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兵馬俑

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崖っぷち

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 早川から連絡があったのは、一般レースの初日と最終日だった。レース期間中はスマホの使用が禁止されているため、夏生はスマホ返却後にそれを知った。

『この前のこと、謝罪したい』

 という、ふざけた内容だった。スマホを握る手に力が入る。

 謝罪など望んでもいないし、顔を見るのも嫌だった。

『俺も東京にいる。場所を言ってくれたらそこへ行く』

 夏生が江戸川競艇場にいると知っての言葉だろう。だから『これから大阪に向かう』と返した。

『なら大阪に行く。何か食いたいものがあったら言ってくれ』

 間も無く返ってきた文言には流石に驚いた。謝罪のためにわざわざ大阪まで行くと言うのか。そしてご馳走する気でいる。二度と会いたくない相手だが、振り回すのは楽しいかもしれない。

『何時の新幹線に乗る?』

 また早川からメッセージが送られた。

 次のレースが住之江なので『大阪に向かう』と送っただけで、『これから』行く気はなかった。夏生は急いでスマホを操作し、大阪行きの新幹線を調べた。『これに乗る』とスクリーンショットを送信すると、『俺はそれか、ひとつ後のに乗る』と返ってきた。

 タクシーで東京駅へ向かいながら、新大阪駅近くのホテルを探す。当日だからかどこも埋まっていた。最悪ネットカフェで……考えかけて、ハッとした。なにを律儀に大阪へ向かおうとしているのか。こんな約束、すっぽかしてしまえば良いのだ。

 それに……と疑惑がもたげた。早川が来るとは限らないのではないか。すっぽかされるのは、自分の方なのではないか……

 八重洲口でタクシーを降りたが、夏生は考え直して、新幹線口へは向かわず、JR線の改札口へと向かった。

 改札を通り抜けた時、人混みの中に早川を見つけた。早川は夏生には気付かず、人混みを躱して新幹線乗り場へと急ぐ。歩幅が大きく、すぐに見失ってしまいそうだった。

 夏生は慌てて早川の後を追った。すでにチケットは買ってあるのか、早川はチケット売り場をスルーした。

「早川っ」

 と声をかけたが、届かなかった。

「ああ、くそっ」

 夏生は急いでスマホを操作し、アプリで新大阪行きの新幹線を決済した。

 

 改札を出たところで「井岡っ」と声をかけられた。

 東京駅でお前を見掛けたなどと余計なことは口にせず、夏生は「よお」とだけ返した。

「何が食いたい?」

 本当に反省しているらしい。どこか神妙な面持ちで、気遣うような声音で聞いてきた。

 肉、と答えたいところだが、江戸川での夏生の最高着順は3着で、あとは舟券に絡まなかった。だからご褒美になるようなものを食べる気にはなれない。

 夏生が答えられずにいると、早川は痛ましげに眉を寄せ、言った。

「俺と食事するのは嫌か?」

 イラッとした。

「……嫌なら、わざわざ大阪なんか来ねーよ」

 振り回そうと思ったのに、自分自身が振り回された。ムスッと答えると、早川は「大阪に行くって言ったのはお前だろ?」と不思議そうに言った。

「ああ、そーだったな」

 投げやりに言った。

「断るための嘘だったのか?」

 問われ、体が勝手に強張った。この男を怒らせるとヤバイということは、この前、身をもって知った。

 夏生の怯えを感じ取ったのか、早川は「俺は別に良いけど」と優しい物言いをした。

「うまそうな和牛の店を見つけたんだが、そこでもいいか?」

 仕切り直すように言われた。

「……俺、あんま食欲ない」

「無理して食わなくてもいいから、少しだけ付き合ってくれ」

 早川が選んだ和牛の店は、駅ビル内の、高価格帯の店が並ぶフロアにあった。

 扉付きの完全個室に通され、早川は盛り合わせや一品物を注文していく。「飲み物は?」と問われ、夏生は「烏龍茶」と答えた。

「じゃあ烏龍茶ふたつ」

 店員が去った後、早川は改まったように姿勢を正し、こちらを見た。

「井岡……すまなかった」

 早川が頭を下げる。夏生は気づかないフリでおしぼりで手を拭った。あの件についての謝罪を、どう受け止めたら良いのか分からなかった。屈辱的で、許しがたい行為なのは間違いないが、それだけ彼を怒らせたのは自分だ。そして自分は、彼に言った言葉を忘れている。

「お前の仕事に支障が出るなんて、考えもしなかった」

 サッと背筋が凍りついた。夏生は顔を上げる。

「本当にすまない……俺、取り返しのつかないことを」

「待て……」

 唇が震えた。こいつは、俺の成績不振を、自分のせいだと思っているのだ……

 そこへ店員が料理を持ってやってきた。卓上コンロに火を付け、肉の説明をして去っていく。霜降りの上等な肉を見ても、食欲は一切湧かなかった。それどころか吐き気が込み上げ、夏生は咄嗟に口を覆った。

「井岡っ!?」

 早川が立ち上がる。夏生はゆるくかぶりを振り、もう片方の手で早川を制した。

 トントンと胸を叩いて気持ちを落ち着かせる。グラスを手に取り、烏龍茶を一息に飲み干すと、目尻に溜まった涙がこぼれ落ちた。

「お前の……せいじゃない」

 こんなことを言わせる早川を、恨んだ。

「いつものこと……5着、6着は、当たり前なんだよっ……お前にっ……されたからじゃないっ……お前のせいじゃないっ……俺がっ、……俺の、実力不足なんだよっ……」

 吐く息すら震えていた。落ち着きなく胸をさする。もう後がない。次の住之江競艇場では優勝くらいの結果を出さなければならない。……思うと、次から次へと涙が溢れた。

「井岡……」

「お前はっ……く、燻ってるって言ったけど……違う」

 あの日、早川は『ボートレーサーとしてパッとしない』『燻ってる』と言った。だがそれは違う。自分は舟券に絡まない。それはギャンブルを楽しむ客にとっては存在しないも同然だ。

「俺はっ……もう……」

 早川の視線に耐えられず、夏生はかたく瞼を閉じた。

「もう、枯れてんだ。……向いてなかった」

 開花することなく、誰の目に留まることもなく。

「でも、引退する気はないんだろ?」

 早川が控えめに問う。

「井岡は、自分で辞める気はないんだろ?」

 カッと顔が熱くなった。でも早川に侮辱の気持ちはなさそうだ。「やれるところまでやろうとしているんなら、それで良いじゃないか」と励ましのようなことを言う。

「お前の名前、検索したんだ」

「クビ間際の選手一覧ってサイトが出てきたろ?」

 夏生は自嘲気味に笑った。

「ああ……でも残りの斡旋で挽回可能とも書いてあった。お前は『いつものこと』だと言ったが、江戸川競艇場では好成績を残している。今回、結果が振るわなかったのは、どう考えても俺のせいだ」

「……江戸川は、荒れるから」

 江戸川競艇場は全国で唯一、本当の河川を利用した競艇場で、風が吹くと水面が大荒れになることが多い。

「……だから、実力通りの結果にならないんだよ。上手い人でも事故るから、俺みたいな下手くそでも舟券に絡める」

「荒れた水面で結果を出せるんだ。お前は向いてないわけじゃない」

「…………」

 ジュウっと肉の焼ける音がした。

「食おう。腹が減った」

 早川はホルモンやカルビを網に乗せていく。それを見たら涙が引っ込んだ。

「おいっ! 焼くならタンからだろっ」

 早川が手を止める。

「……網が汚れるだろうが」

「ああ……」

 早川は肩をすくめ、笑った。悪びれる様子もなく「そうだったな」と肉を隅に避ける。なんだかその手つきも怪しい。

「肉は俺が焼くから」

 そう言って箸を取ると、不思議と食欲が湧いてきた。肉厚なタンの重みに驚きながら、夏生は網にタンを並べていく。視線を感じ、顔を上げると早川と目が合った。

「なんか……食えそうだわ」

 サッと視線を網に落とし、夏生は言った。

「そうか……良かった。たくさん食ってくれ」

 繕ったような明るい声で早川が言った。

「たくさん食ったら太る」

 何気なく放った言葉で思い知る。自分は、まだ可能性を諦めきれていない。

 食べ終えると、どこに泊まるのかと聞かれた。まだ決まってないと答えると、早川は心底呆れたように言った。

「どうして大阪を待ち合わせ場所にしたんだ」

「それは……お前が行くって言ったからだろ……あれはただの断り文句だったのに」

「だったらそう言うか、素直に嫌だと言えば良かったじゃないか。あんなことをしたんだ。断られることだって覚悟の上だ」

「それは……そうかもしれないけど……」

 早川はスマホを取り出すと、「次のレースは十三日からだよな? それまでこっちにいるつもりか?」と言った。

「まあ……そうだけど」

「なら四泊ホテル取るから、そこに泊まってくれ」

「いや、三泊でいい。前入りするから」

「分かった。三泊だな」

「どこもいっぱいだろ?」

「そう……だな。二泊はできても三泊は……三日目は別のホテルでも良いか?」

 そこで夏生はようやく気づいた。

「お前がホテル代払うのか?」

「当たり前だろ。それくらいする」

「いや、悪いって」

「今日、お前が会ってくれるなんて思わなかった」

「……だから、会うつもりはなかったんだって。お前が大阪まで来るって言うから、振り回すのも悪くないかなって……」

「でも結局、お前の予定も狂った。すっぽかそうとは思わなかったのか? 俺は正直、待ち合わせ場所にお前が来なくても仕方ないと思っていた」

「それ、余計な出費への嫌味か? 俺が来なきゃ、お前は食事代もホテル代も一人分で済んだもんな」

 早川がスマホから顔を上げる。まるで心外だとでも言うように、彼は目尻を吊り上げた。

「そんなこと、微塵も思っていない。勝手に人の心を悪く読み取らないでくれ」

 怒りのスイッチが入ってしまったのか、再びスマホに視線を落とすと、早川はさらに続けた。

「あの時だってそうだ。俺は好意を伝えただけなのに、お前は嫌がらせだとか怒ってるとか……俺の告白を的外れに解釈して騒いだ」

 早川はフッと小さく笑った。

「でも、俺が本気だと分かったら、お前の解釈は的を得るようになった。俺はお前をそういう目で見ていたし、気持ち悪い妄想もたくさんした」

 気持ち悪い妄想、という言葉が浮いて聞こえるのは、それが夏生の言葉だからだろう。

「……悪かったよ」

「いや、むしろお前にどん底まで突き落とされて、良かったよ。そういう気のない人間に思いをぶつけたらどうなるか、あの頃の俺は分かってなかったんだ。お前のおかげで慎重になれたし、あれから大きな失敗もない」

 返すべき言葉が見つからない。じわじわと顔が熱いのは、早川に好意の片鱗があると勘違いして、「俺と付き合えよ」なんて嘯いた愚行を恥じているからだ。

「よし、三泊目も見つかった」

 早川が気を取り直すように言った。

 店を出て、二人でタクシーに乗り込む。早川がドライバーに告げたのは、夏生が値段で弾いていた三つ星ホテルだった。

「お前も一緒に泊んの?」

「安心しろ。俺は別の部屋をとった」

 ホテルに到着し、早川が「待っていて」とフロントへ向かう。シックな雰囲気のロビーには豪華な生花が飾られている。フロントスタッフも洗練されていて、自分は場違いじゃないかと夏生は不安に駆られた。上はナイロンジャケットだしズボンはストレッチが効いている。靴は使い古したスニーカーだ。

 スーツ姿の早川はすっかりこの場に馴染んでいる。愛想よくフロントスタッフとやり取りしている彼を見ていると、彼の恋愛遍歴はどんなものだろうと興味が湧いた。

 あれから大きな失敗もない、ということは、それなりに良い恋愛経験を重ねてきた、ということだろう。相手に選んできたのは、ひどい振り方をした自分とは真逆のタイプだろうか、それとも趣向は変わらず、似たようなタイプだろうか。

 自分を判断基準に考えていて、夏生は苦笑した。彼がどんな相手を選ぼうが、そこに自分は関係ない。

 早川がやってきた。ルームカードを差し出される。

「ちょうどキャンセルが出たから、三泊泊まれるようになった。チェックアウトは十二日の十二時だ」

「ありがとう……」

 早川に罪悪感があったとしても、恨んでいる相手のためにここまでするのは不本意のはずで、内心、苛立っているに違いない。だから無意識に「ごめん」と謝っていた。

「なんの謝罪だよ」

「そりゃ……悪いからに決まってんじゃん。こんな高そうなとこ……」

「大浴場があるらしい」

 早川はそう言って、視線を横に向けた。ガラスで仕切られた奥に湯のマークがある。

「ゆっくり体休めて、次のレースを頑張ってくれ。お前が引退するようなことがあれば、俺は一生お前にしたことを悔やむ」

「だから……お前のせいじゃないから」眼差しから逃げるようにルームカードに視線を落とす。「部屋、行くわ」

「エレベーターはあっちだ。一緒に行こう」

 早川が歩き出し、夏生はその後をついていく形となった。

 二人でエレベーターに乗り込み、早川は十階と十二階を押す。上昇してすぐ、早川は前を見たまま言った。

「俺は大浴場には行かないから」

「え?」

 聞き返した直後、エレベーターが三階で止まった。三階にはトレーニングジムがあるらしく、汗をかいた女性客が乗り込んできた。

 早川を見るが、何も言わない。エレベーターが十階で止まると、まるで他人のように、早川は何も言わずに出て行った。

 十二階でエレベーターを降り、ルームカードに書かれた部屋番号を目指す。

 ドアを開け、カードを壁掛けのカードホルダーに差し込むと、パッと室内が明るくなった。広々としたツインルームに驚いて目を見張る。ここに一人で宿泊するなんて、贅沢にも程がある。

 二人部屋なら、一緒に泊まれば良かったのに。そう思った時、唐突に早川の言葉を理解した。

 俺は大浴場には行かないから。

 あれは、俺への気遣いだ。自分がいたらゆっくり風呂に入れないと思って、早川は「行かない」と伝えてくれたのだ。確かに裸で鉢合わせしたら気まずいしあの日を思い出してしまいそうだが、それでも先回りの気遣いには気恥ずかしさが込み上げる。

 広い部屋で、夏生は途方に暮れた。

 早川は責任を感じている。レースの結果が振るわないのは、自分のせいだと思い込んでいる。決してそんなことはないのに。俺の実力がないだけなのに。

 結果を出すしかないなと思った。ここで足切りの対象となるような走りをしたら、早川は一生責任を感じることになる。大丈夫、いける。自分に言い聞かせた。弱いなりに十年続けられたのだ。我知らず体が震えた。レースを思って武者震いするなど、デビュー戦以来の現象だった。
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