は心底呆れたように言った。
「どうして大阪を待ち合わせ場所にしたんだ」
「それは……お前が行くって言ったからだろ……あれはただの断り文句だったのに」
「だったらそう言うか、素直に嫌だと言えば良かったじゃないか。あんなことをしたんだ。断られることだって覚悟の上だ」
「それは……そうかもしれないけど……」
早川はスマホを取り出すと、「次のレースは十三日からだよな? それまでこっちにいるつもりか?」と言った。
「まあ……そうだけど」
「なら四泊ホテル取るから、そこに泊まってくれ」
「いや、三泊でいい。前入りするから」
「分かった。三泊だな」
「どこもいっぱいだろ?」
「そう……だな。二泊はできても三泊は……三日目は別のホテルでも良いか?」
そこで夏生はようやく気づいた。
「お前がホテル代払うのか?」
「当たり前だろ。それくらいする」
「いや、悪いって」
「今日、お前が会ってくれるなんて思わなかった」
「……だから、会うつもりはなかったんだって。お前が大阪まで来るって言うから、振り回すのも悪くないかなって……」
「でも結局、お前の予定も狂った。すっぽかそうとは思わなかったのか? 俺は正直、待ち合わせ場所にお前が来なくても仕方ないと思っていた」
「それ、余計な出費への嫌味か? 俺が来なきゃ、お前は食事代もホテル代も一人分で済んだもんな」
早川がスマホから顔を上げる。まるで心外だとでも言うように、彼は目尻を吊り上げた。
「そんなこと、微塵も思っていない。勝手に人の心を悪く読み取らないでくれ」
怒りのスイッチが入ってしまったのか、再びスマホに視線を落とすと、早川はさらに続けた。
「あの時だってそうだ。俺は好意を伝えただけなのに、お前は嫌がらせだとか怒ってるとか……俺の告白を的外れに解釈して騒いだ」
早川はフッと小さく笑った。
「でも、俺が本気だと分かったら、お前の解釈は的を得るようになった。俺はお前をそういう目で見ていたし、気持ち悪い妄想もたくさんした」
気持ち悪い妄想、という言葉が浮いて聞こえるのは、それが夏生の言葉だからだろう。
「……悪かったよ」
「いや、むしろお前にどん底まで突き落とされて、良かったよ。そういう気のない人間に思いをぶつけたらどうなるか、あの頃の俺は分かってなかったんだ。お前のおかげで慎重になれたし、あれから大きな失敗もない」
返すべき言葉が見つからない。じわじわと顔が熱いのは、早川に好意の片鱗があると勘違いして、「俺と付き合えよ」なんて嘯いた愚行を恥じているからだ。
「よし、三泊目も見つかった」
早川が気を取り直すように言った。
店を出て、二人でタクシーに乗り込む。早川がドライバーに告げたのは、夏生が値段で弾いていた三つ星ホテルだった。
「お前も一緒に泊んの?」
「安心しろ。俺は別の部屋をとった」
ホテルに到着し、早川が「待っていて」とフロントへ向かう。シックな雰囲気のロビーには豪華な生花が飾られている。フロントスタッフも洗練されていて、自分は場違いじゃないかと夏生は不安に駆られた。上はナイロンジャケットだしズボンはストレッチが効いている。靴は使い古したスニーカーだ。
スーツ姿の早川はすっかりこの場に馴染んでいる。愛想よくフロントスタッフとやり取りしている彼を見ていると、彼の恋愛遍歴はどんなものだろうと興味が湧いた。
あれから大きな失敗もない、ということは、それなりに良い恋愛経験を重ねてきた、ということだろう。相手に選んできたのは、ひどい振り方をした自分とは真逆のタイプだろうか、それとも趣向は変わらず、似たようなタイプだろうか。
自分を判断基準に考えていて、夏生は苦笑した。彼がどんな相手を選ぼうが、そこに自分は関係ない。
早川がやってきた。ルームカードを差し出される。
「ちょうどキャンセルが出たから、三泊泊まれるようになった。チェックアウトは十二日の十二時だ」
「ありがとう……」
早川に罪悪感があったとしても、恨んでいる相手のためにここまでするのは不本意のはずで、内心、苛立っているに違いない。だから無意識に「ごめん」と謝っていた。
「なんの謝罪だよ」
「そりゃ……悪いからに決まってんじゃん。こんな高そうなとこ……」
「大浴場があるらしい」
早川はそう言って、視線を横に向けた。ガラスで仕切られた奥に湯のマークがある。
「ゆっくり体休めて、次のレースを頑張ってくれ。お前が引退するようなことがあれば、俺は一生お前にしたことを悔やむ」
「だから……お前のせいじゃないから」眼差しから逃げるようにルームカードに視線を落とす。「部屋、行くわ」
「エレベーターはあっちだ。一緒に行こう」
早川が歩き出し、夏生はその後をついていく形となった。
二人でエレベーターに乗り込み、早川は十階と十二階を押す。上昇してすぐ、早川は前を見たまま言った。
「俺は大浴場には行かないから」
「え?」
聞き返した直後、エレベーターが三階で止まった。三階にはトレーニングジムがあるらしく、汗をかいた女性客が乗り込んできた。
早川を見るが、何も言わない。エレベーターが十階で止まると、まるで他人のように、早川は何も言わずに出て行った。
十二階でエレベーターを降り、ルームカードに書かれた部屋番号を目指す。
ドアを開け、カードを壁掛けのカードホルダーに差し込むと、パッと室内が明るくなった。広々としたツインルームに驚いて目を見張る。ここに一人で宿泊するなんて、贅沢にも程がある。
二人部屋なら、一緒に泊まれば良かったのに。そう思った時、唐突に早川の言葉を理解した。
俺は大浴場には行かないから。
あれは、俺への気遣いだ。自分がいたらゆっくり風呂に入れないと思って、早川は「行かない」と伝えてくれたのだ。確かに裸で鉢合わせしたら気まずいしあの日を思い出してしまいそうだが、それでも先回りの気遣いには気恥ずかしさが込み上げる。
広い部屋で、夏生は途方に暮れた。
早川は責任を感じている。レースの結果が振るわないのは、自分のせいだと思い込んでいる。決してそんなことはないのに。俺の実力がないだけなのに。
結果を出すしかないなと思った。ここで足切りの対象となるような走りをしたら、早川は一生責任を感じることになる。大丈夫、いける。自分に言い聞かせた。弱いなりに十年続けられたのだ。我知らず体が震えた。レースを思って武者震いするなど、デビュー戦以来の現象だった。
0
あなたにおすすめの小説
俺にだけ厳しい幼馴染とストーカー事件を調査した結果、結果、とんでもない事実が判明した
あと
BL
「また物が置かれてる!」
最近ポストやバイト先に物が贈られるなどストーカー行為に悩まされている主人公。物理的被害はないため、警察は動かないだろうから、自分にだけ厳しいチャラ男幼馴染を味方につけ、自分たちだけで調査することに。なんとかストーカーを捕まえるが、違和感は残り、物語は意外な方向に…?
⚠️ヤンデレ、ストーカー要素が含まれています。
攻めが重度のヤンデレです。自衛してください。
ちょっと怖い場面が含まれています。
ミステリー要素があります。
一応ハピエンです。
主人公:七瀬明
幼馴染:月城颯
ストーカー:不明
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
内容も時々サイレント修正するかもです。
定期的にタグ整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
バイト先に元カレがいるんだが、どうすりゃいい?
cheeery
BL
サークルに一人暮らしと、完璧なキャンパスライフが始まった俺……広瀬 陽(ひろせ あき)
ひとつ問題があるとすれば金欠であるということだけ。
「そうだ、バイトをしよう!」
一人暮らしをしている近くのカフェでバイトをすることが決まり、初めてのバイトの日。
教育係として現れたのは……なんと高二の冬に俺を振った元カレ、三上 隼人(みかみ はやと)だった!
なんで元カレがここにいるんだよ!
俺の気持ちを弄んでフッた最低な元カレだったのに……。
「あんまり隙見せない方がいいよ。遠慮なくつけこむから」
「ねぇ、今どっちにドキドキしてる?」
なんか、俺……ずっと心臓が落ち着かねぇ!
もう一度期待したら、また傷つく?
あの時、俺たちが別れた本当の理由は──?
「そろそろ我慢の限界かも」
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
鎖に繋がれた騎士は、敵国で皇帝の愛に囚われる
結衣可
BL
戦場で捕らえられた若き騎士エリアスは、牢に繋がれながらも誇りを折らず、帝国の皇帝オルフェンの瞳を惹きつける。
冷酷と畏怖で人を遠ざけてきた皇帝は、彼を望み、夜ごと逢瀬を重ねていく。
憎しみと抗いのはずが、いつしか芽生える心の揺らぎ。
誇り高き騎士が囚われたのは、冷徹な皇帝の愛。
鎖に繋がれた誇りと、独占欲に満ちた溺愛の行方は――。
消えない思い
樹木緑
BL
オメガバース:僕には忘れられない夏がある。彼が好きだった。ただ、ただ、彼が好きだった。
高校3年生 矢野浩二 α
高校3年生 佐々木裕也 α
高校1年生 赤城要 Ω
赤城要は運命の番である両親に憧れ、両親が出会った高校に入学します。
自分も両親の様に運命の番が欲しいと思っています。
そして高校の入学式で出会った矢野浩二に、淡い感情を抱き始めるようになります。
でもあるきっかけを基に、佐々木裕也と出会います。
彼こそが要の探し続けた運命の番だったのです。
そして3人の運命が絡み合って、それぞれが、それぞれの選択をしていくと言うお話です。
【完結】抱っこからはじまる恋
* ゆるゆ
BL
満員電車で、立ったまま寄りかかるように寝てしまった高校生の愛希を抱っこしてくれたのは、かっこいい社会人の真紀でした。接点なんて、まるでないふたりの、抱っこからはじまる、しあわせな恋のお話です。
ふたりの動画をつくりました!
インスタ @yuruyu0 絵もあがります。
YouTube @BL小説動画 アカウントがなくても、どなたでもご覧になれます。
プロフのwebサイトから飛べるので、もしよかったら!
完結しました!
おまけのお話を時々更新しています。
BLoveさまのコンテストに応募するお話に、真紀ちゃん(攻)視点を追加して、倍以上の字数増量でお送りする、アルファポリスさま限定版です!
名前が * ゆるゆ になりましたー!
中身はいっしょなので(笑)これからもどうぞよろしくお願い致しますー!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる